■終点:入軽井沢(いりかるいさわ)
地元のおじいさんに寒いだろうと自宅に招かれ、小一時間の折り返し待ちはあっという間にすぎていきます。
「この前も『ハーベストホテルはどこですか?』って聞かれたなあ。あるわけない。観光バスが迷い込んできたこともあった。」
あたたかいお茶を注ぎつつ、なにもないところだよと笑いながら語ってくれました。
こんな信州の「軽井沢」を目指すのが上田バスの傍陽線。上田駅から松代に続いていく坂道を40分ほど登り続けた先の山村に、積もるばかりの雪で白一色に染まった終点があるのです。
ご推察の通り、信州にはいくつかの「軽井沢」があります。 そのうち町村制(のち地方自治法)に基づく自治体となったところがふたつあり、ひとつが高名な中山道沿いの避暑地・軽井沢、もうひとつがこちら中山道から別れた松代道沿いの山村・軽井沢です。
今でこそそれぞれの軽井沢はまったく違う顔を見せています。しかし、昔はどちらにも番所が置かれ、峠を控えた交通の要衝でありました。一説によると「軽井沢」の語源は荷物を背負うことを意味する古語「かるう」にあるといい、これは転じて峠道という意味も持つそうですから、同じ地名になったのも偶然ではないでしょう。
近代の交通革命がそれぞれの姿を変えていったわけですが、 もしかすると避暑地軽井沢も国鉄信越線で東京と直接結ばれることがなければ、小さな山村の佇まいであったかもしれません。改めて地名の奥深さを感じさせてくれる終点です。
やっぱり「なにもないところだけど」と前置きをしつつ、こちらの軽井沢では春にホタルが飛び交い、近くの牛乳工場では出来立てのミルクが味わえる、とは先のおじいさんの談。松代との境を成す地蔵峠には天然温泉もあるそうです。
リゾートホテルこそないかもしれませんが、私はすっかりこの素朴で親切な「軽井沢」のファンになりました。
(2015年2月訪問)
■傍陽線メモ
上田バス傍陽線は1972年に廃止された鉄道真田傍陽線の代替としての役割を担っている路線で、市北西部にあたる傍陽地区と上田駅を結んでいます。一部便は上田駅に直通せず、途中の真田にて菅平線等との乗り換えを必要としますが、その場合も乗換券により運賃の通算が行われています。
なお上田バスの前身会社にあたる上電バス時代には、路線名通り傍陽どめの便や、入軽井沢の先にある松井新田行きの便もあったそうです。また鉄道廃止後も長らく旧傍陽駅舎がバス待合所として活用されていましたが、残念ながら2003年に解体されています。
2015年3月1日日曜日
2015年2月1日日曜日
【バス終点】伊予鉄南予バス/唐川線
■終点:両沢(りょうざわ)
「唐川と言ったら、やっぱりビワですよ。」
あまりの閑散ぶりに、政治路線との噂もささやかれる唐川線ですが、幸か不幸か、沿線生まれの運転士と2人きりの車内、会話は弾みます。ローカルバス旅の醍醐味のひとつです。その運転士がとにかく太鼓判を押すのが、名産の「唐川ビワ」。
ミカンにイヨカンなどなど柑橘類の影に隠れて目立ちませんが、実は愛媛県のビワ生産量は全国でも屈指のもので、ここ数年は長崎、千葉に次ぐ第3位を誇っています。そして、その県内生産のほぼ全量を担っているのが、ほかならぬ唐川なのです。
これらのビワ産地は、郡中と両沢を結ぶ伊予鉄バス唐川線の沿線そのもの。伊予市南部と砥部町を隔てる谷上山の南麓にあたり、東方に聳える障子山に源を持つ森川に沿ってのびています。この川は典型的な支流ですから、これに沿う村々も、本流にあたる大谷川に沿ってひらけた大洲街道上の町とは異なり、川べりにへばりつくような山村ばかりです。
そもそも「カラ」という地名は「涸」「枯」から取られていることが多く、河川の上流の水の乏しいところや、斜面などによく見られると言われています。唐川は、土地もなければ、水もない、なかなかに厳しい地勢だといえます。
そのような村の人々が暮らしの糧としたのが、ろうの原料であるハゼノキと、そしてビワの栽培なのでした。その歴史は古く、すでに藩政期・天保年間に編纂された『大洲秘録』に村の産物として名前が挙げられており、さらに明治43年に出版された『南山崎村郷土誌』には、山中に自生していたビワを「今より凡そ百年前、仝村に中村清蔵なる者あり、初めてこれを籠に入れ、郡中町に持ち行き、僅かなる金銭に換えて枇杷実の金銭となりしを不思議なる如く村人の語り伝えしと云う」とあることから、19世紀のはじめ頃から商品作物としての栽培が行われていると考えられます。
そして、明治35年には村人の吉沢兼太郎氏が、中国大陸にルーツを持つ品種「田中びわ」を導入。これは在来品種の倍以上もある大果であり、たいへんな評判をよんだそうです。これをきっかけに、ランプや電灯の普及で需要が減少する一方のハゼノキ栽培は廃れ、初冬の森川沿いには枇杷の花が咲き誇るようになりました。
バス終点の両沢は、そんな森川沿いの最上流、どん詰まりにあたる集落。ここでは至近から取れる砥石も有名ですが、ご多分に漏れず、ビワの木々も目立つところです。山の斜面にも、家の裏手にも、朽ちかけた木製バス標識の横にも、しっかりとビワの木が植えられています。
しかしながら、頼もしい唐川ビワとは異なり、モータリゼーションの波に洗われた唐川線はすっかり青色吐息のようです。本数はわずかに1日2往復。このようなバスの主なお客さんは通学生やお年寄りですが、ここでは同じ区間に自治体運行のスクールバスや無料の福祉バスが走っていることもあり、空気ばかりを運んでいます。なにより、伊予市内を走っていた路線バスは、ほとんどが既に廃止されているのです。
「どうして今まで残っとるかがわからんよ。いつ消えるやわかりゃせんね。」
また私だけを乗せ郡中へ戻る道中、山腹までびっしり植えられたビワの木々や、上唐川の立派な選果場を横目に、ロートル車のハンドルを握る運転士はポツリと呟きました。
■伊予鉄道唐川線の歩みと唐川線のこれから
注)鍵括弧書き路線名は免許上の路線名、それ以外の路線名は営業上の路線名を示します。
***開業から全通まで***
残念ながら唐川線の運行がはじまった時期は定かではありません。
伊予鉄道が三共自動車を吸収合併する際に受けた免許(全て合併日である昭和18年12月23日免許)のなかに、伊予郡南山崎村大字大平甲1098と同村大字下唐川甲92の1を結ぶ「唐川線」2.7キロが存在していることから、少なくとも三共自動車時代までには開設されていた路線なのは確かなのですが、三共関連の資料は多くが戦災で焼失しており、伊予鉄道側でも運行開始の時期はわからないそうです。伊予市誌などの沿線郷土誌にも、バス関係者の回顧録にも記述は見当たらず、見当もつきません。
ただ、伊予鉄道に引き継がれた時点で運休していたことは間違いなく、その再開は昭和24年11月18日まで持ち越されることになります。 再開にあたって、伊予鉄道は免許区間の延長を申請しています。「唐川線」の終点下唐川停留所から南山崎村大字下唐川字豊岡333の第2に設けた豊岡停留所までを「下唐川線」1.5キロとして延長し、これに既存「内子線」の一部を合わせたのが新生・唐川線で、郡中と豊岡を結ぶ9.9キロの路線でした。なお、後の路線図表では豊岡停留所の記載が見当たりませんが、距離や住所、その後の変遷史から推察するに、現在の唐川停留所そのもの、もしくは至近にあった停留所だと思われます。
運行回数は平日休日問わず1日6回(3往復)、運賃は郡中から上唐川までで25円、豊岡までで30円。主たる使用車両は既存の18人乗り昭和12年式フォードとかなりの古参車で、木炭発生炉付の代燃車。年式からおそらく他事業者でも広く使われたV-8型だと思われます。所属営業所は24年10月10日に開設されたばかりの松山営業所(榎町営業所から移転、現在伊予鉄本社がある場所)でした。また、佐礼谷線の項でも記述しましたが、この代燃車は翌々年頃までには置き換えられていると考えられます。
唐川線が現在の形になったのは、 昭和37年7月16日のことです。免許路線名は不明ながら、唐川から現在の終点である両沢停留所までの2.0キロの間が、同年7月7日に延伸免許されています。この改正では松山までの直通便が設定されており、これは昭和35年4月の時点では存在しないことから、おそらくこの時にはじめて設定されたものだと思われます。なお、同改正での1日あたり運行回数は平日休日問わず郡中・両沢間が1.5回、松山・両沢間が2回、唐川・郡中間が0.5回となっています。
ちなみに、当時の社内報をみると、さらなる延伸構想についての記述があり興味を惹かれます。両沢から鵜崎峠経由で外山(砥部からの路線があった)へ至るというもので、延伸のあかつきには大平砥部線として砥部まで直通させることが考えられていたようです。もちろん、この構想は実現していません。
***全通以後***
佐礼谷線と同様、これ以降はわかる範囲でのみ記述します。
【昭和58年10月16日改正】時刻表によると、郡中・両沢4回(うち0.5回は日祝および学校休暇中運休)、松山・両沢5回と昭和37年当時と比較して増便がされていることに加え、一部便(全線計9回中の4回)が稲荷神社前・伊予市庁前間において、港南中学校前すなわち国道56号線を経由する現在の経路に改められています。ちなみに、58年改正時点でこの区間を走るのは唐川線の一部便に限られていることと、【昭和52年】時点での運行路線図表に同区間が記載されていることを併せて考えると、52年時点では既に港南中学校前を経由する便が設定されていたと考えることができるかもしれません。
唐川線の最盛期はこの頃であったと考えられ、昭和60年11月15日現在の運行回数一覧によると、58年時刻表の直後である【昭和59年3月6日認可】で減便が行われています。この時点での回数は、 郡中・両沢1.5回、松山・両沢2.5回となっており、松山行きのうち1.5回が港南中学校を経由しています。
続いて確認がとれるのは、【平成2年12月25日改正】時刻表においてです。港南中を経由しない便がさらに減便されたことに加え、日曜祝日の全便運休化、松山直達便の全廃が行われており、現在のダイヤに近づいています。回数は4回(2往復)のみとなり、午後に両沢を出る0.5回を除いて全て港南中経由という、スクールバス然としたダイヤになりました。
また、【平成6年10月16日改正】より、運行会社が伊予鉄南予バスへと移管されています。同社は平成元年8月8日に、主に南予地方のローカル線を担う目的で設立された伊予鉄道の地域子会社です。唐川線は松山バスターミナルへの乗り入れが廃されていたこともあり、中予地方で完結する路線ながら路線移譲の対象となったのです。これにより同路線の担当営業所は伊予鉄道自動車部松山営業所(注:1)から、伊予鉄南予バス内子営業所へと変わることとなりました。
このダイヤは全く変わることなく20年近くに渡って維持されますが、南予バスの全社的な路線再編が行われた【平成21年11月1日改正】で担当営業所が大洲営業所に変わるとともに、現行ダイヤへと修正が加えられています。
その内容は、ついに全便が港南中学校前を経由するようになり、元来の稲荷神社前・栄町・郡中経由便が全廃されたことと、学校の週休2日制化を受けて新たに土曜日が運休日に加えられたことです。運行日の運行本数に変化はありません。
現行ダイヤで特筆されることは、近年では珍しい夜間滞泊が残されていることです。集会所を間借りした宿泊所が現在でも使われています。ただし、翌日が運休日となる金曜日や祝前日は、回送車となり営業所まで戻っています。そして、同じく、休み明けの早朝に回送車として送り込まれてくるのです。
終わりに、唐川線を取り巻く現状について、少し補足をしておきます。最後となる平成21年の改正から、はや6年が経過しようとしていますが、この間に伊予市では公共交通体系の見直しをすすめており、デマンドタクシーや福祉バスの積極的な導入と引き換えに、多くの一般路線バス(4条バス)を廃止してきました。実にこの唐川線と、同線への送り込みを兼ねているであろう長浜線(長浜・郡中間)は、伊予市内では都市間連絡路線を除くと最後に残った一般路線バスなのです。
ですが、運転士が嘆いていたとおり、唐川線は無駄が多い路線です。現在ほぼ全線にわたって同一の経路を取る無償福祉バス(利用は60歳以上に限られる)が月曜日と木曜日に4往復ずつ、平日には大平地区にある南山崎小学校までのスクールバスが1.5往復走っており、唐川線は港南中学校生徒(定期代は市が全額補助)を主として、どちらの対象にもならない限られた人々だけの公共交通手段と化していたのです。
このような各種バスが併存してきた理由には諸説ありますが、ひとつには長らくスクールバスの一般有償利用(一般混乗)を行うと、運行経費そのものが普通地方交付税の対象外とされてきたためだと考えられます。国庫補助を考えた場合、唐川線を廃止にすると、比較的運行距離の長い港南中学校スクールバス(注:2)に加え、福祉バスの対象拡大やデマンドタクシーの導入が必要ですから、結果として高コスト体質は変わらない、というものです。
しかしながら、平成24年5月の総務省通達により、スクールバス一般混乗も普通交付税の対象とされることになりました。行政側も問題は認識していましたので、伊予市はこの通達をひとつのきっかけとして、唐川線の見直しに踏み込んだ「伊予市地域公共交通計画」を平成26年9月に策定しています。
ここでは、さっそく平成26年度中に4条バスを見直すこと、27年度に旧伊予市域においてコミュニティバスを実証運行すること、28年度にスクールバスの一般混乗を目指すこと、が明言されていますから、一般路線バスとしての唐川線はいよいよ廃止される時が近づいてきたようです。
唐川線と長浜線に対する伊予市の運行経費補助金は年間1300万円(24年度)。馴染みのオレンジ色のバスに乗って本場のビワを買いに行くことができなくなるのは寂しい気もしますが、空気ばかりを運ぶにしては、あまりに高すぎる対価であるとも思うのです。
注1:現在の松山斎院営業所。松山室町営業所は平成4年の設置です。ただし車庫自体は既に室町にあり、唐川線車両は室町駐車場に常置されていました。
注2:仮に設定すると、伊予市内では双海中学校スクールバスに次ぐ長さになります。ただ、双海中スクールは利用者も多く、かつ中学校単独なので1往復で済んでおり、便あたり利用者数では市内時点の南鵜崎小スクールと比して倍以上の開きがあります。単純比較は難しそうです。
