2015年1月1日木曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/佐礼谷線

■終点:佐礼谷(されだに) ※平成23年10月廃止

 県都松山より国道56号線を南西へおよそ30キロのところに伊予市中山町があります。平成の大合併より前には伊予郡の最南端、中予と南予の境目のまち、中山町でありました。

内子側から旧中山町を一望する 奥に立ちはだかるのが犬寄峠
(佐礼谷線ではなく永木線)

  中山町には松山から南予に至る第一の関門、犬寄峠があります。かつては辺りに山犬が多いことから単に「犬吉峠」と呼ばれていましたが、たびたび旅人が襲われたため、いつしか犬寄峠と呼ぶようになったと伝えられています。人よりも犬が偉い、文字通りの「獣道」だったのでしょう。事実、曲がりくねった悪路で、昭和の時代になっても狭いところでは幅2メートルあるかないかという、ずいぶんな難所であったそうです。この汚名が返上されるのは、戦後も下って昭和45年のこと。犬寄峠下を貫く犬寄トンネルの開通を待たねばなりません。

 さて、近世初期まで、中山は大洲藩6万石の領下にある一山村にすぎませんでした。肱川の支流中山川上流の山間盆地で、旅する人たちが犬寄峠の往来の折、一杯の番茶にのどの渇きをいやす茶屋、はたまた木賃宿があるかないかといった程度の村落でありました。しかし、幕藩体制の整備と、それに続く商工業の発展は、村落から宿場町へとその顔を変えていくのです。

旧大洲街道に沿って



 街道の整備が進められるに従って、中山を核として大いに発展する街道筋のなかでも、ひときわ繁栄を享受した集落が、犬寄峠の嶮を間近に控えた佐礼谷です。たとえば、佐礼谷の庄屋・和田家に伝わる『伊予郡南神崎村庄屋記録』によると、寛政元年4月には幕府の諸国巡見使が佐礼谷で休んだことが伝えられていま す。ほかにも大洲藩の参勤交代の中継地に選ばれたことや、そうでなくても犬寄峠が難所であるゆえに、多くの旅人が佐礼谷で羽を休めていったのです。

 歴史などおかまいなしと犬寄トンネルで町を貫く国道から分かれ、旧街道筋を目指す佐礼谷へのバス路線には今も犬寄峠の往時が残っています。佐礼谷終点へは国道から7キロの道のりです。

終点 佐礼谷

 バス通りの家並みにはその様子がうかがえます。白塗りの洋館がかつての郵便局跡であったり、長屋門を構える立派な農家の横を走り抜けたり。和洋折衷の「ハイカラ」な住宅が目立つのも、宿場の繁栄が近世に続いていたからこそに他なりません。

 街道が運んできたものは、人だけではありません。必ず文化がもたらされます。車窓に目立つ「ハイカラ」洋館もそのひとつだと言えましょうが、佐礼谷に持ち込まれ根付いた文化というと、俳句を外しては語ることができないでしょう。

後ろの洋館が旧佐礼谷郵便局 昭和2年築

 「里やあるけふり横たふ秋のくれ」

 佐礼谷を好み享和年間に当地で閑居した大洲藩士・田辺文里が詠んだ一句です。山間の小さくも栄えた佐礼谷の様子が浮かんでくるようです。田辺は芭蕉の研究者としても名高く、彼が寺子屋を開くことにより、中山には一気に蕉風が広がりました。

 この俳句文化は明治維新やその後の戦争など幾多の苦難にも負けず、いまでも「佐礼谷むささび俳句会」「中山町俳句会」ほか複数の俳句会が中心となり受け継がれています。

 「住みなれし山里の空燕去る」
  中山町俳句会員の谷口米子[1]さんが平成8年に詠まれた近句です。

 ご多分にもれず、ゆるやかに過疎の波に洗われている佐礼谷ですが、確かに街道の記憶は集落の文化として現代まで受け伝えられています。私が燕の帰ってくる春へ期待をかけるのは、街角の端々から気品を感じる佐礼谷にすっかり魅せられてしまったからに他なりません。


[1]中山町誌(中山町史編さん委員会、平成8年1月31日発行)から引用しました。問題があるようでしたら書き換えます。

■伊予鉄道佐礼谷線・竹之内線の歩み -附 伊予鉄道内子線ことはじめ-
**発展史**
 ながらく鉄道とは縁遠い地域であった中山において、交通機関といえば昔は人力車でした。人力車が世に出たのは明治初期のことで、中山には明治末期に10台の車があったと伝えられています。その前後して乗合馬車が登場しました。内子町の徳岡文四郎氏がはじめた内子・中山・郡中を結ぶ馬車は、6人乗りでその当時の料金が中山から郡中まで32銭だったといいます。

 この徳岡氏は先見の明がある人物で、自動車が時代の趨勢であると見るや、大正12年に内子自動車株式会社を設立、すぐに馬車を廃しバスに転業しています。こうして中山の地に内子・中山・松山を結ぶバスが走り始めることになりました。

 さて、この頃の乗合自動車と切っても切り離せない話といえば、やはり同業他社との過当競争です。内子自動車の沿線でも、中央自動車、愛媛自動車、大洲自動車の各社がしのぎを削って争うありさまで、全くの乱戦状態でした。そのため自主的統合の機運が生まれ、近隣の中央自動車(松山)と愛媛自動車(松山)が主導した共同経営組合である「三社共同自動車組合」が昭和4年に発足するとこれに加入しています。

 この組合各社は昭和8年5月に合併、「三共自動車」へと発展的解消を果たし、同時に内子・中山・松山線も三共自動車の運行に変わります。ここまでのダイヤ、運賃、車両等は全て不明ながら、三共移管後の昭和10年にはフォード8人乗りが1日2往復していたという記録が残っています。

 そのほか三共自動車当時の主な動きとしては、発足と同時に国有鉄道との連帯運輸を開始したことと、昭和11年5月より郵便物の併送を開始したことが挙げられます。また時局柄、代燃化が推められたことも記しておかねばならないでしょう。同社では昭和15年12月から代燃化改造が始められており、休車等一部を除いて18年までには改造が完了していることから、中山方面線でもこのあいだに代燃車へと置き換えられたものだと考えられます。

 そして、いよいよ敗色が濃くなってきた頃、またしても路線の運行会社が変わることになります。次なる運行会社は現在まで続く伊予鉄道です。同社は鉄軌道事業の補強策としてかねてより発行済株式の6割を握るなど三共の経営に参画していたのですが、そこに陸上交通事業調整法の施行(注:ただし伊予鉄道は同法の対象とはされていない)などに由来する交通事業者の統合機運も相まって、昭和18年12月23日付で吸収合併することとなったのです。

 この合併に際しては、戦時下ということもあり、不要不急路線の運行休止が数多く行われています。三共は53の免許路線を持っていたのですが、既に休止していた22路線のみならず、あらためて不要だと判断された路線についても休止され、伊予鉄道に運行が引き継がれたのはわずか16路線のみでした。

 内子線は代替交通機関が一切ないということもあり、流石に存続はしていますが、非力な代燃車のうえ、木炭の配給ですら事欠く世情を考えると、とうてい満足のいく運行が行われたとは思えません。このように首の皮一枚でなんとか終戦を迎えることになるのです。

 戦後の本格復興は昭和22年からはじまります。6月の石油配給公団設立によりガソリンの供給が徐々に安定化されていったことなどが理由です。同年には新車の割り当ても復活しており、昭和24年1月には戦後復興期の象徴とも言えるトレーラーバスが松山市内にお目見えしています。路線の面では、まず松山市内を中心として休止路線が順次復旧し、続いて地方の休止路線復活、そして純粋な新路線の開設(昭和24年に10路線、25年に14路線)と目覚ましい復旧・発展を遂げることになるのです。

内子管内路線図
トンネル建設に伴う切替で
開業当時とは一部異なる
  このようななか昭和26年に開設された12の新路線のうちのひとつとして、内子線の支線的性格を持つ佐礼谷線が3月2日に運行をはじめています。同線が免許されたのは2月2日。既存内子線の伊予郡上灘町丙1226番地から、同郡佐礼谷村乙132までの、5.0キロの区間です。開業時のダイヤは佐礼谷を7時半に出て郡中に8時着、郡中を17時半に出て佐礼谷に18時に戻ってくる1往復きりのダイヤで、運賃は全行路で大人38円でした。延伸に伴う新設停留所は、仁生から佐礼谷までの5箇所、加えて佐礼谷に車庫が設置されています。

 当時の運輸省文書によると、開業にあたり常用とされた車両は既所有の昭和23年式ニッサン「2B50」形式で、総定員は35人、ガソリンエンジン車ながら木炭発生炉つき、ということですが、該当する形式が思い当たりません。年式と燃料種別が正しいとすると、戦時型トラックシャーシを利用したニッサン(日産重工業→日産自動車)180型ないし190型だと思われますが定かではありません。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。なお、佐礼谷へ木炭車が入ったのは僅かな期間だと思われます。佐礼谷線が開業した翌月に石油行政権がGHQから日本政府へとを委譲されているのですが、これに石油事情のさらなる好転などが相まり、それまで禁止されていた代燃車からガソリン車への転換・復原が一転して推奨されるようになったのです。

社内報より竹之内線開業記事
  ともかく、このような形で佐礼谷にバスが乗り入れてきました。これにより松山方面へのアクセスは劇的に改善されましたが、佐礼谷は中山町に属していますから役場のある中山方面への直達便が次に求められるようになりました。そんな要望を受けて昭和32年4月1日から、佐礼谷方面に新たな路線が拓かれたのです。

 既存佐礼谷線の途中、佐礼谷局前停留所から、中山に近い内子線長沢までをショートカットする新たな経路を設け、松山と中山・内子方面を結ぶ便を佐礼谷局前経由へ変更するというものです。この運行に先立ち、昭和32年3月22日、中山町佐礼谷丙1070の1から中山町子448の1まで、2.1キロの間が竹之内線として免許されています。

 この変更により、佐礼谷線開業当初に設定された郡中・佐礼谷間の便と合わせて、内子発7時、13時10分、16時20分の松山行き、松山発6時半の鹿野川行きおよび13時、19時半発の内子行きが佐礼谷集落(佐礼谷停留所には入らない)を経由するように改められました。結果、実に本数にして4倍、松山側・中山側双方の滞在時間も大幅に長くなるという、たいへん利便的なダイヤとなったのです。