(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/平成24年8月投稿記事を加筆改稿いたしました。)
2015/06/03修正/南予バスへの移管時期ならびに所管営業所に誤りがありました。
「唐川と言ったら、やっぱりビワですよ。」
あまりの閑散ぶりに、政治路線との噂もささやかれる唐川線ですが、幸か不幸か、沿線生まれの運転士と2人きりの車内、会話は弾みます。ローカルバス旅の醍醐味のひとつです。その運転士がとにかく太鼓判を押すのが、名産の「唐川ビワ」。
ミカンにイヨカンなどなど柑橘類の影に隠れて目立ちませんが、実は愛媛県のビワ生産量は全国でも屈指のもので、ここ数年は長崎、千葉に次ぐ第3位を誇っています。そして、その県内生産のほぼ全量を担っているのが、ほかならぬ唐川なのです。
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| はじまりの郡中バス停 |
これらのビワ産地は、郡中と両沢を結ぶ伊予鉄バス唐川線の沿線そのもの。伊予市南部と砥部町を隔てる谷上山の南麓にあたり、東方に聳える障子山に源を持つ森川に沿ってのびています。この川は典型的な支流ですから、これに沿う村々も、本流にあたる大谷川に沿ってひらけた大洲街道上の町とは異なり、川べりにへばりつくような山村ばかりです。
そもそも「カラ」という地名は「涸」「枯」から取られていることが多く、河川の上流の水の乏しいところや、斜面などによく見られると言われています。唐川は、土地もなければ、水もない、なかなかに厳しい地勢だといえます。
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| 森川沿いには桜並木も |
そのような村の人々が暮らしの糧としたのが、ろうの原料であるハゼノキと、そしてビワの栽培なのでした。その歴史は古く、すでに藩政期・天保年間に編纂された『大洲秘録』に村の産物として名前が挙げられており、さらに明治43年に出版された『南山崎村郷土誌』には、山中に自生していたビワを「今より凡そ百年前、仝村に中村清蔵なる者あり、初めてこれを籠に入れ、郡中町に持ち行き、僅かなる金銭に換えて枇杷実の金銭となりしを不思議なる如く村人の語り伝えしと云う」とあることから、19世紀のはじめ頃から商品作物としての栽培が行われていると考えられます。
そして、明治35年には村人の吉沢兼太郎氏が、中国大陸にルーツを持つ品種「田中びわ」を導入。これは在来品種の倍以上もある大果であり、たいへんな評判をよんだそうです。これをきっかけに、ランプや電灯の普及で需要が減少する一方のハゼノキ栽培は廃れ、初冬の森川沿いには枇杷の花が咲き誇るようになりました。
バス終点の両沢は、そんな森川沿いの最上流、どん詰まりにあたる集落。ここでは至近から取れる砥石も有名ですが、ご多分に漏れず、ビワの木々も目立つところです。山の斜面にも、家の裏手にも、朽ちかけた木製バス標識の横にも、しっかりとビワの木が植えられています。
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| 道路脇にも琵琶、そして後ろに聳える障子山 終点両沢付近である |
しかしながら、頼もしい唐川ビワとは異なり、モータリゼーションの波に洗われた唐川線はすっかり青色吐息のようです。本数はわずかに1日2往復。このようなバスの主なお客さんは通学生やお年寄りですが、ここでは同じ区間に自治体運行のスクールバスや無料の福祉バスが走っていることもあり、空気ばかりを運んでいます。なにより、伊予市内を走っていた路線バスは、ほとんどが既に廃止されているのです。
「どうして今まで残っとるかがわからんよ。いつ消えるやわかりゃせんね。」
また私だけを乗せ郡中へ戻る道中、山腹までびっしり植えられたビワの木々や、上唐川の立派な選果場を横目に、ロートル車のハンドルを握る運転士はポツリと呟きました。
■伊予鉄道唐川線の歩みと唐川線のこれから
注)鍵括弧書き路線名は免許上の路線名、それ以外の路線名は営業上の路線名を示します。
***開業から全通まで***
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昭和52年路線図表より関係箇所抜粋 うち郡中栄町経由は後に廃止されている また延伸構想があった外山も確認できる (クリックで拡大) |
伊予鉄道が三共自動車を吸収合併する際に受けた免許(全て合併日である昭和18年12月23日免許)のなかに、伊予郡南山崎村大字大平甲1098と同村大字下唐川甲92の1を結ぶ「唐川線」2.7キロが存在していることから、少なくとも三共自動車時代までには開設されていた路線なのは確かなのですが、三共関連の資料は多くが戦災で焼失しており、伊予鉄道側でも運行開始の時期はわからないそうです。伊予市誌などの沿線郷土誌にも、バス関係者の回顧録にも記述は見当たらず、見当もつきません。
ただ、伊予鉄道に引き継がれた時点で運休していたことは間違いなく、その再開は昭和24年11月18日まで持ち越されることになります。 再開にあたって、伊予鉄道は免許区間の延長を申請しています。「唐川線」の終点下唐川停留所から南山崎村大字下唐川字豊岡333の第2に設けた豊岡停留所までを「下唐川線」1.5キロとして延長し、これに既存「内子線」の一部を合わせたのが新生・唐川線で、郡中と豊岡を結ぶ9.9キロの路線でした。なお、後の路線図表では豊岡停留所の記載が見当たりませんが、距離や住所、その後の変遷史から推察するに、現在の唐川停留所そのもの、もしくは至近にあった停留所だと思われます。
運行回数は平日休日問わず1日6回(3往復)、運賃は郡中から上唐川までで25円、豊岡までで30円。主たる使用車両は既存の18人乗り昭和12年式フォードとかなりの古参車で、木炭発生炉付の代燃車。年式からおそらく他事業者でも広く使われたV-8型だと思われます。所属営業所は24年10月10日に開設されたばかりの松山営業所(榎町営業所から移転、現在伊予鉄本社がある場所)でした。また、佐礼谷線の項でも記述しましたが、この代燃車は翌々年頃までには置き換えられていると考えられます。
唐川線が現在の形になったのは、 昭和37年7月16日のことです。免許路線名は不明ながら、唐川から現在の終点である両沢停留所までの2.0キロの間が、同年7月7日に延伸免許されています。この改正では松山までの直通便が設定されており、これは昭和35年4月の時点では存在しないことから、おそらくこの時にはじめて設定されたものだと思われます。なお、同改正での1日あたり運行回数は平日休日問わず郡中・両沢間が1.5回、松山・両沢間が2回、唐川・郡中間が0.5回となっています。
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| 両沢延伸と外山延伸構想を伝える広報「いよてつ」通巻66号 |
ちなみに、当時の社内報をみると、さらなる延伸構想についての記述があり興味を惹かれます。両沢から鵜崎峠経由で外山(砥部からの路線があった)へ至るというもので、延伸のあかつきには大平砥部線として砥部まで直通させることが考えられていたようです。もちろん、この構想は実現していません。
***全通以後***
佐礼谷線と同様、これ以降はわかる範囲でのみ記述します。
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| 昭和58年10月16日改正の関係時刻表 まだ松山バスターミナル直通便がみられる |
【昭和58年10月16日改正】時刻表によると、郡中・両沢4回(うち0.5回は日祝および学校休暇中運休)、松山・両沢5回と昭和37年当時と比較して増便がされていることに加え、一部便(全線計9回中の4回)が稲荷神社前・伊予市庁前間において、港南中学校前すなわち国道56号線を経由する現在の経路に改められています。ちなみに、58年改正時点でこの区間を走るのは唐川線の一部便に限られていることと、【昭和52年】時点での運行路線図表に同区間が記載されていることを併せて考えると、52年時点では既に港南中学校前を経由する便が設定されていたと考えることができるかもしれません。
唐川線の最盛期はこの頃であったと考えられ、昭和60年11月15日現在の運行回数一覧によると、58年時刻表の直後である【昭和59年3月6日認可】で減便が行われています。この時点での回数は、 郡中・両沢1.5回、松山・両沢2.5回となっており、松山行きのうち1.5回が港南中学校を経由しています。
続いて確認がとれるのは、【平成2年12月25日改正】時刻表においてです。港南中を経由しない便がさらに減便されたことに加え、日曜祝日の全便運休化、松山直達便の全廃が行われており、現在のダイヤに近づいています。回数は4回(2往復)のみとなり、午後に両沢を出る0.5回を除いて全て港南中経由という、スクールバス然としたダイヤになりました。
また、【平成6年10月16日改正】より、運行会社が伊予鉄南予バスへと移管されています。同社は平成元年8月8日に、主に南予地方のローカル線を担う目的で設立された伊予鉄道の地域子会社です。唐川線は松山バスターミナルへの乗り入れが廃されていたこともあり、中予地方で完結する路線ながら路線移譲の対象となったのです。これにより同路線の担当営業所は伊予鉄道自動車部松山営業所(注:1)から、伊予鉄南予バス内子営業所へと変わることとなりました。
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| 平成21年11月1日改正の時刻表 平日のみ2往復 全て港南中学経由である |
その内容は、ついに全便が港南中学校前を経由するようになり、元来の稲荷神社前・栄町・郡中経由便が全廃されたことと、学校の週休2日制化を受けて新たに土曜日が運休日に加えられたことです。運行日の運行本数に変化はありません。
現行ダイヤで特筆されることは、近年では珍しい夜間滞泊が残されていることです。集会所を間借りした宿泊所が現在でも使われています。ただし、翌日が運休日となる金曜日や祝前日は、回送車となり営業所まで戻っています。そして、同じく、休み明けの早朝に回送車として送り込まれてくるのです。
終わりに、唐川線を取り巻く現状について、少し補足をしておきます。最後となる平成21年の改正から、はや6年が経過しようとしていますが、この間に伊予市では公共交通体系の見直しをすすめており、デマンドタクシーや福祉バスの積極的な導入と引き換えに、多くの一般路線バス(4条バス)を廃止してきました。実にこの唐川線と、同線への送り込みを兼ねているであろう長浜線(長浜・郡中間)は、伊予市内では都市間連絡路線を除くと最後に残った一般路線バスなのです。
ですが、運転士が嘆いていたとおり、唐川線は無駄が多い路線です。現在ほぼ全線にわたって同一の経路を取る無償福祉バス(利用は60歳以上に限られる)が月曜日と木曜日に4往復ずつ、平日には大平地区にある南山崎小学校までのスクールバスが1.5往復走っており、唐川線は港南中学校生徒(定期代は市が全額補助)を主として、どちらの対象にもならない限られた人々だけの公共交通手段と化していたのです。
このような各種バスが併存してきた理由には諸説ありますが、ひとつには長らくスクールバスの一般有償利用(一般混乗)を行うと、運行経費そのものが普通地方交付税の対象外とされてきたためだと考えられます。国庫補助を考えた場合、唐川線を廃止にすると、比較的運行距離の長い港南中学校スクールバス(注:2)に加え、福祉バスの対象拡大やデマンドタクシーの導入が必要ですから、結果として高コスト体質は変わらない、というものです。
しかしながら、平成24年5月の総務省通達により、スクールバス一般混乗も普通交付税の対象とされることになりました。行政側も問題は認識していましたので、伊予市はこの通達をひとつのきっかけとして、唐川線の見直しに踏み込んだ「伊予市地域公共交通計画」を平成26年9月に策定しています。
ここでは、さっそく平成26年度中に4条バスを見直すこと、27年度に旧伊予市域においてコミュニティバスを実証運行すること、28年度にスクールバスの一般混乗を目指すこと、が明言されていますから、一般路線バスとしての唐川線はいよいよ廃止される時が近づいてきたようです。
唐川線と長浜線に対する伊予市の運行経費補助金は年間1300万円(24年度)。馴染みのオレンジ色のバスに乗って本場のビワを買いに行くことができなくなるのは寂しい気もしますが、空気ばかりを運ぶにしては、あまりに高すぎる対価であるとも思うのです。
![]() |
| 終点・両沢 いつまで伊予鉄バスがやってくるのだろうか なお写真右端に見える焼杉の家が運転士宿泊所である |
注2:仮に設定すると、伊予市内では双海中学校スクールバスに次ぐ長さになります。ただ、双海中スクールは利用者も多く、かつ中学校単独なので1往復で済んでおり、便あたり利用者数では市内時点の南鵜崎小スクールと比して倍以上の開きがあります。単純比較は難しそうです。
(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/平成24年8月投稿記事を加筆改稿いたしました。)
2015/06/03修正/南予バスへの移管時期ならびに所管営業所に誤りがありました。
2015年1月1日木曜日
【バス終点】伊予鉄南予バス/佐礼谷線
■終点:佐礼谷(されだに) ※平成23年10月廃止
県都松山より国道56号線を南西へおよそ30キロのところに伊予市中山町があります。平成の大合併より前には伊予郡の最南端、中予と南予の境目のまち、中山町でありました。
中山町には松山から南予に至る第一の関門、犬寄峠があります。かつては辺りに山犬が多いことから単に「犬吉峠」と呼ばれていましたが、たびたび旅人が襲われたため、いつしか犬寄峠と呼ぶようになったと伝えられています。人よりも犬が偉い、文字通りの「獣道」だったのでしょう。事実、曲がりくねった悪路で、昭和の時代になっても狭いところでは幅2メートルあるかないかという、ずいぶんな難所であったそうです。この汚名が返上されるのは、戦後も下って昭和45年のこと。犬寄峠下を貫く犬寄トンネルの開通を待たねばなりません。
さて、近世初期まで、中山は大洲藩6万石の領下にある一山村にすぎませんでした。肱川の支流中山川上流の山間盆地で、旅する人たちが犬寄峠の往来の折、一杯の番茶にのどの渇きをいやす茶屋、はたまた木賃宿があるかないかといった程度の村落でありました。しかし、幕藩体制の整備と、それに続く商工業の発展は、村落から宿場町へとその顔を変えていくのです。
街道の整備が進められるに従って、中山を核として大いに発展する街道筋のなかでも、ひときわ繁栄を享受した集落が、犬寄峠の嶮を間近に控えた佐礼谷です。たとえば、佐礼谷の庄屋・和田家に伝わる『伊予郡南神崎村庄屋記録』によると、寛政元年4月には幕府の諸国巡見使が佐礼谷で休んだことが伝えられていま す。ほかにも大洲藩の参勤交代の中継地に選ばれたことや、そうでなくても犬寄峠が難所であるゆえに、多くの旅人が佐礼谷で羽を休めていったのです。
歴史などおかまいなしと犬寄トンネルで町を貫く国道から分かれ、旧街道筋を目指す佐礼谷へのバス路線には今も犬寄峠の往時が残っています。佐礼谷終点へは国道から7キロの道のりです。
バス通りの家並みにはその様子がうかがえます。白塗りの洋館がかつての郵便局跡であったり、長屋門を構える立派な農家の横を走り抜けたり。和洋折衷の「ハイカラ」な住宅が目立つのも、宿場の繁栄が近世に続いていたからこそに他なりません。
街道が運んできたものは、人だけではありません。必ず文化がもたらされます。車窓に目立つ「ハイカラ」洋館もそのひとつだと言えましょうが、佐礼谷に持ち込まれ根付いた文化というと、俳句を外しては語ることができないでしょう。
「里やあるけふり横たふ秋のくれ」
佐礼谷を好み享和年間に当地で閑居した大洲藩士・田辺文里が詠んだ一句です。山間の小さくも栄えた佐礼谷の様子が浮かんでくるようです。田辺は芭蕉の研究者としても名高く、彼が寺子屋を開くことにより、中山には一気に蕉風が広がりました。
この俳句文化は明治維新やその後の戦争など幾多の苦難にも負けず、いまでも「佐礼谷むささび俳句会」「中山町俳句会」ほか複数の俳句会が中心となり受け継がれています。
「住みなれし山里の空燕去る」
中山町俳句会員の谷口米子[1]さんが平成8年に詠まれた近句です。
ご多分にもれず、ゆるやかに過疎の波に洗われている佐礼谷ですが、確かに街道の記憶は集落の文化として現代まで受け伝えられています。私が燕の帰ってくる春へ期待をかけるのは、街角の端々から気品を感じる佐礼谷にすっかり魅せられてしまったからに他なりません。
[1]中山町誌(中山町史編さん委員会、平成8年1月31日発行)から引用しました。問題があるようでしたら書き換えます。
■伊予鉄道佐礼谷線・竹之内線の歩み -附 伊予鉄道内子線ことはじめ-
**発展史**
ながらく鉄道とは縁遠い地域であった中山において、交通機関といえば昔は人力車でした。人力車が世に出たのは明治初期のことで、中山には明治末期に10台の車があったと伝えられています。その前後して乗合馬車が登場しました。内子町の徳岡文四郎氏がはじめた内子・中山・郡中を結ぶ馬車は、6人乗りでその当時の料金が中山から郡中まで32銭だったといいます。
この徳岡氏は先見の明がある人物で、自動車が時代の趨勢であると見るや、大正12年に内子自動車株式会社を設立、すぐに馬車を廃しバスに転業しています。こうして中山の地に内子・中山・松山を結ぶバスが走り始めることになりました。
さて、この頃の乗合自動車と切っても切り離せない話といえば、やはり同業他社との過当競争です。内子自動車の沿線でも、中央自動車、愛媛自動車、大洲自動車の各社がしのぎを削って争うありさまで、全くの乱戦状態でした。そのため自主的統合の機運が生まれ、近隣の中央自動車(松山)と愛媛自動車(松山)が主導した共同経営組合である「三社共同自動車組合」が昭和4年に発足するとこれに加入しています。
この組合各社は昭和8年5月に合併、「三共自動車」へと発展的解消を果たし、同時に内子・中山・松山線も三共自動車の運行に変わります。ここまでのダイヤ、運賃、車両等は全て不明ながら、三共移管後の昭和10年にはフォード8人乗りが1日2往復していたという記録が残っています。
そのほか三共自動車当時の主な動きとしては、発足と同時に国有鉄道との連帯運輸を開始したことと、昭和11年5月より郵便物の併送を開始したことが挙げられます。また時局柄、代燃化が推められたことも記しておかねばならないでしょう。同社では昭和15年12月から代燃化改造が始められており、休車等一部を除いて18年までには改造が完了していることから、中山方面線でもこのあいだに代燃車へと置き換えられたものだと考えられます。
そして、いよいよ敗色が濃くなってきた頃、またしても路線の運行会社が変わることになります。次なる運行会社は現在まで続く伊予鉄道です。同社は鉄軌道事業の補強策としてかねてより発行済株式の6割を握るなど三共の経営に参画していたのですが、そこに陸上交通事業調整法の施行(注:ただし伊予鉄道は同法の対象とはされていない)などに由来する交通事業者の統合機運も相まって、昭和18年12月23日付で吸収合併することとなったのです。
この合併に際しては、戦時下ということもあり、不要不急路線の運行休止が数多く行われています。三共は53の免許路線を持っていたのですが、既に休止していた22路線のみならず、あらためて不要だと判断された路線についても休止され、伊予鉄道に運行が引き継がれたのはわずか16路線のみでした。
内子線は代替交通機関が一切ないということもあり、流石に存続はしていますが、非力な代燃車のうえ、木炭の配給ですら事欠く世情を考えると、とうてい満足のいく運行が行われたとは思えません。このように首の皮一枚でなんとか終戦を迎えることになるのです。
戦後の本格復興は昭和22年からはじまります。6月の石油配給公団設立によりガソリンの供給が徐々に安定化されていったことなどが理由です。同年には新車の割り当ても復活しており、昭和24年1月には戦後復興期の象徴とも言えるトレーラーバスが松山市内にお目見えしています。路線の面では、まず松山市内を中心として休止路線が順次復旧し、続いて地方の休止路線復活、そして純粋な新路線の開設(昭和24年に10路線、25年に14路線)と目覚ましい復旧・発展を遂げることになるのです。
このようななか昭和26年に開設された12の新路線のうちのひとつとして、内子線の支線的性格を持つ佐礼谷線が3月2日に運行をはじめています。同線が免許されたのは2月2日。既存内子線の伊予郡上灘町丙1226番地から、同郡佐礼谷村乙132までの、5.0キロの区間です。開業時のダイヤは佐礼谷を7時半に出て郡中に8時着、郡中を17時半に出て佐礼谷に18時に戻ってくる1往復きりのダイヤで、運賃は全行路で大人38円でした。延伸に伴う新設停留所は、仁生から佐礼谷までの5箇所、加えて佐礼谷に車庫が設置されています。
当時の運輸省文書によると、開業にあたり常用とされた車両は既所有の昭和23年式ニッサン「2B50」形式で、総定員は35人、ガソリンエンジン車ながら木炭発生炉つき、ということですが、該当する形式が思い当たりません。年式と燃料種別が正しいとすると、戦時型トラックシャーシを利用したニッサン(日産重工業→日産自動車)180型ないし190型だと思われますが定かではありません。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。なお、佐礼谷へ木炭車が入ったのは僅かな期間だと思われます。佐礼谷線が開業した翌月に石油行政権がGHQから日本政府へとを委譲されているのですが、これに石油事情のさらなる好転などが相まり、それまで禁止されていた代燃車からガソリン車への転換・復原が一転して推奨されるようになったのです。
ともかく、このような形で佐礼谷にバスが乗り入れてきました。これにより松山方面へのアクセスは劇的に改善されましたが、佐礼谷は中山町に属していますから役場のある中山方面への直達便が次に求められるようになりました。そんな要望を受けて昭和32年4月1日から、佐礼谷方面に新たな路線が拓かれたのです。
既存佐礼谷線の途中、佐礼谷局前停留所から、中山に近い内子線長沢までをショートカットする新たな経路を設け、松山と中山・内子方面を結ぶ便を佐礼谷局前経由へ変更するというものです。この運行に先立ち、昭和32年3月22日、中山町佐礼谷丙1070の1から中山町子448の1まで、2.1キロの間が竹之内線として免許されています。
この変更により、佐礼谷線開業当初に設定された郡中・佐礼谷間の便と合わせて、内子発7時、13時10分、16時20分の松山行き、松山発6時半の鹿野川行きおよび13時、19時半発の内子行きが佐礼谷集落(佐礼谷停留所には入らない)を経由するように改められました。結果、実に本数にして4倍、松山側・中山側双方の滞在時間も大幅に長くなるという、たいへん利便的なダイヤとなったのです。
**衰退史**
以降については、断片的な資料しかありませんので、わかる範囲でのみ記述します。
まず、佐礼谷・郡中線(昭和26年開業区間)の松山市駅延伸時期についてです。
佐礼谷線運行開始から県バス協会年報で確認できる昭和38年までの間において、全便郡中までであったものがいつの間にか0.5往復を残して松山市駅まで延伸されています。【昭和58年10月16日改正】時刻表をみても、佐礼谷方面行きは郡中始発11時半と松山市駅17時半、松山方面行きは2便とも市駅行きで7時15分発と12時7分発となっており、おそらく昭和38年以降、大規模な時刻改正は行われていないものと思われます。
そんなわけで、市駅乗り入れの時期については、竹之内線が運行をはじめた昭和32年改正が最も自然だと考えております。
そして、佐礼谷・郡中・松山市駅直通便の廃止時期ですが、伊予鉄道百年史で確認することが出来る【昭和60年11月15日現在】の運行回数表では、毎日1往復の運行を確認することができるものの、【平成2年12月25日】改正時刻表では全く確認できません。
よって、 昭和58年から60年にかけて1往復化、そののち平成2年までに佐礼谷局前・佐礼谷間の路線もろとも廃止されたと考えられます。
最後に、竹之内線開通に合わせて設定された佐礼谷局前経由便についてです。
【平成2年12月25日改正】時刻表によると、上りが五十崎始発の松山市駅行きと内子始発の佐礼谷局前行き、下りが佐礼谷局前始発の中山行きと同じく佐礼谷局前始発の内子行き、そして松山市駅発の五十崎行きの、上り2本下り3本の2.5往復が設定されています。
【平成5年10月16日改正】では、松山市駅乗り入れは上りのみの0.5往復に、全体でも2往復になっています。
【平成6年3月16日改正】では、松山市駅乗り入れが廃止され、1.5往復に。更に朝の佐礼谷局前始発、夜の佐礼谷局前終着がともになくなっているので、夜間滞泊が存在していたとすると、この改正で廃止された可能性が高そうです。
次に大きな変化が見られるのは、【平成9年4月1日改正】の時刻表で、ダイヤは基本的に変わらないものの、佐礼谷局前・佐礼谷間が久しぶりに復活しています。以前、運転士さんに伺ったところによると、通学生の利便を図って延伸したとのことでした。(追記:1)
【平成11年9月8日改正】も、1.5往復の基本ダイヤは変わらないものの、更に通学生の利便を図って、下校便に冬ダイヤと夏ダイヤが設定されています。
しかし、既述の通り【平成23年10月改正】で全便廃止となっています。それにしても、最後は12年以上に渡ってダイヤが全く変わっていなかったのですね。
**佐礼谷線のその後**
伊予市では、平成21年2月より、過疎地域住民を対象とした公共交通機関に関するアンケート調査の実施や、佐礼谷地区を含む当時の路線バス運行地域における意見交換会の開催を通して、新たな公共交通システムの導入に向けて検討を行ってきました。
その結果、市営過疎バス(廃止代替バス)を含む路線バスの大幅な削減と、デマンド型乗合タクシーの導入が決まり、平成23年9月15日から月末まで行われた試験運行を経て、10月より路線バス廃止と引き換えに本格導入が行われました。
したがって、佐礼谷線の沿線には、代替バス等も全く走っていません。
デマンド型乗合タクシーは事前登録が必須であることなど、旅行者には冷たい乗り物です。しかし、登録さえしてしまうと、乗車の1時間前までに電話予約をするだけで、ドアtoドアのサービスが300円均一という低廉な価格で受けられるのです。
バスファンとして寂しく思う気持ちはありますが、地域の実情にマッチしている素晴らしいシステムであるとも思っています。
(追記:1) twitter @sland81 さんより、情報をいただきまして、佐礼谷までの運行が復活した【9年4月改正】は佐礼谷中の閉校と同じタイミングとのことです。ありがとうございます。
(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください)
県都松山より国道56号線を南西へおよそ30キロのところに伊予市中山町があります。平成の大合併より前には伊予郡の最南端、中予と南予の境目のまち、中山町でありました。
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| 内子側から旧中山町を一望する 奥に立ちはだかるのが犬寄峠 (佐礼谷線ではなく永木線) |
中山町には松山から南予に至る第一の関門、犬寄峠があります。かつては辺りに山犬が多いことから単に「犬吉峠」と呼ばれていましたが、たびたび旅人が襲われたため、いつしか犬寄峠と呼ぶようになったと伝えられています。人よりも犬が偉い、文字通りの「獣道」だったのでしょう。事実、曲がりくねった悪路で、昭和の時代になっても狭いところでは幅2メートルあるかないかという、ずいぶんな難所であったそうです。この汚名が返上されるのは、戦後も下って昭和45年のこと。犬寄峠下を貫く犬寄トンネルの開通を待たねばなりません。
さて、近世初期まで、中山は大洲藩6万石の領下にある一山村にすぎませんでした。肱川の支流中山川上流の山間盆地で、旅する人たちが犬寄峠の往来の折、一杯の番茶にのどの渇きをいやす茶屋、はたまた木賃宿があるかないかといった程度の村落でありました。しかし、幕藩体制の整備と、それに続く商工業の発展は、村落から宿場町へとその顔を変えていくのです。
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| 旧大洲街道に沿って |