**衰退史**
 以降については、断片的な資料しかありませんので、わかる範囲でのみ記述します。

 まず、佐礼谷・郡中線(昭和26年開業区間)の松山市駅延伸時期についてです。
 佐礼谷線運行開始から県バス協会年報で確認できる昭和38年までの間において、全便郡中までであったものがいつの間にか0.5往復を残して松山市駅まで延伸されています。【昭和58年10月16日改正】時刻表をみても、佐礼谷方面行きは郡中始発11時半と松山市駅17時半、松山方面行きは2便とも市駅行きで7時15分発と12時7分発となっており、おそらく昭和38年以降、大規模な時刻改正は行われていないものと思われます。
 そんなわけで、市駅乗り入れの時期については、竹之内線が運行をはじめた昭和32年改正が最も自然だと考えております。

 そして、佐礼谷・郡中・松山市駅直通便の廃止時期ですが、伊予鉄道百年史で確認することが出来る【昭和60年11月15日現在】の運行回数表では、毎日1往復の運行を確認することができるものの、【平成2年12月25日】改正時刻表では全く確認できません。
 よって、 昭和58年から60年にかけて1往復化、そののち平成2年までに佐礼谷局前・佐礼谷間の路線もろとも廃止されたと考えられます。

 最後に、竹之内線開通に合わせて設定された佐礼谷局前経由便についてです。
 【平成2年12月25日改正】時刻表によると、上りが五十崎始発の松山市駅行きと内子始発の佐礼谷局前行き、下りが佐礼谷局前始発の中山行きと同じく佐礼谷局前始発の内子行き、そして松山市駅発の五十崎行きの、上り2本下り3本の2.5往復が設定されています。
 【平成5年10月16日改正】では、松山市駅乗り入れは上りのみの0.5往復に、全体でも2往復になっています。
 【平成6年3月16日改正】では、松山市駅乗り入れが廃止され、1.5往復に。更に朝の佐礼谷局前始発、夜の佐礼谷局前終着がともになくなっているので、夜間滞泊が存在していたとすると、この改正で廃止された可能性が高そうです。
 次に大きな変化が見られるのは、【平成9年4月1日改正】の時刻表で、ダイヤは基本的に変わらないものの、佐礼谷局前・佐礼谷間が久しぶりに復活しています。以前、運転士さんに伺ったところによると、通学生の利便を図って延伸したとのことでした。(追記:1)
 【平成11年9月8日改正】も、1.5往復の基本ダイヤは変わらないものの、更に通学生の利便を図って、下校便に冬ダイヤと夏ダイヤが設定されています。
 しかし、既述の通り【平成23年10月改正】で全便廃止となっています。それにしても、最後は12年以上に渡ってダイヤが全く変わっていなかったのですね。

佐礼谷線免許 これで待ちに待ったバスがくる
**佐礼谷線のその後**
 伊予市では、平成21年2月より、過疎地域住民を対象とした公共交通機関に関するアンケート調査の実施や、佐礼谷地区を含む当時の路線バス運行地域における意見交換会の開催を通して、新たな公共交通システムの導入に向けて検討を行ってきました。
 その結果、市営過疎バス(廃止代替バス)を含む路線バスの大幅な削減と、デマンド型乗合タクシーの導入が決まり、平成23年9月15日から月末まで行われた試験運行を経て、10月より路線バス廃止と引き換えに本格導入が行われました。
 したがって、佐礼谷線の沿線には、代替バス等も全く走っていません。

 デマンド型乗合タクシーは事前登録が必須であることなど、旅行者には冷たい乗り物です。しかし、登録さえしてしまうと、乗車の1時間前までに電話予約をするだけで、ドアtoドアのサービスが300円均一という低廉な価格で受けられるのです。
 バスファンとして寂しく思う気持ちはありますが、地域の実情にマッチしている素晴らしいシステムであるとも思っています。

(追記:1) twitter @sland81 さんより、情報をいただきまして、佐礼谷までの運行が復活した【9年4月改正】は佐礼谷中の閉校と同じタイミングとのことです。ありがとうございます。

(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください)

2014年11月1日土曜日

【バス終点】伊予鉄道/松山空港線

■終点:湧ヶ淵(わきがふち)

 道後へ向かう入湯客を巡って伊予鉄道と松山電気軌道が熾烈な誘客合戦を繰り広げたことは、松山の歴史を知る者にとっておおよそ有名なことでしょう。道後行き電車が発車するたびに駅頭で客引きの鐘を鳴らしあったというエピソードは今でも語り継がれています。

 しかしながら、両社の争いが鉄道線路から遠く離れた地でも繰り広げられていたことは、あまり知られていないようです。

 いま松山の街を訪れてみると、かつて争いの象徴とされた道後行き電車の横を「湧ヶ淵」という行き先を掲げた松山空港線のローカルバスが走っています。おおよそ路線名には似合わない行き先ですが、それもそのはず。この路線の終点は、空港からまちなかを横断し、石手川の奥へとずいぶんと進んだ幽谷にあるのですから。
 そして、この終点の幽谷こそが、伊予鉄と松電、もうひとつの争いの舞台。明治の終わり頃には水力発電をめぐる「エレキ戦争」が、ここ湧ヶ淵で繰り広げられていたのです。

道路の向こうに石手川が流れる 伊予水力の発電所は対岸にあった

 この地にはじめて発電所を設けられたのは明治36年のことで、伊予鉄道と資本的なつながりがあった伊予水力発電会社の手によるものでした。急峻な石手川の流れを利用した四国でもはじめての水力発電所で、この完成により松山平野に電灯が灯されたのです。

 戦いの火蓋が切って落とされるのは、その8年後となる明治44年。湧ヶ淵のすぐ下流に松山電気軌道会社がダムを造り、大規模な発電所を建設したのです。三津浜と松山を結ぶ新しい電車軌道の開業にあたって不可欠なものでした。
 この発電所は先にできた伊予水力のものよりはるかに大きなスケールだったそうで、自社路線と競合する鉄道が敷設されることに反対する伊予鉄の思惑も相まり、ダム建設や送水管敷設にあたっては伊予水力側があの手この手で嫌がらせにでたそうです。

 もちろん、松山電軌も負けずといがみ合い、ふたつの電力・鉄道会社がさながら産業スパイ合戦を演じることになります。やれ「あの請負人は伊予水力のまわし者じゃ」「あの人夫がセメントの横流しをしとる」などと、地元民まで巻き込んで平和な幽谷は大騒動。ついには裁判沙汰にまで発展し、発電所や鉄道の完成後も長く対立が続いたといいます。

 この騒動がようやく収まり、湧ヶ淵に静けさが戻ってきたのは、伊予水力も松山電軌も全て伊予鉄道に合併(合併後、伊予鉄道電気へ社名変更)された大正10年のこと。この地にはじめてバスが乗り入れる3年前の出来事でありました。

 爾来1世紀、湧ヶ淵は静かな場所であり続けています。石手川の滔々とした流れだけが明治の頃へと思いを馳せさせてくれますが、折返しを待つ間、しばしの休憩をとる空港線のローカルバスには知る由もないことです。

湧ヶ淵から少し下ると旧国鉄の郵便気動車を転用したレストランも オススメです
■伊予鉄道松山空港線沿革(但し、路線東部の松山駅前・湧ヶ淵間に限る)
 松山空港線の歴史は、大正13年6月に道後在住の個人(山崎朝勝氏)によって、道後自動車と称するバスの運行が松山・道後・宿野々間で行われたことにまで遡ることができます。これはどちらかというと、現在、松山市駅と米野々を結んでいる河中線の原型に近いものですが、ここ湧ヶ淵や湯山の地にバスが乗り入れたのは、この時がはじめてです。

 この河中方面線の運行母体は中予地方の多くのバス路線と同様、三共自動車を経て第二次大戦末期の昭和19年には伊予鉄道の手に移りますが、その後まもなく休止されたようで、運行が再開されるのは戦後混乱期を脱しつつある昭和24年まで待たねばなりませんでした。そして再開時、湯山方面への路線は、松山市駅を起点に新立から石手川の土手に沿って湯山や河中に至る河中線と、旧来の経路通り道後を起点に石手に至る石手線の2路線2系統に分離・拡充されています。

 このうちの石手線は、時期不詳ながら松山市駅・道後間および石手・湯之元間を延伸し湯之元線へと改称。そののち松山駅への乗り入れをはさんで、昭和39年12月にはさらに湧ヶ淵まで延伸されたうえ、奥道後線と再改称されています。これは、湧ヶ淵の近隣に「奥道後温泉観光ホテル」 という一大レジャーホテルが開業したことに伴うものでした。ここに松山駅・松山市駅・石手寺前・湧ヶ淵(なお、道後温泉駅前に関しては、奥道後方面行きのみ停車)を結ぶ、現松山空港線の直接の原型とも言える路線が生まれるのです。なお、このときはじめて湧ヶ淵に折り返し場が設けられました。

 奥道後線運行開始後の大きな動きとしては、昭和61年の湯の山ニュータウン入居に伴う乗り入れ開始(同時に上下便とも道後温泉駅前への停車を開始)および区間便の設定と、平成2年12月の路線再編が挙げられます。特に後者は、それまで松山空港・道後温泉駅前を結んでいた(旧)松山空港線と統合する大改変で、これ以降、松山空港から湧ヶ淵までロングランする(新)松山空港線として、路線名と運行区間を変えて現在に至っています。

空港連絡や観光輸送と並んで、ニュータウン路線としての顔も持つ

一番町付近経路図(クリックで拡大)

 最後に当路線(東側区間)で特筆される特徴をふたつ紹介して
おきましょう。
 まずひとつめは、郊外バスながら市内バス専用の一番町停留所に停車することです。これはロープウェイ街を経由する湯山方面行きの便に限ったことで、大街道停留所に停車できない代替措置です。都心ならではの特例で、市内バス用の停留所に郊外バスが停車する唯一の事例です。路線上には他にも市内バス専用の義安寺前停留所がありますが、もちろんこちらは通過しています。
 ふたつめは、お客さんを乗せたままターンテーブルを利用することです。袋小路となっている道後温泉駅前バスターミナルの奥には転回用のターンテーブルがあり、道後温泉駅前発着便はこれを必ず利用することになります。殆どの一般路線は道後温泉駅前を起終点としていますが、松山空港線に限っては経路途中となるため、このようなことが起こるのです。たいへん珍しい光景です。

■四国電力湯山発電所
 「エレキ戦争」の舞台となったこれらの発電所は、戦争の時代を経て、全て四国電力へと引き継がれました。現在でも昭和32年に統合のうえ全面改築された湯山発電所(正確には全て廃止のうえ、直後に新設)が稼働しており、最大で3400kWhの電力を生み出し続けています。
 近隣の西条火力発電所(計406,000kW)や伊方原子力発電所(計2,022,000kW)と比べると極小規模とはいえ、伊予水力の発電所は260kW、「大規模」とされた松山電軌のものでも537kWであったことを思うと、隔世の感がありますね。
 その変遷を以下にまとめました。(クリックで拡大)