街道の整備が進められるに従って、中山を核として大いに発展する街道筋のなかでも、ひときわ繁栄を享受した集落が、犬寄峠の嶮を間近に控えた佐礼谷です。たとえば、佐礼谷の庄屋・和田家に伝わる『伊予郡南神崎村庄屋記録』によると、寛政元年4月には幕府の諸国巡見使が佐礼谷で休んだことが伝えられていま す。ほかにも大洲藩の参勤交代の中継地に選ばれたことや、そうでなくても犬寄峠が難所であるゆえに、多くの旅人が佐礼谷で羽を休めていったのです。
歴史などおかまいなしと犬寄トンネルで町を貫く国道から分かれ、旧街道筋を目指す佐礼谷へのバス路線には今も犬寄峠の往時が残っています。佐礼谷終点へは国道から7キロの道のりです。
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| 終点 佐礼谷 |
バス通りの家並みにはその様子がうかがえます。白塗りの洋館がかつての郵便局跡であったり、長屋門を構える立派な農家の横を走り抜けたり。和洋折衷の「ハイカラ」な住宅が目立つのも、宿場の繁栄が近世に続いていたからこそに他なりません。
街道が運んできたものは、人だけではありません。必ず文化がもたらされます。車窓に目立つ「ハイカラ」洋館もそのひとつだと言えましょうが、佐礼谷に持ち込まれ根付いた文化というと、俳句を外しては語ることができないでしょう。
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| 後ろの洋館が旧佐礼谷郵便局 昭和2年築 |
「里やあるけふり横たふ秋のくれ」
佐礼谷を好み享和年間に当地で閑居した大洲藩士・田辺文里が詠んだ一句です。山間の小さくも栄えた佐礼谷の様子が浮かんでくるようです。田辺は芭蕉の研究者としても名高く、彼が寺子屋を開くことにより、中山には一気に蕉風が広がりました。
この俳句文化は明治維新やその後の戦争など幾多の苦難にも負けず、いまでも「佐礼谷むささび俳句会」「中山町俳句会」ほか複数の俳句会が中心となり受け継がれています。
「住みなれし山里の空燕去る」
中山町俳句会員の谷口米子[1]さんが平成8年に詠まれた近句です。
ご多分にもれず、ゆるやかに過疎の波に洗われている佐礼谷ですが、確かに街道の記憶は集落の文化として現代まで受け伝えられています。私が燕の帰ってくる春へ期待をかけるのは、街角の端々から気品を感じる佐礼谷にすっかり魅せられてしまったからに他なりません。
[1]中山町誌(中山町史編さん委員会、平成8年1月31日発行)から引用しました。問題があるようでしたら書き換えます。
■伊予鉄道佐礼谷線・竹之内線の歩み -附 伊予鉄道内子線ことはじめ-
**発展史**
ながらく鉄道とは縁遠い地域であった中山において、交通機関といえば昔は人力車でした。人力車が世に出たのは明治初期のことで、中山には明治末期に10台の車があったと伝えられています。その前後して乗合馬車が登場しました。内子町の徳岡文四郎氏がはじめた内子・中山・郡中を結ぶ馬車は、6人乗りでその当時の料金が中山から郡中まで32銭だったといいます。
この徳岡氏は先見の明がある人物で、自動車が時代の趨勢であると見るや、大正12年に内子自動車株式会社を設立、すぐに馬車を廃しバスに転業しています。こうして中山の地に内子・中山・松山を結ぶバスが走り始めることになりました。
さて、この頃の乗合自動車と切っても切り離せない話といえば、やはり同業他社との過当競争です。内子自動車の沿線でも、中央自動車、愛媛自動車、大洲自動車の各社がしのぎを削って争うありさまで、全くの乱戦状態でした。そのため自主的統合の機運が生まれ、近隣の中央自動車(松山)と愛媛自動車(松山)が主導した共同経営組合である「三社共同自動車組合」が昭和4年に発足するとこれに加入しています。
この組合各社は昭和8年5月に合併、「三共自動車」へと発展的解消を果たし、同時に内子・中山・松山線も三共自動車の運行に変わります。ここまでのダイヤ、運賃、車両等は全て不明ながら、三共移管後の昭和10年にはフォード8人乗りが1日2往復していたという記録が残っています。
そのほか三共自動車当時の主な動きとしては、発足と同時に国有鉄道との連帯運輸を開始したことと、昭和11年5月より郵便物の併送を開始したことが挙げられます。また時局柄、代燃化が推められたことも記しておかねばならないでしょう。同社では昭和15年12月から代燃化改造が始められており、休車等一部を除いて18年までには改造が完了していることから、中山方面線でもこのあいだに代燃車へと置き換えられたものだと考えられます。
そして、いよいよ敗色が濃くなってきた頃、またしても路線の運行会社が変わることになります。次なる運行会社は現在まで続く伊予鉄道です。同社は鉄軌道事業の補強策としてかねてより発行済株式の6割を握るなど三共の経営に参画していたのですが、そこに陸上交通事業調整法の施行(注:ただし伊予鉄道は同法の対象とはされていない)などに由来する交通事業者の統合機運も相まって、昭和18年12月23日付で吸収合併することとなったのです。
この合併に際しては、戦時下ということもあり、不要不急路線の運行休止が数多く行われています。三共は53の免許路線を持っていたのですが、既に休止していた22路線のみならず、あらためて不要だと判断された路線についても休止され、伊予鉄道に運行が引き継がれたのはわずか16路線のみでした。
内子線は代替交通機関が一切ないということもあり、流石に存続はしていますが、非力な代燃車のうえ、木炭の配給ですら事欠く世情を考えると、とうてい満足のいく運行が行われたとは思えません。このように首の皮一枚でなんとか終戦を迎えることになるのです。
戦後の本格復興は昭和22年からはじまります。6月の石油配給公団設立によりガソリンの供給が徐々に安定化されていったことなどが理由です。同年には新車の割り当ても復活しており、昭和24年1月には戦後復興期の象徴とも言えるトレーラーバスが松山市内にお目見えしています。路線の面では、まず松山市内を中心として休止路線が順次復旧し、続いて地方の休止路線復活、そして純粋な新路線の開設(昭和24年に10路線、25年に14路線)と目覚ましい復旧・発展を遂げることになるのです。
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| 内子管内路線図 トンネル建設に伴う切替で 開業当時とは一部異なる |
当時の運輸省文書によると、開業にあたり常用とされた車両は既所有の昭和23年式ニッサン「2B50」形式で、総定員は35人、ガソリンエンジン車ながら木炭発生炉つき、ということですが、該当する形式が思い当たりません。年式と燃料種別が正しいとすると、戦時型トラックシャーシを利用したニッサン(日産重工業→日産自動車)180型ないし190型だと思われますが定かではありません。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。なお、佐礼谷へ木炭車が入ったのは僅かな期間だと思われます。佐礼谷線が開業した翌月に石油行政権がGHQから日本政府へとを委譲されているのですが、これに石油事情のさらなる好転などが相まり、それまで禁止されていた代燃車からガソリン車への転換・復原が一転して推奨されるようになったのです。
| 社内報より竹之内線開業記事 |
既存佐礼谷線の途中、佐礼谷局前停留所から、中山に近い内子線長沢までをショートカットする新たな経路を設け、松山と中山・内子方面を結ぶ便を佐礼谷局前経由へ変更するというものです。この運行に先立ち、昭和32年3月22日、中山町佐礼谷丙1070の1から中山町子448の1まで、2.1キロの間が竹之内線として免許されています。
この変更により、佐礼谷線開業当初に設定された郡中・佐礼谷間の便と合わせて、内子発7時、13時10分、16時20分の松山行き、松山発6時半の鹿野川行きおよび13時、19時半発の内子行きが佐礼谷集落(佐礼谷停留所には入らない)を経由するように改められました。結果、実に本数にして4倍、松山側・中山側双方の滞在時間も大幅に長くなるという、たいへん利便的なダイヤとなったのです。
**衰退史**
以降については、断片的な資料しかありませんので、わかる範囲でのみ記述します。
まず、佐礼谷・郡中線(昭和26年開業区間)の松山市駅延伸時期についてです。
佐礼谷線運行開始から県バス協会年報で確認できる昭和38年までの間において、全便郡中までであったものがいつの間にか0.5往復を残して松山市駅まで延伸されています。【昭和58年10月16日改正】時刻表をみても、佐礼谷方面行きは郡中始発11時半と松山市駅17時半、松山方面行きは2便とも市駅行きで7時15分発と12時7分発となっており、おそらく昭和38年以降、大規模な時刻改正は行われていないものと思われます。
そんなわけで、市駅乗り入れの時期については、竹之内線が運行をはじめた昭和32年改正が最も自然だと考えております。
そして、佐礼谷・郡中・松山市駅直通便の廃止時期ですが、伊予鉄道百年史で確認することが出来る【昭和60年11月15日現在】の運行回数表では、毎日1往復の運行を確認することができるものの、【平成2年12月25日】改正時刻表では全く確認できません。
よって、 昭和58年から60年にかけて1往復化、そののち平成2年までに佐礼谷局前・佐礼谷間の路線もろとも廃止されたと考えられます。
最後に、竹之内線開通に合わせて設定された佐礼谷局前経由便についてです。
【平成2年12月25日改正】時刻表によると、上りが五十崎始発の松山市駅行きと内子始発の佐礼谷局前行き、下りが佐礼谷局前始発の中山行きと同じく佐礼谷局前始発の内子行き、そして松山市駅発の五十崎行きの、上り2本下り3本の2.5往復が設定されています。
【平成5年10月16日改正】では、松山市駅乗り入れは上りのみの0.5往復に、全体でも2往復になっています。
【平成6年3月16日改正】では、松山市駅乗り入れが廃止され、1.5往復に。更に朝の佐礼谷局前始発、夜の佐礼谷局前終着がともになくなっているので、夜間滞泊が存在していたとすると、この改正で廃止された可能性が高そうです。
次に大きな変化が見られるのは、【平成9年4月1日改正】の時刻表で、ダイヤは基本的に変わらないものの、佐礼谷局前・佐礼谷間が久しぶりに復活しています。以前、運転士さんに伺ったところによると、通学生の利便を図って延伸したとのことでした。(追記:1)
【平成11年9月8日改正】も、1.5往復の基本ダイヤは変わらないものの、更に通学生の利便を図って、下校便に冬ダイヤと夏ダイヤが設定されています。
しかし、既述の通り【平成23年10月改正】で全便廃止となっています。それにしても、最後は12年以上に渡ってダイヤが全く変わっていなかったのですね。
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| 佐礼谷線免許 これで待ちに待ったバスがくる |
伊予市では、平成21年2月より、過疎地域住民を対象とした公共交通機関に関するアンケート調査の実施や、佐礼谷地区を含む当時の路線バス運行地域における意見交換会の開催を通して、新たな公共交通システムの導入に向けて検討を行ってきました。
その結果、市営過疎バス(廃止代替バス)を含む路線バスの大幅な削減と、デマンド型乗合タクシーの導入が決まり、平成23年9月15日から月末まで行われた試験運行を経て、10月より路線バス廃止と引き換えに本格導入が行われました。
したがって、佐礼谷線の沿線には、代替バス等も全く走っていません。
デマンド型乗合タクシーは事前登録が必須であることなど、旅行者には冷たい乗り物です。しかし、登録さえしてしまうと、乗車の1時間前までに電話予約をするだけで、ドアtoドアのサービスが300円均一という低廉な価格で受けられるのです。
バスファンとして寂しく思う気持ちはありますが、地域の実情にマッチしている素晴らしいシステムであるとも思っています。
(追記:1) twitter @sland81 さんより、情報をいただきまして、佐礼谷までの運行が復活した【9年4月改正】は佐礼谷中の閉校と同じタイミングとのことです。ありがとうございます。
(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください)
2014年11月1日土曜日
【バス終点】伊予鉄道/松山空港線
■終点:湧ヶ淵(わきがふち)
道後へ向かう入湯客を巡って伊予鉄道と松山電気軌道が熾烈な誘客合戦を繰り広げたことは、松山の歴史を知る者にとっておおよそ有名なことでしょう。道後行き電車が発車するたびに駅頭で客引きの鐘を鳴らしあったというエピソードは今でも語り継がれています。
しかしながら、両社の争いが鉄道線路から遠く離れた地でも繰り広げられていたことは、あまり知られていないようです。
いま松山の街を訪れてみると、かつて争いの象徴とされた道後行き電車の横を「湧ヶ淵」という行き先を掲げた松山空港線のローカルバスが走っています。おおよそ路線名には似合わない行き先ですが、それもそのはず。この路線の終点は、空港からまちなかを横断し、石手川の奥へとずいぶんと進んだ幽谷にあるのですから。
そして、この終点の幽谷こそが、伊予鉄と松電、もうひとつの争いの舞台。明治の終わり頃には水力発電をめぐる「エレキ戦争」が、ここ湧ヶ淵で繰り広げられていたのです。
この地にはじめて発電所を設けられたのは明治36年のことで、伊予鉄道と資本的なつながりがあった伊予水力発電会社の手によるものでした。急峻な石手川の流れを利用した四国でもはじめての水力発電所で、この完成により松山平野に電灯が灯されたのです。
戦いの火蓋が切って落とされるのは、その8年後となる明治44年。湧ヶ淵のすぐ下流に松山電気軌道会社がダムを造り、大規模な発電所を建設したのです。三津浜と松山を結ぶ新しい電車軌道の開業にあたって不可欠なものでした。
この発電所は先にできた伊予水力のものよりはるかに大きなスケールだったそうで、自社路線と競合する鉄道が敷設されることに反対する伊予鉄の思惑も相まり、ダム建設や送水管敷設にあたっては伊予水力側があの手この手で嫌がらせにでたそうです。