 なお、現在の湯山発電所は、旧第二、第三発電所の敷地内に建っています。

 (誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/松山空港線の西半分(道後温泉・松山空港間/旧松山空港線区間)および河中線に関しては、稿を改めて紹介します。 )
※奥道後・空港両線の統合時期に誤りがあり、訂正いたしました。ご教示くださりありがとうございました。

2014年10月30日木曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/杣野線

■終点:杣野前組(そまのまえぐみ) ※平成26年10月1日廃止

 久万の営業所を出発したロートルバスは、いつしか暗い杉林のなか、ヘッドライトを灯して走っています。
 そして、いまが真っ昼間であることを忘れそうになったころ、終点に着くのです。

後ろには放棄林が 顔に陽が当たる区間はほんの僅かばかり

 杣野前組は、山林面積が9割を超えている久万高原町にあっても、 ひときわ目立つ純山村です。バス停の北側にわずかばかり広がる急な段畑が、集落の平地全てと言っても過言ではなく、農業といえばそこでタバコや茶などが栽培されているにすぎません。

 ここは、杣夫が築いた、林業のための集落なのです。
 「前組」という一風変わったバス停の名前は、その成り立ちをよく示しています。江戸時代の杣夫たちが指導者のもとで集まり、杣小屋で共同生活を行うことを「組」と呼ぶのですが、前組とは、まさにこの「組」から取られた地名だと思われます。

 はたして冬季の寒冷は厳しく積雪も多い当地は、長らく人里からは遠いところであったと考えられ、いつ拓かれたか、詳しいことは全くわかりません。
 とはいえ、あたり一帯では「若宮」と呼ばれる杣夫が郷土開拓の神として祀られており(「若宮信仰」)、ここはやはり古よりずっと木々とともに暮らしてきた集落なのでしょう。

県道が交差する場所にある終点だけは開けていた 集落はここから北へ階段状に広がっている

 それにしても、どうしてこんな山深くで人々の営みが生まれたのでしょうか。それはひとえに、四国でも有数の寒冷地であったからです。寒冷地で少しづつ育った木々は、年輪の目が細かく、美しい杢目と強度を併せ持つ名木になるのです。

 杣野がいかに良材を生み出したかを伝える話が『面河村名所旧蹟史』にあります。ろくろを使って椀や盆を作る木地師「小椋氏」が、わざわざ名木を求めて京都から移り住んできたというものです。美作や備後を経て、ようやく辿り着いた土地が、ここ杣野なのでした。江戸時代には、この静かな山村で作られた椀や盆が、割石峠を越え、松山を経て大坂の木地問屋に出荷されていたといいます。

 しかし、戦後になると、多くの山村の例に漏れず、杣野の林業は壊滅します。燃料革命に加えて、木材輸入の自由化が追い打ちをかけたのです。ことに他に頼る産業のない杣野では、この変化に対応できるはずもありません。

前組の手前にある宮前集落 廃屋が痛々しい

 バスが入る前年、昭和35年に596人を誇った前組の人口は、わずか19年後の昭和54年には181人へと激減し、この年には地区で唯一の学校であった石墨小学校が閉校しています。そこから5年後の59年にははやくも100人を割り込んでおり、更に30年を経た現在の人口は、推して知るべしだと言えましょう。

 もちろん、バスの本数もそれに合わせるように削減されました。平成初期までは、朝と昼に集落を出発し、昼と夕方に戻ってくるという、2往復ながら実用的なダイヤであったのが、最末期には1往復、それも昼間に集落へ向かい、すぐ折り返すだけの、使いたくても使えないダイヤに変わってしまったのです。

バス停から少し離れたところに車庫が残っている 滞泊の名残である

 木漏れ日の道だったであろうバス通りも、いつの頃からか無造作に茂る放棄林にかこまれて、万年日陰となってしまいました。杣夫の村が嘘のようです。

 それでも伊予鉄バスは、薄暗さに負けぬようヘッドライトを灯し、老体に鞭打って、なんとか頑張ってきました。ですが、それももう限界。
杣夫どころか、集落そのものが消えていこうとしている杣野前組には、定員56名のバスは大きすぎたのです。

 こうして、平成26年10月、伊予鉄南予バスらしいローカル線が、またひとつ消えていきました。


■伊予鉄道自動車部久万営業所管内路線成立史
 現在の久万高原町域にはじめてバスがお目見えしたのは、大正8年のことです。広島県加計町の児玉氏と香川県大川郡の小西氏による共同出資により設立された中予自動車商会の手によって、松山の河原町(立花旅館前、立花橋の南詰、実際は立花町にあった)と久万を結ぶ路線の運行が始められました。

 なお、その後の同区間では複数社による過当競争や、三共自動車によるそれらの統合、鉄道省による路線買収など様々な動きが見られますが、現在のジェイアール四国バス久万高原線(昭和9年に三共自動車から松山・久万・落出間を買収)に当たる区間ですので、 当稿では割愛いたします。

 改めて現在の伊予鉄南予バス久万営業所管内の営業路線に焦点を当てると、最も古いのは仕七川・久万(・松山)間で、大正12年に面河自動車の手によって運行が始められています。同社は久万町の小倉氏、湯浅氏、仕七川村の新谷氏らによって同年に設立されており、後に中央自動車、三共自動車を経て、昭和19年に伊予鉄道へと吸収されます。

 仕七川・久万間運行開始後の展開は不明ながら、伊予鉄道がバス事業を開始した時点では、上述の仕七川方面線の区間を含む御三戸・栃原間と、通仙橋・渋草間、仕七川・水押間、久万・畑野川間の4路線(免許交付日は全て18年12月23日)がありました。おそらく省営バスと連絡する御三戸ないし久万を起点に各終点を結んでいたと思われます。

 戦後の拡充は、まず昭和23年に栃原・若山間が延伸されたことに始まります。昭和24年には畑野川・上直瀬間(現在とは異なり、現県道153号線経由)が開通、そして昭和25年には清瀬橋・仕七川間が開通し、現在のメインルートである嵯峨山を経由(但し、峠御堂トンネル開通前につき中野村経由)する久万発、若山、渋草、水押行きの運行も始まります。

 なおも路線拡大はとどまることを知らず、昭和26年の渋草・竹本間延伸に続いて、昭和27年には若山・関門(昭和30年に面河と改称か?時期不明)間が延伸開業。昭和30年には国鉄との相互乗入協定(久万・御三戸・面河間)の発効に伴う御三戸発着便の久万延長(久万・御三戸開業)も行われています。

 幹線ルートの整備が一段落した昭和30年代には、枝線の開設・延伸が相次ぎます。まず昭和32年には伊予落合・富重間、直瀬公会堂・清瀬橋間、畑野川・明杖間が一挙に開通。昭和36年には一の谷・杣野前組間(杣野線)と久万・久万役場間(久万以遠線)が、昭和37年には明杖・河之内間(河之内線)がそれぞれ開通しています。

 なお、富重延伸をもって小田線と接続し、それまで孤立していた存在であった久万管内線は、松山を中心とした伊予鉄バスネットワークに組み込まれていくことになります。河之内線開業と同じ昭和37年には、室町営業所所管路線ながら、黒森峠経由で松山・面河を直結する面河特急線が開業。その3年後の昭和40年には念願であった松山・久万(・面河)間の直通快速バス(久万特急線)も実現しています。

 この久万特急線の開業をもって久万管内の路線拡大にはほぼ終止符が打たれたと言っても過言ではなく、昭和40年代の新規開業は石鎚スカイライン開通に伴う昭和45年の面河・石鎚土小屋間延伸のみです。そして、峠御堂トンネル供用開始による久万中学校前・畑野川間の短絡ルートが開業した昭和50年に、久万営業所管内の路線網はピークを迎えるのです。

※稿を改めて路線廃止についてもまとめます。/富重線の馬野地乗り入れは、学校統廃合によるもので、(確か)平成20年の延伸です。久万管内で最も新しい区間ということになります。(とはいえ、森松管内線であった小田・久万線の部分復活ですが。)/昭和37年の路線図表において、水押の一つ先に「峠」というバス停が見受けられます。詳細はわかりません。/県道153号線経由の畑野川・峠・直瀬公会堂間は昭和58年時点で存在していませんが、廃止の時期は不明です。

(主要参考文献)
面河村史/伊予鉄道百年史/社内報「いよてつ」各号/県バス協会年報各号/S58年秋時刻表
※参考文献の適当な書き方でもわかる通り、あくまで「参考程度の読み物」として捉えてください。
※事実誤認等、内容に関することについてご教示いただけると喜びます。

2014年10月23日木曜日

伊予鉄バス創業のころ

■はじめに
伊予鉄グループは四国最古の鉄道会社であるとともに、愛媛県で最大の規模を誇るバス会社であることは既知の通りですが、高名な<坊っちゃん列車>に象徴される鉄道創業期に対して、バス事業創業期のことについてはあまり知られていないように思われます。

しかしながら、伊予鉄道は愛媛県で最古の歴史を持つバス会社でもあります。大正5年11月3日に<伊予自動車>という事業者が八幡浜・郡中間でバス営業をはじめるのですが、ここに伊予鉄バスの源流を求めることができるのです。しかし、このことは伊予鉄道史の集大成とも言える『伊予鉄道百年史』をはじめ、節目ごとに出版された社史のなかで、殆ど触れられていません。確かに伊予自動車創業当時は伊予鉄道と資本関係などはなく、それどころか後に郡中と道後の間で鉄道と競合関係になる*1こともあり、記述が薄くなるのは仕方のない事かもしれませんが、残念なことです。そんな伊予自動車創業の頃の姿を、県旅客自動車協会資料や、関係市町村の資料、関係者の回想録などによって、いまいちど整理しておきます。

<郡中バス停> 乗り換えが必要ながら、今でも八幡浜まで路線が繋がる。
 ■伊予自動車(伊予鉄バス)創業のころ
佐田岬半島の付け根に位置する八幡浜は、天然の良港を有し、古くから大洲藩の外港として栄えていました。近代に入っても、その資本力や立地を活かして製糸業を始めとする諸産業が興り、大正期には<四国のマンチェスター>と称されるなど、栄華を極めていました。

ですが、県都・松山との交通には恵まれておりませんでした。大正初年当時、八幡浜と松山を行き来する一般的なルートは、佐田岬半島を大きく迂回する1日1便の汽船*2を使うというもので、松山で所用を足すには、日帰りは無論、1泊2日でも厳しく、折悪しく嵐にでも出会うものなら片道で3日、4日はたっぷり費やしたそうです。

こんな有り様ですから、愛媛県で最も早く本格的なバス運行が立案されたのも自然な話で、大正3年頃に八幡浜の開業医であった上甲簾氏によって、松山を目指す伊予自動車の創業が計画されます。株式募集に苦労したようで、計画から月日が開くものの、大正5年9月に資本金5千円にて設立がなり、先述の通り11月3日から郡中・八幡浜間で運輸営業を始めます。もっとも、詳細は不明ながら、夏頃には既に大洲と八幡浜の間でバスを走らせていたそうで、大らかな当時の世情が目に浮かんできます。