もちろん、松山電軌も負けずといがみ合い、ふたつの電力・鉄道会社がさながら産業スパイ合戦を演じることになります。やれ「あの請負人は伊予水力のまわし者じゃ」「あの人夫がセメントの横流しをしとる」などと、地元民まで巻き込んで平和な幽谷は大騒動。ついには裁判沙汰にまで発展し、発電所や鉄道の完成後も長く対立が続いたといいます。
この騒動がようやく収まり、湧ヶ淵に静けさが戻ってきたのは、伊予水力も松山電軌も全て伊予鉄道に合併(合併後、伊予鉄道電気へ社名変更)された大正10年のこと。この地にはじめてバスが乗り入れる3年前の出来事でありました。
爾来1世紀、湧ヶ淵は静かな場所であり続けています。石手川の滔々とした流れだけが明治の頃へと思いを馳せさせてくれますが、折返しを待つ間、しばしの休憩をとる空港線のローカルバスには知る由もないことです。
■伊予鉄道松山空港線沿革(但し、路線東部の松山駅前・湧ヶ淵間に限る)
松山空港線の歴史は、大正13年6月に道後在住の個人(山崎朝勝氏)によって、道後自動車と称するバスの運行が松山・道後・宿野々間で行われたことにまで遡ることができます。これはどちらかというと、現在、松山市駅と米野々を結んでいる河中線の原型に近いものですが、ここ湧ヶ淵や湯山の地にバスが乗り入れたのは、この時がはじめてです。
この河中方面線の運行母体は中予地方の多くのバス路線と同様、三共自動車を経て第二次大戦末期の昭和19年には伊予鉄道の手に移りますが、その後まもなく休止されたようで、運行が再開されるのは戦後混乱期を脱しつつある昭和24年まで待たねばなりませんでした。そして再開時、湯山方面への路線は、松山市駅を起点に新立から石手川の土手に沿って湯山や河中に至る河中線と、旧来の経路通り道後を起点に石手に至る石手線の2路線2系統に分離・拡充されています。
このうちの石手線は、時期不詳ながら松山市駅・道後間および石手・湯之元間を延伸し湯之元線へと改称。そののち松山駅への乗り入れをはさんで、昭和39年12月にはさらに湧ヶ淵まで延伸されたうえ、奥道後線と再改称されています。これは、湧ヶ淵の近隣に「奥道後温泉観光ホテル」 という一大レジャーホテルが開業したことに伴うものでした。ここに松山駅・松山市駅・石手寺前・湧ヶ淵(なお、道後温泉駅前に関しては、奥道後方面行きのみ停車)を結ぶ、現松山空港線の直接の原型とも言える路線が生まれるのです。なお、このときはじめて湧ヶ淵に折り返し場が設けられました。
奥道後線運行開始後の大きな動きとしては、昭和61年の湯の山ニュータウン入居に伴う乗り入れ開始(同時に上下便とも道後温泉駅前への停車を開始)および区間便の設定と、平成2年12月の路線再編が挙げられます。特に後者は、それまで松山空港・道後温泉駅前を結んでいた(旧)松山空港線と統合する大改変で、これ以降、松山空港から湧ヶ淵までロングランする(新)松山空港線として、路線名と運行区間を変えて現在に至っています。
最後に当路線(東側区間)で特筆される特徴をふたつ紹介して
おきましょう。
まずひとつめは、郊外バスながら市内バス専用の一番町停留所に停車することです。これはロープウェイ街を経由する湯山方面行きの便に限ったことで、大街道停留所に停車できない代替措置です。都心ならではの特例で、市内バス用の停留所に郊外バスが停車する唯一の事例です。路線上には他にも市内バス専用の義安寺前停留所がありますが、もちろんこちらは通過しています。
ふたつめは、お客さんを乗せたままターンテーブルを利用することです。袋小路となっている道後温泉駅前バスターミナルの奥には転回用のターンテーブルがあり、道後温泉駅前発着便はこれを必ず利用することになります。殆どの一般路線は道後温泉駅前を起終点としていますが、松山空港線に限っては経路途中となるため、このようなことが起こるのです。たいへん珍しい光景です。
■四国電力湯山発電所
「エレキ戦争」の舞台となったこれらの発電所は、戦争の時代を経て、全て四国電力へと引き継がれました。現在でも昭和32年に統合のうえ全面改築された湯山発電所(正確には全て廃止のうえ、直後に新設)が稼働しており、最大で3400kWhの電力を生み出し続けています。
近隣の西条火力発電所(計406,000kW)や伊方原子力発電所(計2,022,000kW)と比べると極小規模とはいえ、伊予水力の発電所は260kW、「大規模」とされた松山電軌のものでも537kWであったことを思うと、隔世の感がありますね。
その変遷を以下にまとめました。(クリックで拡大)
なお、現在の湯山発電所は、旧第二、第三発電所の敷地内に建っています。
(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/松山空港線の西半分(道後温泉・松山空港間/旧松山空港線区間)および河中線に関しては、稿を改めて紹介します。 )
※奥道後・空港両線の統合時期に誤りがあり、訂正いたしました。ご教示くださりありがとうございました。
道後へ向かう入湯客を巡って伊予鉄道と松山電気軌道が熾烈な誘客合戦を繰り広げたことは、松山の歴史を知る者にとっておおよそ有名なことでしょう。道後行き電車が発車するたびに駅頭で客引きの鐘を鳴らしあったというエピソードは今でも語り継がれています。
しかしながら、両社の争いが鉄道線路から遠く離れた地でも繰り広げられていたことは、あまり知られていないようです。
いま松山の街を訪れてみると、かつて争いの象徴とされた道後行き電車の横を「湧ヶ淵」という行き先を掲げた松山空港線のローカルバスが走っています。おおよそ路線名には似合わない行き先ですが、それもそのはず。この路線の終点は、空港からまちなかを横断し、石手川の奥へとずいぶんと進んだ幽谷にあるのですから。
そして、この終点の幽谷こそが、伊予鉄と松電、もうひとつの争いの舞台。明治の終わり頃には水力発電をめぐる「エレキ戦争」が、ここ湧ヶ淵で繰り広げられていたのです。
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| 道路の向こうに石手川が流れる 伊予水力の発電所は対岸にあった |
この地にはじめて発電所を設けられたのは明治36年のことで、伊予鉄道と資本的なつながりがあった伊予水力発電会社の手によるものでした。急峻な石手川の流れを利用した四国でもはじめての水力発電所で、この完成により松山平野に電灯が灯されたのです。
戦いの火蓋が切って落とされるのは、その8年後となる明治44年。湧ヶ淵のすぐ下流に松山電気軌道会社がダムを造り、大規模な発電所を建設したのです。三津浜と松山を結ぶ新しい電車軌道の開業にあたって不可欠なものでした。
この発電所は先にできた伊予水力のものよりはるかに大きなスケールだったそうで、自社路線と競合する鉄道が敷設されることに反対する伊予鉄の思惑も相まり、ダム建設や送水管敷設にあたっては伊予水力側があの手この手で嫌がらせにでたそうです。
もちろん、松山電軌も負けずといがみ合い、ふたつの電力・鉄道会社がさながら産業スパイ合戦を演じることになります。やれ「あの請負人は伊予水力のまわし者じゃ」「あの人夫がセメントの横流しをしとる」などと、地元民まで巻き込んで平和な幽谷は大騒動。ついには裁判沙汰にまで発展し、発電所や鉄道の完成後も長く対立が続いたといいます。
この騒動がようやく収まり、湧ヶ淵に静けさが戻ってきたのは、伊予水力も松山電軌も全て伊予鉄道に合併(合併後、伊予鉄道電気へ社名変更)された大正10年のこと。この地にはじめてバスが乗り入れる3年前の出来事でありました。
爾来1世紀、湧ヶ淵は静かな場所であり続けています。石手川の滔々とした流れだけが明治の頃へと思いを馳せさせてくれますが、折返しを待つ間、しばしの休憩をとる空港線のローカルバスには知る由もないことです。
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| 湧ヶ淵から少し下ると旧国鉄の郵便気動車を転用したレストランも オススメです |
松山空港線の歴史は、大正13年6月に道後在住の個人(山崎朝勝氏)によって、道後自動車と称するバスの運行が松山・道後・宿野々間で行われたことにまで遡ることができます。これはどちらかというと、現在、松山市駅と米野々を結んでいる河中線の原型に近いものですが、ここ湧ヶ淵や湯山の地にバスが乗り入れたのは、この時がはじめてです。
この河中方面線の運行母体は中予地方の多くのバス路線と同様、三共自動車を経て第二次大戦末期の昭和19年には伊予鉄道の手に移りますが、その後まもなく休止されたようで、運行が再開されるのは戦後混乱期を脱しつつある昭和24年まで待たねばなりませんでした。そして再開時、湯山方面への路線は、松山市駅を起点に新立から石手川の土手に沿って湯山や河中に至る河中線と、旧来の経路通り道後を起点に石手に至る石手線の2路線2系統に分離・拡充されています。
このうちの石手線は、時期不詳ながら松山市駅・道後間および石手・湯之元間を延伸し湯之元線へと改称。そののち松山駅への乗り入れをはさんで、昭和39年12月にはさらに湧ヶ淵まで延伸されたうえ、奥道後線と再改称されています。これは、湧ヶ淵の近隣に「奥道後温泉観光ホテル」 という一大レジャーホテルが開業したことに伴うものでした。ここに松山駅・松山市駅・石手寺前・湧ヶ淵(なお、道後温泉駅前に関しては、奥道後方面行きのみ停車)を結ぶ、現松山空港線の直接の原型とも言える路線が生まれるのです。なお、このときはじめて湧ヶ淵に折り返し場が設けられました。
奥道後線運行開始後の大きな動きとしては、昭和61年の湯の山ニュータウン入居に伴う乗り入れ開始(同時に上下便とも道後温泉駅前への停車を開始)および区間便の設定と、平成2年12月の路線再編が挙げられます。特に後者は、それまで松山空港・道後温泉駅前を結んでいた(旧)松山空港線と統合する大改変で、これ以降、松山空港から湧ヶ淵までロングランする(新)松山空港線として、路線名と運行区間を変えて現在に至っています。
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| 空港連絡や観光輸送と並んで、ニュータウン路線としての顔も持つ |
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| 一番町付近経路図(クリックで拡大) |
最後に当路線(東側区間)で特筆される特徴をふたつ紹介して
おきましょう。
まずひとつめは、郊外バスながら市内バス専用の一番町停留所に停車することです。これはロープウェイ街を経由する湯山方面行きの便に限ったことで、大街道停留所に停車できない代替措置です。都心ならではの特例で、市内バス用の停留所に郊外バスが停車する唯一の事例です。路線上には他にも市内バス専用の義安寺前停留所がありますが、もちろんこちらは通過しています。
ふたつめは、お客さんを乗せたままターンテーブルを利用することです。袋小路となっている道後温泉駅前バスターミナルの奥には転回用のターンテーブルがあり、道後温泉駅前発着便はこれを必ず利用することになります。殆どの一般路線は道後温泉駅前を起終点としていますが、松山空港線に限っては経路途中となるため、このようなことが起こるのです。たいへん珍しい光景です。
■四国電力湯山発電所
「エレキ戦争」の舞台となったこれらの発電所は、戦争の時代を経て、全て四国電力へと引き継がれました。現在でも昭和32年に統合のうえ全面改築された湯山発電所(正確には全て廃止のうえ、直後に新設)が稼働しており、最大で3400kWhの電力を生み出し続けています。
近隣の西条火力発電所(計406,000kW)や伊方原子力発電所(計2,022,000kW)と比べると極小規模とはいえ、伊予水力の発電所は260kW、「大規模」とされた松山電軌のものでも537kWであったことを思うと、隔世の感がありますね。
その変遷を以下にまとめました。(クリックで拡大)
なお、現在の湯山発電所は、旧第二、第三発電所の敷地内に建っています。
(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/松山空港線の西半分(道後温泉・松山空港間/旧松山空港線区間)および河中線に関しては、稿を改めて紹介します。 )
※奥道後・空港両線の統合時期に誤りがあり、訂正いたしました。ご教示くださりありがとうございました。
2014年10月30日木曜日
【バス終点】伊予鉄南予バス/杣野線
■終点:杣野前組(そまのまえぐみ) ※平成26年10月1日廃止
久万の営業所を出発したロートルバスは、いつしか暗い杉林のなか、ヘッドライトを灯して走っています。
そして、いまが真っ昼間であることを忘れそうになったころ、終点に着くのです。
杣野前組は、山林面積が9割を超えている久万高原町にあっても、 ひときわ目立つ純山村です。バス停の北側にわずかばかり広がる急な段畑が、集落の平地全てと言っても過言ではなく、農業といえばそこでタバコや茶などが栽培されているにすぎません。
ここは、杣夫が築いた、林業のための集落なのです。
「前組」という一風変わったバス停の名前は、その成り立ちをよく示しています。江戸時代の杣夫たちが指導者のもとで集まり、杣小屋で共同生活を行うことを「組」と呼ぶのですが、前組とは、まさにこの「組」から取られた地名だと思われます。
はたして冬季の寒冷は厳しく積雪も多い当地は、長らく人里からは遠いところであったと考えられ、いつ拓かれたか、詳しいことは全くわかりません。
とはいえ、あたり一帯では「若宮」と呼ばれる杣夫が郷土開拓の神として祀られており(「若宮信仰」)、ここはやはり古よりずっと木々とともに暮らしてきた集落なのでしょう。
それにしても、どうしてこんな山深くで人々の営みが生まれたのでしょうか。それはひとえに、四国でも有数の寒冷地であったからです。寒冷地で少しづつ育った木々は、年輪の目が細かく、美しい杢目と強度を併せ持つ名木になるのです。
杣野がいかに良材を生み出したかを伝える話が『面河村名所旧蹟史』にあります。ろくろを使って椀や盆を作る木地師「小椋氏」が、わざわざ名木を求めて京都から移り住んできたというものです。美作や備後を経て、ようやく辿り着いた土地が、ここ杣野なのでした。江戸時代には、この静かな山村で作られた椀や盆が、割石峠を越え、松山を経て大坂の木地問屋に出荷されていたといいます。
しかし、戦後になると、多くの山村の例に漏れず、杣野の林業は壊滅します。燃料革命に加えて、木材輸入の自由化が追い打ちをかけたのです。ことに他に頼る産業のない杣野では、この変化に対応できるはずもありません。