設立時のダイヤは2日で1往復。どちらかを朝に出て夕方に到着するという、至極のんびりしたものでした。当初こそ伊予鉄道線と郡中で連絡する形をとりましたが、翌年には松山を経由して道後湯之町まで乗り入れるようになります。詳しい運賃は不明ながら、愛媛県の保安課長などを歴任した岡井義雄氏の手記によると、大正7年頃は松山まで6円50銭くらいであったそうです。

開業時に用いられた車両はたったの1台。記念すべき愛媛県登録ナンバーの1番となったのは、小倉のカンジ商会なる商社を通じて購入された中古車で、米・ハドソン社製のHudson "Twenty"*3。前年に死去した佐久間左馬太元台湾総督が自家用車として使用していたものだそうです。

道後延伸がなり、利用客が増加した翌大正6年には3台が増備されますが、こちらも全てが中古車ないし再生車で、2番および3番が小田原電気鉄道*4の中古となる米・スチュードベーカー社製の1915年式 Studebaker、4番は忌番として飛び、5番が東京自動車飛行機製作所なる会社で製作されたフィアット再生車*5の<剣号*6>でした。
 ちなみに、初めての新車は米・オーバーランド製のもの*7で、大正8年に導入されています。

なお、県外からやってきたのは車両だけではなく、運転士や整備士も東京から招聘されました。愛媛県初のバス会社ならではだと言えましょう。
 (補足:当時の営業拠点の場所は、今のところ不詳です。現在の南予バス八幡浜営業所の位置=代官屋敷跡に移転したのは、大正12年とのこと。)

さて、このような形で走り始めた路線バスですが、なにぶん大正期のこと、一筋縄ではいかなかったようで、数々の問題がおこっています。車両の異常はその最たるものでしょう。パンクしたタイヤに藁を詰めて走ることなどは日常茶飯事で、郡中までの間に二十数回パンクして夜が明けたこともあったそうです。エンジンや電装系の故障も頻発し、面白いものでは運行中に前照灯が壊れたため、車掌がボンネットに馬乗りとなって提灯を掲げたなどというエピソードもあります。特に八幡浜と大洲を隔てる夜昼峠はクルマに大きな負荷がかかったようで、峠を越えて大洲に無事到着すると、わざわざ電報で八幡浜本社に安着を連絡するという決まりまでありました。
また、同時期の多くのバス会社と同様、箱馬車との紛争も激しく、馬車夫が自動車を取り囲み発車の妨害をし、流血騒ぎとまでなった事件もあったそうです。

<大洲本町案内所> 昭和戦前期のミルクホールを改装した建物が今も残る。
■まもなく創業100年
ここまで見てきたように、伊予鉄バス創業のころは、こんな時代でした。ポンコツ車が行って帰るだけの路線、パンクと闘い、馬車夫とわたり合いながら、土煙あがる凸凹道を必死に走っていたことでしょう。
ノンステップバスが頻発する現代の松山市駅前からは全く想像もつかない姿が、伊予鉄バスの源流にあるのです。

最後に、伊予自動車から伊予鉄道自動車部への変遷を、簡単に触れておきましょう。大正期は愛媛県においても中小バス事業者が乱立した時期で、八幡浜近辺でも大洲に予州自動車が、内子に内子自動車が次々に設立されています。もちろん、伊予自動車を巻き込んだ激しい競争が起こり、次第にバス会社統合の機運が高まっていくのです。結果、まず大正15年に松山の中予自動車と合併し中央自動車に、昭和8年には近隣事業者と更なる合併を行い三共自動車に、そして昭和19年に三共自動車が伊予鉄道に吸収合併され現在へつながってきます。この辺りの経緯は百年史などに詳しく、そちらも参照してください。

※伊予自動車はあくまで愛媛県初のバス会社、かつ現代まで途切れることなく続いている会社・路線であって、個人営業のバスですと先行する事例があります。明治43年に石井氏によって、 堀江(現在の堀江郵便局前あたり)と山越(<松屋旅館>付近らしいです。どこなんでしょうか。)の間でバス営業が行われたのですが、半年ほどで廃業しています。

*1: 大正6年にバスは郡中道後間延伸 *2:宇和島運輸会社、松山側の寄港地は郡中ならびに高浜 *3:年式不詳 *4:現在の箱根登山バス *5:シャーシ、エンジン等流用 *6:年式不明、おそらく1917年製造、ひらがな表記の文献もあり *7:形式不詳、導入年度から推察するにModel83ないし90

2014年8月21日木曜日

【バス終点】てんてつバス/達布留萌線

■終点:達布学校前(たっぷがっこうまえ)

留萌から北東におよそ30キロ、日本海へと注ぐ小平蘂川に沿ってきた山行きバスは、夏草の中をバッタが飛び交う、荒涼とした終点につきました。
ここ達布は、アイヌ語で「湾曲した川に囲まれた内陸の地」を意味する地で、その名の通り小平蘂川に育まれた稲穂がただただ広がる、ちいさな山間の町です。  


今からでは想像もつきませんが、かつてここには、北炭・天塩炭鉱(達布炭鉱)がありました。
達布には映画館から銭湯、商店街まで、おおよそ生活に必要な物が揃っていたことでしょう。

もちろん、閉山から半世紀を経て、当時の面影は殆ど残されていません。
最後に残った旅館は5年ほど前に、同じく最後の食堂は今年の頭に暖簾を下ろしたとのこと。
バスの終点でもある学校も、廃校となって久しいそうです。


そんななか、数少ない名残が、この「てんてつバス」、旧天塩鉄道バスに見られます。
町の中央部にある、廃屋に囲まれて佇む古びたバス営業所は、かつて石炭を運び出した鉄道の駅事務所であった建物なのです。

営業所は、達布の盛衰をつぶさに見てきました。
炭鉱が消え、鉄道が消え、営林署が消え、小学校が消え…。
変わりゆく町の中で、ただひとつの変わらなかった空間なのかもしれません。


ですが、そんな営業所も、次の冬を迎えることはありません。
古くは、年の瀬や留萌の夏祭りのときなど、鈴なりのお客さんを乗せたという達布留萌線も、今年の9月をもって廃止されることが決まっているのです。
運転士さんによると、営業所の建物も運命を同じくするそうです。

ヤマの街が、またひとつ森に還ろうとしています。


(26年8月訪問)

■ 達布営業所
営業所としての機能は既にありませんが、乗務員休憩所としては現役です。
全国的に見ても歴史ある建物が使われている出張所でしょう。
中には、戦前から使われているであろう「乘車券貯蔵箱」まであります。
乗務員休憩所のストーブの横に、外気温の書き込みがされたカレンダーが掲げられていたのが印象的でした。2014年の最高気温は摂氏34度、最低はマイナス25度だそう。

■達布炭鉱
留萌炭田地帯には、ほかにも留萌線沿線の大和田炭鉱や、留萌鉄道沿線の昭和炭鉱や羽幌炭鉱がありますが、達布炭鉱はこれらに比べて小規模で、採鉱時期も短いものでした。達布の入植=貸下げ自体が始まったのは明治40年のことながら、炭鉱が開発されたのは昭和14年から、鉄道が引かれたのは日米開戦後の同17年と、時代をかなり下らねばなりません。閉山は同42年、鉄道の廃止が47年ですから、達布が炭鉱で栄えたのは30年に満たなかったことになります。あえかな炭鉱町でした。

2014年8月9日土曜日

【バス終点】山梨交通/南アルプス登山バス


■終点:広河原(ひろがわら)
「広河原行きの快速です、乗りますか?」「発車、オーライ!」「お釣り、100円です。」

甲府駅発広河原行きの快速バスでは、停留所ごと、車掌さんの声が車内に響きます。

バスの車掌さん。
「となりのトトロ」の世界です。ワンマンバスが普及していない昭和中頃までは当たり前の光景だったことでしょう。しかし、私のような平成生まれにとっては、無縁なものだとばかり思っていました。


山梨交通に車掌乗務の路線があると聞いたのは昨年の春ごろ。
なんでも、南アルプス登山者向けの季節運行路線に、車掌さんが乗っているというのです。

季節限定とはいえ、きちんと路線免許の交付を受けた一般路線バスです。ボンネットバスを用いるなど、いかにもな観光路線風ではなく、ごく普通の中型車で運行されるというのも嬉しいところ。

さて、この路線のハイライトはなんといっても、芦安を過ぎて、白鳳渓谷の断崖絶壁に沿って伸びるバス・タクシー専用道。この美しくも危険な道がツーマンの理由でもあります。車掌さんと運転士さん、息のあった指差喚呼に、手際の良い無線交信で、狭隘区間での離合もなんのその、満員の登山客をしっかりと終点へと送り届けているのです。


今なお残る、正統派ツーマンバス。車窓から望む白凰渓谷の渓谷美と共に、後世まで残って欲しいバスがある風景です。

(25年6月訪問)

2013年12月20日金曜日

瀬戸内海交通/愛媛22か1807

引き続き瀬戸内海交通から、今回は象徴的な車両をご紹介しましょう。 

 
瀬戸内海交通のフラッグシップともよべる大三島急行線(今治桟橋~宮浦港)に充当されていた愛媛22か1807号車で、型式はP-LV218Q、ボデーは ご覧のとおり西工58MC B-Iです。平成元年に導入され大三島営業所に今年8月まで配置されていた急行専用車で、同社に在籍した最後の路線シャーシ長尺車であるとともに、最後の58MC急行車でした。


 車内には13列の座席を有し、補助席を含めた旅客定員はなんと65人。通勤通学輸送に対応した詰め込み仕様です。キュービック最長となる軸距6.0メートルの大型長尺車とは言え、同路線の最新鋭車であるエアロエースの旅客定員が55人であることを考えると、その窮屈さが想像できることと思います。


路線用のシャーシでこの定員を実現するにあたり、少しでも客室面積を増やすためエンジンを横置きとするなど工夫は見られますが、再び同様の車両を導入することは到底不可能でしょう。

ちなみに、同車は今治~大三島線用としてではなく、下田水~大三島線(昭和63年開設)用として導入されています。これは当時、今治と大島を結ぶ来島海峡 大橋が未供用であったことから、今治との連絡船が発着した大島・下田水港を起点に島間連絡急行バスが運行されていたことによります。

なお、この路線は平成11年の来島海峡大橋架橋後も存続するものの、平成19年をもって廃止されました。このとき1807号車も予備車に格下げされ、以後は大三島急行線の代走・応援を中心に活躍しますが、今夏導入されたエアロエースに代替され引退となったのでした。