バスが入る前年、昭和35年に596人を誇った前組の人口は、わずか19年後の昭和54年には181人へと激減し、この年には地区で唯一の学校であった石墨小学校が閉校しています。そこから5年後の59年にははやくも100人を割り込んでおり、更に30年を経た現在の人口は、推して知るべしだと言えましょう。
もちろん、バスの本数もそれに合わせるように削減されました。平成初期までは、朝と昼に集落を出発し、昼と夕方に戻ってくるという、2往復ながら実用的なダイヤであったのが、最末期には1往復、それも昼間に集落へ向かい、すぐ折り返すだけの、使いたくても使えないダイヤに変わってしまったのです。
木漏れ日の道だったであろうバス通りも、いつの頃からか無造作に茂る放棄林にかこまれて、万年日陰となってしまいました。杣夫の村が嘘のようです。
それでも伊予鉄バスは、薄暗さに負けぬようヘッドライトを灯し、老体に鞭打って、なんとか頑張ってきました。ですが、それももう限界。
杣夫どころか、集落そのものが消えていこうとしている杣野前組には、定員56名のバスは大きすぎたのです。
こうして、平成26年10月、伊予鉄南予バスらしいローカル線が、またひとつ消えていきました。
■伊予鉄道自動車部久万営業所管内路線成立史
現在の久万高原町域にはじめてバスがお目見えしたのは、大正8年のことです。広島県加計町の児玉氏と香川県大川郡の小西氏による共同出資により設立された中予自動車商会の手によって、松山の河原町(立花旅館前、立花橋の南詰、実際は立花町にあった)と久万を結ぶ路線の運行が始められました。
なお、その後の同区間では複数社による過当競争や、三共自動車によるそれらの統合、鉄道省による路線買収など様々な動きが見られますが、現在のジェイアール四国バス久万高原線(昭和9年に三共自動車から松山・久万・落出間を買収)に当たる区間ですので、 当稿では割愛いたします。
改めて現在の伊予鉄南予バス久万営業所管内の営業路線に焦点を当てると、最も古いのは仕七川・久万(・松山)間で、大正12年に面河自動車の手によって運行が始められています。同社は久万町の小倉氏、湯浅氏、仕七川村の新谷氏らによって同年に設立されており、後に中央自動車、三共自動車を経て、昭和19年に伊予鉄道へと吸収されます。
仕七川・久万間運行開始後の展開は不明ながら、伊予鉄道がバス事業を開始した時点では、上述の仕七川方面線の区間を含む御三戸・栃原間と、通仙橋・渋草間、仕七川・水押間、久万・畑野川間の4路線(免許交付日は全て18年12月23日)がありました。おそらく省営バスと連絡する御三戸ないし久万を起点に各終点を結んでいたと思われます。
戦後の拡充は、まず昭和23年に栃原・若山間が延伸されたことに始まります。昭和24年には畑野川・上直瀬間(現在とは異なり、現県道153号線経由)が開通、そして昭和25年には清瀬橋・仕七川間が開通し、現在のメインルートである嵯峨山を経由(但し、峠御堂トンネル開通前につき中野村経由)する久万発、若山、渋草、水押行きの運行も始まります。
なおも路線拡大はとどまることを知らず、昭和26年の渋草・竹本間延伸に続いて、昭和27年には若山・関門(昭和30年に面河と改称か?時期不明)間が延伸開業。昭和30年には国鉄との相互乗入協定(久万・御三戸・面河間)の発効に伴う御三戸発着便の久万延長(久万・御三戸開業)も行われています。
幹線ルートの整備が一段落した昭和30年代には、枝線の開設・延伸が相次ぎます。まず昭和32年には伊予落合・富重間、直瀬公会堂・清瀬橋間、畑野川・明杖間が一挙に開通。昭和36年には一の谷・杣野前組間(杣野線)と久万・久万役場間(久万以遠線)が、昭和37年には明杖・河之内間(河之内線)がそれぞれ開通しています。
なお、富重延伸をもって小田線と接続し、それまで孤立していた存在であった久万管内線は、松山を中心とした伊予鉄バスネットワークに組み込まれていくことになります。河之内線開業と同じ昭和37年には、室町営業所所管路線ながら、黒森峠経由で松山・面河を直結する面河特急線が開業。その3年後の昭和40年には念願であった松山・久万(・面河)間の直通快速バス(久万特急線)も実現しています。
この久万特急線の開業をもって久万管内の路線拡大にはほぼ終止符が打たれたと言っても過言ではなく、昭和40年代の新規開業は石鎚スカイライン開通に伴う昭和45年の面河・石鎚土小屋間延伸のみです。そして、峠御堂トンネル供用開始による久万中学校前・畑野川間の短絡ルートが開業した昭和50年に、久万営業所管内の路線網はピークを迎えるのです。
※稿を改めて路線廃止についてもまとめます。/富重線の馬野地乗り入れは、学校統廃合によるもので、(確か)平成20年の延伸です。久万管内で最も新しい区間ということになります。(とはいえ、森松管内線であった小田・久万線の部分復活ですが。)/昭和37年の路線図表において、水押の一つ先に「峠」というバス停が見受けられます。詳細はわかりません。/県道153号線経由の畑野川・峠・直瀬公会堂間は昭和58年時点で存在していませんが、廃止の時期は不明です。
(主要参考文献)
面河村史/伊予鉄道百年史/社内報「いよてつ」各号/県バス協会年報各号/S58年秋時刻表
※参考文献の適当な書き方でもわかる通り、あくまで「参考程度の読み物」として捉えてください。
※事実誤認等、内容に関することについてご教示いただけると喜びます。
久万の営業所を出発したロートルバスは、いつしか暗い杉林のなか、ヘッドライトを灯して走っています。
そして、いまが真っ昼間であることを忘れそうになったころ、終点に着くのです。
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| 後ろには放棄林が 顔に陽が当たる区間はほんの僅かばかり |
杣野前組は、山林面積が9割を超えている久万高原町にあっても、 ひときわ目立つ純山村です。バス停の北側にわずかばかり広がる急な段畑が、集落の平地全てと言っても過言ではなく、農業といえばそこでタバコや茶などが栽培されているにすぎません。
ここは、杣夫が築いた、林業のための集落なのです。
「前組」という一風変わったバス停の名前は、その成り立ちをよく示しています。江戸時代の杣夫たちが指導者のもとで集まり、杣小屋で共同生活を行うことを「組」と呼ぶのですが、前組とは、まさにこの「組」から取られた地名だと思われます。
はたして冬季の寒冷は厳しく積雪も多い当地は、長らく人里からは遠いところであったと考えられ、いつ拓かれたか、詳しいことは全くわかりません。
とはいえ、あたり一帯では「若宮」と呼ばれる杣夫が郷土開拓の神として祀られており(「若宮信仰」)、ここはやはり古よりずっと木々とともに暮らしてきた集落なのでしょう。
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| 県道が交差する場所にある終点だけは開けていた 集落はここから北へ階段状に広がっている |
それにしても、どうしてこんな山深くで人々の営みが生まれたのでしょうか。それはひとえに、四国でも有数の寒冷地であったからです。寒冷地で少しづつ育った木々は、年輪の目が細かく、美しい杢目と強度を併せ持つ名木になるのです。
杣野がいかに良材を生み出したかを伝える話が『面河村名所旧蹟史』にあります。ろくろを使って椀や盆を作る木地師「小椋氏」が、わざわざ名木を求めて京都から移り住んできたというものです。美作や備後を経て、ようやく辿り着いた土地が、ここ杣野なのでした。江戸時代には、この静かな山村で作られた椀や盆が、割石峠を越え、松山を経て大坂の木地問屋に出荷されていたといいます。
しかし、戦後になると、多くの山村の例に漏れず、杣野の林業は壊滅します。燃料革命に加えて、木材輸入の自由化が追い打ちをかけたのです。ことに他に頼る産業のない杣野では、この変化に対応できるはずもありません。
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| 前組の手前にある宮前集落 廃屋が痛々しい |
バスが入る前年、昭和35年に596人を誇った前組の人口は、わずか19年後の昭和54年には181人へと激減し、この年には地区で唯一の学校であった石墨小学校が閉校しています。そこから5年後の59年にははやくも100人を割り込んでおり、更に30年を経た現在の人口は、推して知るべしだと言えましょう。
もちろん、バスの本数もそれに合わせるように削減されました。平成初期までは、朝と昼に集落を出発し、昼と夕方に戻ってくるという、2往復ながら実用的なダイヤであったのが、最末期には1往復、それも昼間に集落へ向かい、すぐ折り返すだけの、使いたくても使えないダイヤに変わってしまったのです。
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| バス停から少し離れたところに車庫が残っている 滞泊の名残である |
木漏れ日の道だったであろうバス通りも、いつの頃からか無造作に茂る放棄林にかこまれて、万年日陰となってしまいました。杣夫の村が嘘のようです。
それでも伊予鉄バスは、薄暗さに負けぬようヘッドライトを灯し、老体に鞭打って、なんとか頑張ってきました。ですが、それももう限界。
杣夫どころか、集落そのものが消えていこうとしている杣野前組には、定員56名のバスは大きすぎたのです。
こうして、平成26年10月、伊予鉄南予バスらしいローカル線が、またひとつ消えていきました。
■伊予鉄道自動車部久万営業所管内路線成立史
現在の久万高原町域にはじめてバスがお目見えしたのは、大正8年のことです。広島県加計町の児玉氏と香川県大川郡の小西氏による共同出資により設立された中予自動車商会の手によって、松山の河原町(立花旅館前、立花橋の南詰、実際は立花町にあった)と久万を結ぶ路線の運行が始められました。
なお、その後の同区間では複数社による過当競争や、三共自動車によるそれらの統合、鉄道省による路線買収など様々な動きが見られますが、現在のジェイアール四国バス久万高原線(昭和9年に三共自動車から松山・久万・落出間を買収)に当たる区間ですので、 当稿では割愛いたします。
改めて現在の伊予鉄南予バス久万営業所管内の営業路線に焦点を当てると、最も古いのは仕七川・久万(・松山)間で、大正12年に面河自動車の手によって運行が始められています。同社は久万町の小倉氏、湯浅氏、仕七川村の新谷氏らによって同年に設立されており、後に中央自動車、三共自動車を経て、昭和19年に伊予鉄道へと吸収されます。
仕七川・久万間運行開始後の展開は不明ながら、伊予鉄道がバス事業を開始した時点では、上述の仕七川方面線の区間を含む御三戸・栃原間と、通仙橋・渋草間、仕七川・水押間、久万・畑野川間の4路線(免許交付日は全て18年12月23日)がありました。おそらく省営バスと連絡する御三戸ないし久万を起点に各終点を結んでいたと思われます。
戦後の拡充は、まず昭和23年に栃原・若山間が延伸されたことに始まります。昭和24年には畑野川・上直瀬間(現在とは異なり、現県道153号線経由)が開通、そして昭和25年には清瀬橋・仕七川間が開通し、現在のメインルートである嵯峨山を経由(但し、峠御堂トンネル開通前につき中野村経由)する久万発、若山、渋草、水押行きの運行も始まります。
なおも路線拡大はとどまることを知らず、昭和26年の渋草・竹本間延伸に続いて、昭和27年には若山・関門(昭和30年に面河と改称か?時期不明)間が延伸開業。昭和30年には国鉄との相互乗入協定(久万・御三戸・面河間)の発効に伴う御三戸発着便の久万延長(久万・御三戸開業)も行われています。
幹線ルートの整備が一段落した昭和30年代には、枝線の開設・延伸が相次ぎます。まず昭和32年には伊予落合・富重間、直瀬公会堂・清瀬橋間、畑野川・明杖間が一挙に開通。昭和36年には一の谷・杣野前組間(杣野線)と久万・久万役場間(久万以遠線)が、昭和37年には明杖・河之内間(河之内線)がそれぞれ開通しています。
なお、富重延伸をもって小田線と接続し、それまで孤立していた存在であった久万管内線は、松山を中心とした伊予鉄バスネットワークに組み込まれていくことになります。河之内線開業と同じ昭和37年には、室町営業所所管路線ながら、黒森峠経由で松山・面河を直結する面河特急線が開業。その3年後の昭和40年には念願であった松山・久万(・面河)間の直通快速バス(久万特急線)も実現しています。
この久万特急線の開業をもって久万管内の路線拡大にはほぼ終止符が打たれたと言っても過言ではなく、昭和40年代の新規開業は石鎚スカイライン開通に伴う昭和45年の面河・石鎚土小屋間延伸のみです。そして、峠御堂トンネル供用開始による久万中学校前・畑野川間の短絡ルートが開業した昭和50年に、久万営業所管内の路線網はピークを迎えるのです。
※稿を改めて路線廃止についてもまとめます。/富重線の馬野地乗り入れは、学校統廃合によるもので、(確か)平成20年の延伸です。久万管内で最も新しい区間ということになります。(とはいえ、森松管内線であった小田・久万線の部分復活ですが。)/昭和37年の路線図表において、水押の一つ先に「峠」というバス停が見受けられます。詳細はわかりません。/県道153号線経由の畑野川・峠・直瀬公会堂間は昭和58年時点で存在していませんが、廃止の時期は不明です。
(主要参考文献)
面河村史/伊予鉄道百年史/社内報「いよてつ」各号/県バス協会年報各号/S58年秋時刻表
※参考文献の適当な書き方でもわかる通り、あくまで「参考程度の読み物」として捉えてください。
※事実誤認等、内容に関することについてご教示いただけると喜びます。
2014年8月21日木曜日
【バス終点】てんてつバス/達布留萌線
■終点:達布学校前(たっぷがっこうまえ)
留萌から北東におよそ30キロ、日本海へと注ぐ小平蘂川に沿ってきた山行きバスは、夏草の中をバッタが飛び交う、荒涼とした終点につきました。
ここ達布は、アイヌ語で「湾曲した川に囲まれた内陸の地」を意味する地で、その名の通り小平蘂川に育まれた稲穂がただただ広がる、ちいさな山間の町です。
今からでは想像もつきませんが、かつてここには、北炭・天塩炭鉱(達布炭鉱)がありました。
達布には映画館から銭湯、商店街まで、おおよそ生活に必要な物が揃っていたことでしょう。
もちろん、閉山から半世紀を経て、当時の面影は殆ど残されていません。
最後に残った旅館は5年ほど前に、同じく最後の食堂は今年の頭に暖簾を下ろしたとのこと。
バスの終点でもある学校も、廃校となって久しいそうです。
そんななか、数少ない名残が、この「てんてつバス」、旧天塩鉄道バスに見られます。
町の中央部にある、廃屋に囲まれて佇む古びたバス営業所は、かつて石炭を運び出した鉄道の駅事務所であった建物なのです。
営業所は、達布の盛衰をつぶさに見てきました。
炭鉱が消え、鉄道が消え、営林署が消え、小学校が消え…。
変わりゆく町の中で、ただひとつの変わらなかった空間なのかもしれません。
ですが、そんな営業所も、次の冬を迎えることはありません。
古くは、年の瀬や留萌の夏祭りのときなど、鈴なりのお客さんを乗せたという達布留萌線も、今年の9月をもって廃止されることが決まっているのです。
運転士さんによると、営業所の建物も運命を同じくするそうです。
ヤマの街が、またひとつ森に還ろうとしています。
(26年8月訪問)
■ 達布営業所
営業所としての機能は既にありませんが、乗務員休憩所としては現役です。
全国的に見ても歴史ある建物が使われている出張所でしょう。
中には、戦前から使われているであろう「乘車券貯蔵箱」まであります。
乗務員休憩所のストーブの横に、外気温の書き込みがされたカレンダーが掲げられていたのが印象的でした。2014年の最高気温は摂氏34度、最低はマイナス25度だそう。
■達布炭鉱
留萌炭田地帯には、ほかにも留萌線沿線の大和田炭鉱や、留萌鉄道沿線の昭和炭鉱や羽幌炭鉱がありますが、達布炭鉱はこれらに比べて小規模で、採鉱時期も短いものでした。達布の入植=貸下げ自体が始まったのは明治40年のことながら、炭鉱が開発されたのは昭和14年から、鉄道が引かれたのは日米開戦後の同17年と、時代をかなり下らねばなりません。閉山は同42年、鉄道の廃止が47年ですから、達布が炭鉱で栄えたのは30年に満たなかったことになります。あえかな炭鉱町でした。
留萌から北東におよそ30キロ、日本海へと注ぐ小平蘂川に沿ってきた山行きバスは、夏草の中をバッタが飛び交う、荒涼とした終点につきました。
ここ達布は、アイヌ語で「湾曲した川に囲まれた内陸の地」を意味する地で、その名の通り小平蘂川に育まれた稲穂がただただ広がる、ちいさな山間の町です。
今からでは想像もつきませんが、かつてここには、北炭・天塩炭鉱(達布炭鉱)がありました。
達布には映画館から銭湯、商店街まで、おおよそ生活に必要な物が揃っていたことでしょう。
もちろん、閉山から半世紀を経て、当時の面影は殆ど残されていません。
最後に残った旅館は5年ほど前に、同じく最後の食堂は今年の頭に暖簾を下ろしたとのこと。
バスの終点でもある学校も、廃校となって久しいそうです。
そんななか、数少ない名残が、この「てんてつバス」、旧天塩鉄道バスに見られます。
町の中央部にある、廃屋に囲まれて佇む古びたバス営業所は、かつて石炭を運び出した鉄道の駅事務所であった建物なのです。
営業所は、達布の盛衰をつぶさに見てきました。
炭鉱が消え、鉄道が消え、営林署が消え、小学校が消え…。
変わりゆく町の中で、ただひとつの変わらなかった空間なのかもしれません。
ですが、そんな営業所も、次の冬を迎えることはありません。
古くは、年の瀬や留萌の夏祭りのときなど、鈴なりのお客さんを乗せたという達布留萌線も、今年の9月をもって廃止されることが決まっているのです。
運転士さんによると、営業所の建物も運命を同じくするそうです。
ヤマの街が、またひとつ森に還ろうとしています。
(26年8月訪問)
■ 達布営業所
営業所としての機能は既にありませんが、乗務員休憩所としては現役です。
全国的に見ても歴史ある建物が使われている出張所でしょう。
中には、戦前から使われているであろう「乘車券貯蔵箱」まであります。
乗務員休憩所のストーブの横に、外気温の書き込みがされたカレンダーが掲げられていたのが印象的でした。2014年の最高気温は摂氏34度、最低はマイナス25度だそう。
■達布炭鉱
留萌炭田地帯には、ほかにも留萌線沿線の大和田炭鉱や、留萌鉄道沿線の昭和炭鉱や羽幌炭鉱がありますが、達布炭鉱はこれらに比べて小規模で、採鉱時期も短いものでした。達布の入植=貸下げ自体が始まったのは明治40年のことながら、炭鉱が開発されたのは昭和14年から、鉄道が引かれたのは日米開戦後の同17年と、時代をかなり下らねばなりません。閉山は同42年、鉄道の廃止が47年ですから、達布が炭鉱で栄えたのは30年に満たなかったことになります。あえかな炭鉱町でした。
2014年8月9日土曜日
【バス終点】山梨交通/南アルプス登山バス
■終点:広河原(ひろがわら)
「広河原行きの快速です、乗りますか?」「発車、オーライ!」「お釣り、100円です。」
甲府駅発広河原行きの快速バスでは、停留所ごと、車掌さんの声が車内に響きます。
バスの車掌さん。
「となりのトトロ」の世界です。ワンマンバスが普及していない昭和中頃までは当たり前の光景だったことでしょう。しかし、私のような平成生まれにとっては、無縁なものだとばかり思っていました。
山梨交通に車掌乗務の路線があると聞いたのは昨年の春ごろ。
なんでも、南アルプス登山者向けの季節運行路線に、車掌さんが乗っているというのです。
季節限定とはいえ、きちんと路線免許の交付を受けた一般路線バスです。ボンネットバスを用いるなど、いかにもな観光路線風ではなく、ごく普通の中型車で運行されるというのも嬉しいところ。
さて、この路線のハイライトはなんといっても、芦安を過ぎて、白鳳渓谷の断崖絶壁に沿って伸びるバス・タクシー専用道。この美しくも危険な道がツーマンの理由でもあります。車掌さんと運転士さん、息のあった指差喚呼に、手際の良い無線交信で、狭隘区間での離合もなんのその、満員の登山客をしっかりと終点へと送り届けているのです。
今なお残る、正統派ツーマンバス。車窓から望む白凰渓谷の渓谷美と共に、後世まで残って欲しいバスがある風景です。
(25年6月訪問)
2013年10月3日木曜日
【バス終点】南伊豆東海バス/下加茂-天神原
■終点:天神原(てんじんばら)
バスは、おおよそ伊豆のイメージとはかけ離れた、鬱蒼と茂る杉林を抜けていきます。
その先に、夕日に照らされた天神原の集落がありました。
伊豆半島の南端に位置する南伊豆町は、石廊崎灯台に代表されるように、海沿いのイメージが強い町です。
しかしながら、意外にも町域は広く、山間集落も多く抱えています。
それら集落を結びつつ走るのが、この下加茂~天神原線で、1日6往復のみのローカル線です。
役場が置かれている下加茂から、青野川に沿って狭隘県道を終点目指して上っていきます。
そして、それら集落らの一番奥にあるのが、高台に開けた天神原なのです。
この奥深い集落を開拓したのは、終戦直後に夢破れて外地から引き揚げてきた人々で、 バス停の横にも戦後開拓村であることを伝える記念碑があります。
なにより、ここでは今でも伊豆方言ではなく、標準語のイントネーションが根付いているそうです。
戦後70余年、今なお天神原には引き揚げの歴史が息づいています。
観光地伊豆にも、こんな「標準語の村」があるのです。
(平成25年7月訪問)
バスは、おおよそ伊豆のイメージとはかけ離れた、鬱蒼と茂る杉林を抜けていきます。
その先に、夕日に照らされた天神原の集落がありました。
伊豆半島の南端に位置する南伊豆町は、石廊崎灯台に代表されるように、海沿いのイメージが強い町です。
しかしながら、意外にも町域は広く、山間集落も多く抱えています。
それら集落を結びつつ走るのが、この下加茂~天神原線で、1日6往復のみのローカル線です。
役場が置かれている下加茂から、青野川に沿って狭隘県道を終点目指して上っていきます。
そして、それら集落らの一番奥にあるのが、高台に開けた天神原なのです。
この奥深い集落を開拓したのは、終戦直後に夢破れて外地から引き揚げてきた人々で、 バス停の横にも戦後開拓村であることを伝える記念碑があります。
なにより、ここでは今でも伊豆方言ではなく、標準語のイントネーションが根付いているそうです。
戦後70余年、今なお天神原には引き揚げの歴史が息づいています。
観光地伊豆にも、こんな「標準語の村」があるのです。
2013年7月8日月曜日
【バス終点】高知高陵交通/須崎梼原線
■終点:梼原(ゆすはら) 路線図
四万十川の上流、檮原川の源流近くに、梼原という町があります。
四国山地の西部、愛媛県との県境にある山深いところです。
濃緑に抱かれた家々は、谷あいに寄り添うよう屋根を連ねています。 合併前の人口はおよそ二千。険しい地勢ながらも大きな集落です。
これはひとえに津野氏、長宗我部氏の頃より伊予に通じる国境の村であったからに他なりません。梼原には、須崎から大洲へと続く梼原街道が通ります。
その道は峻険な四国山地にふさわしく、山肌に貼り付いた頼りない道です。しかし、高知から梼原への道は他になく、幕末期には坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党や天誅組など、多くの志士たちがここを通って脱藩していきました。
もちろん、高知高陵交通の梼原線もこの道を通ります。 底深い谷をつづら折りの道で進み、当別峠を越えて梼原へ。ローカルバスの似合う山間の小道は、見かけによらず壮大な歴史の道なのでありました。
(平成24年8月訪問)
■路線概要
県交通グループに属する高知高陵交通は、梼原町の出資によるバス会社であった梼原観光自動車と、高知県交通の2社によって設立された会社であり、高知県西部の須崎市および高岡郡内山間部を主な営業範囲としています。
須崎梼原線は同社における最も主要な路線であり、「須崎本社営業所」と、「梼原営業所」間を結んでいます。
路線の歴史も古く、昭和元年に須崎梼原間が開業し、昭和38年には高知市への直通急行バス「ゆすはら号」が走るようになりました。
基本的には国道197号線を走りますが、途中の大川第一停留所-桂トンネル間で旧国道となる県道377号線を通る「大西経由」便と、そのまま国道を走る「布施ケ坂新道経由」便、ふた通りの経路があります。特に県道区間は狭隘路が連続します。
なお、高知直通便は全て新道経由です。
平成23年10月1日改正時点で、須崎梼原間は5往復あり、うち大西経由が2往復です。ほかに須崎杉の川間、須崎新田間、新田梼原間の区間便が若干あります。
曜日によって運行本数が変わりることはないですが、新田梼原間の区間便については学休期間中の運行がありません。
■狭隘区間:大川第一から桂トンネル(大西経由便)
須崎から30分ほど。旧葉山村の役場が置かれた津野町永野の集落を過ぎてまもなく、バスは国道から逸れて、旧国道である県道377号線へとハンドルを切ります。
新荘川の最上流に位置するこのあたりは、川を軸にして北部と南部の山地に分かれた葉山地溝帯を形成しており、県道は川の北岸の断層崖に沿うように走るのです。
道の片側は断崖絶壁が、もう片側には剥き出しの法面がそびえ立つような狭隘路が続いており、加えて、北岸・南岸から新荘川に流れ込む多くの支流が作り出した河岸段丘を越えつつ進むこととなるため、上り下りの勾配もきつく、車窓の遷り変りには全く飽きがきません。
それぞれの支流との合流点ごとにある集落をいくつか過ぎ、鶴松(かくしょう)森の巨峰が仰ぎ見えるようになると、バスは再び国道へと戻ります。 野越トンネルで新荘川水系と四万十川水系との分水嶺を越えると、いよいよ梼原町です。
四万十川の上流、檮原川の源流近くに、梼原という町があります。
四国山地の西部、愛媛県との県境にある山深いところです。
濃緑に抱かれた家々は、谷あいに寄り添うよう屋根を連ねています。 合併前の人口はおよそ二千。険しい地勢ながらも大きな集落です。
これはひとえに津野氏、長宗我部氏の頃より伊予に通じる国境の村であったからに他なりません。梼原には、須崎から大洲へと続く梼原街道が通ります。
その道は峻険な四国山地にふさわしく、山肌に貼り付いた頼りない道です。しかし、高知から梼原への道は他になく、幕末期には坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党や天誅組など、多くの志士たちがここを通って脱藩していきました。
| 写真中央の道を走ります |
(平成24年8月訪問)
■路線概要
県交通グループに属する高知高陵交通は、梼原町の出資によるバス会社であった梼原観光自動車と、高知県交通の2社によって設立された会社であり、高知県西部の須崎市および高岡郡内山間部を主な営業範囲としています。
須崎梼原線は同社における最も主要な路線であり、「須崎本社営業所」と、「梼原営業所」間を結んでいます。
路線の歴史も古く、昭和元年に須崎梼原間が開業し、昭和38年には高知市への直通急行バス「ゆすはら号」が走るようになりました。
基本的には国道197号線を走りますが、途中の大川第一停留所-桂トンネル間で旧国道となる県道377号線を通る「大西経由」便と、そのまま国道を走る「布施ケ坂新道経由」便、ふた通りの経路があります。特に県道区間は狭隘路が連続します。
なお、高知直通便は全て新道経由です。
平成23年10月1日改正時点で、須崎梼原間は5往復あり、うち大西経由が2往復です。ほかに須崎杉の川間、須崎新田間、新田梼原間の区間便が若干あります。
曜日によって運行本数が変わりることはないですが、新田梼原間の区間便については学休期間中の運行がありません。
■狭隘区間:大川第一から桂トンネル(大西経由便)
須崎から30分ほど。旧葉山村の役場が置かれた津野町永野の集落を過ぎてまもなく、バスは国道から逸れて、旧国道である県道377号線へとハンドルを切ります。
新荘川の最上流に位置するこのあたりは、川を軸にして北部と南部の山地に分かれた葉山地溝帯を形成しており、県道は川の北岸の断層崖に沿うように走るのです。
道の片側は断崖絶壁が、もう片側には剥き出しの法面がそびえ立つような狭隘路が続いており、加えて、北岸・南岸から新荘川に流れ込む多くの支流が作り出した河岸段丘を越えつつ進むこととなるため、上り下りの勾配もきつく、車窓の遷り変りには全く飽きがきません。
それぞれの支流との合流点ごとにある集落をいくつか過ぎ、鶴松(かくしょう)森の巨峰が仰ぎ見えるようになると、バスは再び国道へと戻ります。 野越トンネルで新荘川水系と四万十川水系との分水嶺を越えると、いよいよ梼原町です。
2013年7月2日火曜日
【バス終点】宇和島自動車/武者泊線
■終点:武者泊(むしゃどまり) 路線図
宇和島から1時間の城辺ターミナルで乗り換えること、更に1時間。
崖に貼りついてヘロヘロと続く道の終わり、そこが終点でありました。
稜線近くにある小高いバス転回場から下を見ると、深い入江にへばりつくよう家並みが広がっています。
ようやく行き着いた武者泊は、そんな外海の集落でした。
愛媛県の南端、御荘から宇和海に突き出すように船越半島が伸びています。
リアス式海岸が続き、古くから好漁場として知られているところです。
半島は瀬戸内側と太平洋側で地域がわけられ、それぞれ内海(うちうみ)、外海(そとうみ)と呼ばれています。
比較的波穏やかな内海に対して、太平洋の波洗う宿毛湾に面する外海では、黒潮の分流が海岸を激しく洗うのです。
このような環境の違いは、地域の糧である漁業にも現れており、 内海で多く目にした真珠やブリの養殖筏は少なく、かわって一本釣り漁船の姿が多くなります。外海、なかでも武者泊は、昔ながらのカツオ一本釣りで暮らしをたてている所なのです。
あいにく訪れた3月のあたまはカツオ漁の夜明け前。しかし、どこまでも静かな集落ながら、その後ろには入り組んだ海岸線と豊かであろう大海原が広がります。目をとじると大漁旗を掲げて帰港する漁船が浮かぶようです。
「今は一番に時期が悪いですよ。また来たらええです。」
ハンドルを握る運転士も、こう言ってしきりに惜しがってくれたことですし、ぜひ漁のシーズン中に再訪してみようと思う終点です。
(平成25年3月訪問)
■宇和島自動車武者泊線概要
国道56号線沿いの城辺バスターミナルと、船越半島南端の武者泊を結ぶ路線です。
昭和14年4月20日に開業した城辺~船越間を基本としており、以後、道路の改良を待って順次延伸を重ねてきました。
戦争を挟んだ昭和22年5月15日には船越から福浦まで、続く昭和34年1月31日には麦ケ浦まで延伸され、昭和42年6月26日に武者泊まで全通しました。
当初は城辺~船越間において県道34号線を経由していましたが、昭和51年の西海有料道路開通を受けて一部を同道路経由へと振り替えます。その後、平成22年に西海道路経由へと一本化され(小屋浦~竹倉間廃止)、現在の形となりました。(※)
開業時の運行本数は確認できませんでしたが、昭和20年6月時点では4往復が運行されています。福浦延伸時にはそのうち3往復が福浦に直通し、残る1往復は船越止めのまま残りますが、麦ケ浦延伸時に4往復すべてが終点まで走るようになり、武者泊延伸時にはこれが6往復となりました。その後の大きな変更はありません。
平成22年10月改正の現行ダイヤでは、1日6往復のうち1往復が日祝運休、2往復が学休日運休で、途中の船越にて外泊方面と連絡する便も設定されています。
全便とも城辺営業所に所属する中型車で運行され、毎晩1台が武者泊にて運転士とともに夜間滞泊をおこなっています。また、西海道路口~武者泊間は自由乗降区間の指定を受けています。
(※)県道320号線西海有料道路は平成18年に無料開放され、平成24年には県道34号線に統合されています。そのため、廃止された区間を正確に言うと、県道34号旧道区間となります。
■参考文献
『西海町誌』(西海町、昭和54年)
『御荘町史』(御荘町、昭和45年)
『全国バス事業要覧 昭和27年度版』(日本乗合自動車協会、昭和26年)
『全国バス事業要覧 昭和30年度版』(同上、昭和29年)
『愛媛県のバスとタクシーの歩み』(愛媛県旅客自動車協会、昭和38年)
『宇和島自動車労働組合50年史』(宇和島自動車労働組合、平成9年)
『角川日本地名大辞典 愛媛県版』(角川書店、昭和56年)
宇和島から1時間の城辺ターミナルで乗り換えること、更に1時間。
崖に貼りついてヘロヘロと続く道の終わり、そこが終点でありました。
稜線近くにある小高いバス転回場から下を見ると、深い入江にへばりつくよう家並みが広がっています。
ようやく行き着いた武者泊は、そんな外海の集落でした。
愛媛県の南端、御荘から宇和海に突き出すように船越半島が伸びています。
リアス式海岸が続き、古くから好漁場として知られているところです。
半島は瀬戸内側と太平洋側で地域がわけられ、それぞれ内海(うちうみ)、外海(そとうみ)と呼ばれています。
比較的波穏やかな内海に対して、太平洋の波洗う宿毛湾に面する外海では、黒潮の分流が海岸を激しく洗うのです。
このような環境の違いは、地域の糧である漁業にも現れており、 内海で多く目にした真珠やブリの養殖筏は少なく、かわって一本釣り漁船の姿が多くなります。外海、なかでも武者泊は、昔ながらのカツオ一本釣りで暮らしをたてている所なのです。
あいにく訪れた3月のあたまはカツオ漁の夜明け前。しかし、どこまでも静かな集落ながら、その後ろには入り組んだ海岸線と豊かであろう大海原が広がります。目をとじると大漁旗を掲げて帰港する漁船が浮かぶようです。
「今は一番に時期が悪いですよ。また来たらええです。」
ハンドルを握る運転士も、こう言ってしきりに惜しがってくれたことですし、ぜひ漁のシーズン中に再訪してみようと思う終点です。
(平成25年3月訪問)
■宇和島自動車武者泊線概要
国道56号線沿いの城辺バスターミナルと、船越半島南端の武者泊を結ぶ路線です。
昭和14年4月20日に開業した城辺~船越間を基本としており、以後、道路の改良を待って順次延伸を重ねてきました。
戦争を挟んだ昭和22年5月15日には船越から福浦まで、続く昭和34年1月31日には麦ケ浦まで延伸され、昭和42年6月26日に武者泊まで全通しました。
当初は城辺~船越間において県道34号線を経由していましたが、昭和51年の西海有料道路開通を受けて一部を同道路経由へと振り替えます。その後、平成22年に西海道路経由へと一本化され(小屋浦~竹倉間廃止)、現在の形となりました。(※)
開業時の運行本数は確認できませんでしたが、昭和20年6月時点では4往復が運行されています。福浦延伸時にはそのうち3往復が福浦に直通し、残る1往復は船越止めのまま残りますが、麦ケ浦延伸時に4往復すべてが終点まで走るようになり、武者泊延伸時にはこれが6往復となりました。その後の大きな変更はありません。
平成22年10月改正の現行ダイヤでは、1日6往復のうち1往復が日祝運休、2往復が学休日運休で、途中の船越にて外泊方面と連絡する便も設定されています。
全便とも城辺営業所に所属する中型車で運行され、毎晩1台が武者泊にて運転士とともに夜間滞泊をおこなっています。また、西海道路口~武者泊間は自由乗降区間の指定を受けています。
(※)県道320号線西海有料道路は平成18年に無料開放され、平成24年には県道34号線に統合されています。そのため、廃止された区間を正確に言うと、県道34号旧道区間となります。
| 船越入口~船越間にて |
『西海町誌』(西海町、昭和54年)
『御荘町史』(御荘町、昭和45年)
『全国バス事業要覧 昭和27年度版』(日本乗合自動車協会、昭和26年)
『全国バス事業要覧 昭和30年度版』(同上、昭和29年)
『愛媛県のバスとタクシーの歩み』(愛媛県旅客自動車協会、昭和38年)
『宇和島自動車労働組合50年史』(宇和島自動車労働組合、平成9年)
『角川日本地名大辞典 愛媛県版』(角川書店、昭和56年)
2013年5月10日金曜日
【バス終点】小田急バス/向13系統
■終点:明治大学正門(めいじだいがくせいもん)
新宿から小田急線で半時間ほど、多摩川を越えた先に小高い生田の丘があります。
その丘の頂に広がるのが明治大学の生田校舎で、どこか国立大学のような緑豊かなキャンパスです。
今でこそ若者の声が絶えない活気あふれるところですが、 戦前から戦中にかけて陸軍の「登戸研究所」が置かれ、細菌兵器や風船爆弾の開発が行われていたことで知られています。
戦後、研究所跡地にひらかれたのが生田校舎なのです。
その明大行きのバスは向ヶ丘遊園駅から。団地が並ぶ丘の斜面を駆け上がり、大学の正門をくぐった先が終点です。
大学構内らしく入学式のころには花びら舞い、それはそれは絵になるバス停ですが、この桜が植樹されたのは意外にも戦前だそう。
美しく咲き誇る姿からは想像がつきにくいものの、少しく残る当時の実験棟と共に陸軍時代を知る数少ない生き証人なのです。
(25年4月訪問)
新宿から小田急線で半時間ほど、多摩川を越えた先に小高い生田の丘があります。
その丘の頂に広がるのが明治大学の生田校舎で、どこか国立大学のような緑豊かなキャンパスです。
今でこそ若者の声が絶えない活気あふれるところですが、 戦前から戦中にかけて陸軍の「登戸研究所」が置かれ、細菌兵器や風船爆弾の開発が行われていたことで知られています。
戦後、研究所跡地にひらかれたのが生田校舎なのです。
その明大行きのバスは向ヶ丘遊園駅から。団地が並ぶ丘の斜面を駆け上がり、大学の正門をくぐった先が終点です。
大学構内らしく入学式のころには花びら舞い、それはそれは絵になるバス停ですが、この桜が植樹されたのは意外にも戦前だそう。
美しく咲き誇る姿からは想像がつきにくいものの、少しく残る当時の実験棟と共に陸軍時代を知る数少ない生き証人なのです。
(25年4月訪問)
2013年4月9日火曜日
【バス終点】高知東部交通/馬路線
■終点:魚梁瀬(やなせ)
太平洋に沿って走ってきた安芸からの小型バスは、安田の貯木場を見過ぎると、いよいよ急峻な四国山地へと入っていきます。
このあたり、高知県東部にある安芸郡は広く林業で栄えた所で、なかでも広大な国有林が広がる魚梁瀬は、営林署の手で拓かれた四国を代表する林業の村です。
魚梁瀬の歴史を紐解く上で重要なのが、山深い奥地にある森林資源を切り出すために作られた魚梁瀬森林鉄道で、魚梁瀬と安田(田野)、奈半利の貯木場を結びました。この建設こそが、魚梁瀬を拓き、発展させたのです。
それまで、もっぱら人力や牛馬車、そしてせいぜい奈半利川・安田川を利用した流材によって木々を伐り出していた四国山地に、はじめて近代的で効率的な輸送手段が現れたのですから、それはもう革命でした。
時代が進んだのちのこと、電源開発による奈半利ダム建設に伴い、材木輸送はトラックへと代替されますが、一部区間では道路へと転用され、かつての鉄道ルートは今でも欠かせない大事な輸送路となっています。
もちろんバスも鉄道跡を走ります。安田川沿いに魚梁瀬へ続く県道12号線は、安田から既に離合すらままならない「険道」 ですが、途中の馬路をすぎると特にカーブが増え、右へ左へ車体を大きく揺らしつつ進んでいきます。
鉄道は急勾配を避けるために蛇行を繰り返しますから、続く曲線は、ここにかつて鉄路が引かれていたことを物語っているのです。
バスの終点・魚梁瀬はダム建設によってその姿を変え、整然と区画整理された移転集落からは昔を偲ぶことはできませんが、村を切り拓いた森林鉄道の面影は、今も山中にしっかりと残されています。
■高知東部交通馬路線路線概要
安芸と魚梁瀬を安田川沿いに結ぶ路線で、平成22年3月改正の現行ダイヤでは全線毎日2往復に加え、途中の馬路まで平日2往復、日祝日1往復の区間便が加わります。
この路線の歴史は古く、高知県交通の前身にあたる野村組自動車部の手によって、大正9年に安芸・馬路間が開業しました。
しかしながら、残る馬路・魚梁瀬間の開通は遅く、森林鉄道の廃止に伴う道路拡幅が完成する昭和37年まで待つこととなりました。
その後、高知県交通の地域分社化方針に基づき、平成5年に高知東部交通へと路線移管され現在に至ります。
なお、明治40年~昭和38年まで当地には魚梁瀬森林鉄道が引かれ、生命財産の保証をしない「便乗」という形で住民の乗車が認められており、バス開通まで地域の足として重宝されていました。
(25年3月訪問)
太平洋に沿って走ってきた安芸からの小型バスは、安田の貯木場を見過ぎると、いよいよ急峻な四国山地へと入っていきます。
このあたり、高知県東部にある安芸郡は広く林業で栄えた所で、なかでも広大な国有林が広がる魚梁瀬は、営林署の手で拓かれた四国を代表する林業の村です。
魚梁瀬の歴史を紐解く上で重要なのが、山深い奥地にある森林資源を切り出すために作られた魚梁瀬森林鉄道で、魚梁瀬と安田(田野)、奈半利の貯木場を結びました。この建設こそが、魚梁瀬を拓き、発展させたのです。
それまで、もっぱら人力や牛馬車、そしてせいぜい奈半利川・安田川を利用した流材によって木々を伐り出していた四国山地に、はじめて近代的で効率的な輸送手段が現れたのですから、それはもう革命でした。
時代が進んだのちのこと、電源開発による奈半利ダム建設に伴い、材木輸送はトラックへと代替されますが、一部区間では道路へと転用され、かつての鉄道ルートは今でも欠かせない大事な輸送路となっています。
もちろんバスも鉄道跡を走ります。安田川沿いに魚梁瀬へ続く県道12号線は、安田から既に離合すらままならない「険道」 ですが、途中の馬路をすぎると特にカーブが増え、右へ左へ車体を大きく揺らしつつ進んでいきます。
鉄道は急勾配を避けるために蛇行を繰り返しますから、続く曲線は、ここにかつて鉄路が引かれていたことを物語っているのです。
バスの終点・魚梁瀬はダム建設によってその姿を変え、整然と区画整理された移転集落からは昔を偲ぶことはできませんが、村を切り拓いた森林鉄道の面影は、今も山中にしっかりと残されています。
■高知東部交通馬路線路線概要
安芸と魚梁瀬を安田川沿いに結ぶ路線で、平成22年3月改正の現行ダイヤでは全線毎日2往復に加え、途中の馬路まで平日2往復、日祝日1往復の区間便が加わります。
この路線の歴史は古く、高知県交通の前身にあたる野村組自動車部の手によって、大正9年に安芸・馬路間が開業しました。
しかしながら、残る馬路・魚梁瀬間の開通は遅く、森林鉄道の廃止に伴う道路拡幅が完成する昭和37年まで待つこととなりました。
その後、高知県交通の地域分社化方針に基づき、平成5年に高知東部交通へと路線移管され現在に至ります。
なお、明治40年~昭和38年まで当地には魚梁瀬森林鉄道が引かれ、生命財産の保証をしない「便乗」という形で住民の乗車が認められており、バス開通まで地域の足として重宝されていました。
(25年3月訪問)
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