2014年11月1日土曜日

【バス終点】伊予鉄道/松山空港線

■終点:湧ヶ淵(わきがふち)

 道後へ向かう入湯客を巡って伊予鉄道と松山電気軌道が熾烈な誘客合戦を繰り広げたことは、松山の歴史を知る者にとっておおよそ有名なことでしょう。道後行き電車が発車するたびに駅頭で客引きの鐘を鳴らしあったというエピソードは今でも語り継がれています。

 しかしながら、両社の争いが鉄道線路から遠く離れた地でも繰り広げられていたことは、あまり知られていないようです。

 いま松山の街を訪れてみると、かつて争いの象徴とされた道後行き電車の横を「湧ヶ淵」という行き先を掲げた松山空港線のローカルバスが走っています。おおよそ路線名には似合わない行き先ですが、それもそのはず。この路線の終点は、空港からまちなかを横断し、石手川の奥へとずいぶんと進んだ幽谷にあるのですから。
 そして、この終点の幽谷こそが、伊予鉄と松電、もうひとつの争いの舞台。明治の終わり頃には水力発電をめぐる「エレキ戦争」が、ここ湧ヶ淵で繰り広げられていたのです。

道路の向こうに石手川が流れる 伊予水力の発電所は対岸にあった

 この地にはじめて発電所を設けられたのは明治36年のことで、伊予鉄道と資本的なつながりがあった伊予水力発電会社の手によるものでした。急峻な石手川の流れを利用した四国でもはじめての水力発電所で、この完成により松山平野に電灯が灯されたのです。

 戦いの火蓋が切って落とされるのは、その8年後となる明治44年。湧ヶ淵のすぐ下流に松山電気軌道会社がダムを造り、大規模な発電所を建設したのです。三津浜と松山を結ぶ新しい電車軌道の開業にあたって不可欠なものでした。
 この発電所は先にできた伊予水力のものよりはるかに大きなスケールだったそうで、自社路線と競合する鉄道が敷設されることに反対する伊予鉄の思惑も相まり、ダム建設や送水管敷設にあたっては伊予水力側があの手この手で嫌がらせにでたそうです。

 もちろん、松山電軌も負けずといがみ合い、ふたつの電力・鉄道会社がさながら産業スパイ合戦を演じることになります。やれ「あの請負人は伊予水力のまわし者じゃ」「あの人夫がセメントの横流しをしとる」などと、地元民まで巻き込んで平和な幽谷は大騒動。ついには裁判沙汰にまで発展し、発電所や鉄道の完成後も長く対立が続いたといいます。

 この騒動がようやく収まり、湧ヶ淵に静けさが戻ってきたのは、伊予水力も松山電軌も全て伊予鉄道に合併(合併後、伊予鉄道電気へ社名変更)された大正10年のこと。この地にはじめてバスが乗り入れる3年前の出来事でありました。

 爾来1世紀、湧ヶ淵は静かな場所であり続けています。石手川の滔々とした流れだけが明治の頃へと思いを馳せさせてくれますが、折返しを待つ間、しばしの休憩をとる空港線のローカルバスには知る由もないことです。

湧ヶ淵から少し下ると旧国鉄の郵便気動車を転用したレストランも オススメです
■伊予鉄道松山空港線沿革(但し、路線東部の松山駅前・湧ヶ淵間に限る)
 松山空港線の歴史は、大正13年6月に道後在住の個人(山崎朝勝氏)によって、道後自動車と称するバスの運行が松山・道後・宿野々間で行われたことにまで遡ることができます。これはどちらかというと、現在、松山市駅と米野々を結んでいる河中線の原型に近いものですが、ここ湧ヶ淵や湯山の地にバスが乗り入れたのは、この時がはじめてです。

 この河中方面線の運行母体は中予地方の多くのバス路線と同様、三共自動車を経て第二次大戦末期の昭和19年には伊予鉄道の手に移りますが、その後まもなく休止されたようで、運行が再開されるのは戦後混乱期を脱しつつある昭和24年まで待たねばなりませんでした。そして再開時、湯山方面への路線は、松山市駅を起点に新立から石手川の土手に沿って湯山や河中に至る河中線と、旧来の経路通り道後を起点に石手に至る石手線の2路線2系統に分離・拡充されています。

 このうちの石手線は、時期不詳ながら松山市駅・道後間および石手・湯之元間を延伸し湯之元線へと改称。そののち松山駅への乗り入れをはさんで、昭和39年12月にはさらに湧ヶ淵まで延伸されたうえ、奥道後線と再改称されています。これは、湧ヶ淵の近隣に「奥道後温泉観光ホテル」 という一大レジャーホテルが開業したことに伴うものでした。ここに松山駅・松山市駅・石手寺前・湧ヶ淵(なお、道後温泉駅前に関しては、奥道後方面行きのみ停車)を結ぶ、現松山空港線の直接の原型とも言える路線が生まれるのです。なお、このときはじめて湧ヶ淵に折り返し場が設けられました。

 奥道後線運行開始後の大きな動きとしては、昭和61年の湯の山ニュータウン入居に伴う乗り入れ開始(同時に上下便とも道後温泉駅前への停車を開始)および区間便の設定と、平成2年12月の路線再編が挙げられます。特に後者は、それまで松山空港・道後温泉駅前を結んでいた(旧)松山空港線と統合する大改変で、これ以降、松山空港から湧ヶ淵までロングランする(新)松山空港線として、路線名と運行区間を変えて現在に至っています。

空港連絡や観光輸送と並んで、ニュータウン路線としての顔も持つ

一番町付近経路図(クリックで拡大)

 最後に当路線(東側区間)で特筆される特徴をふたつ紹介して
おきましょう。
 まずひとつめは、郊外バスながら市内バス専用の一番町停留所に停車することです。これはロープウェイ街を経由する湯山方面行きの便に限ったことで、大街道停留所に停車できない代替措置です。都心ならではの特例で、市内バス用の停留所に郊外バスが停車する唯一の事例です。路線上には他にも市内バス専用の義安寺前停留所がありますが、もちろんこちらは通過しています。
 ふたつめは、お客さんを乗せたままターンテーブルを利用することです。袋小路となっている道後温泉駅前バスターミナルの奥には転回用のターンテーブルがあり、道後温泉駅前発着便はこれを必ず利用することになります。殆どの一般路線は道後温泉駅前を起終点としていますが、松山空港線に限っては経路途中となるため、このようなことが起こるのです。たいへん珍しい光景です。

■四国電力湯山発電所
 「エレキ戦争」の舞台となったこれらの発電所は、戦争の時代を経て、全て四国電力へと引き継がれました。現在でも昭和32年に統合のうえ全面改築された湯山発電所(正確には全て廃止のうえ、直後に新設)が稼働しており、最大で3400kWhの電力を生み出し続けています。
 近隣の西条火力発電所(計406,000kW)や伊方原子力発電所(計2,022,000kW)と比べると極小規模とはいえ、伊予水力の発電所は260kW、「大規模」とされた松山電軌のものでも537kWであったことを思うと、隔世の感がありますね。
 その変遷を以下にまとめました。(クリックで拡大)


 なお、現在の湯山発電所は、旧第二、第三発電所の敷地内に建っています。

 (誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/松山空港線の西半分(道後温泉・松山空港間/旧松山空港線区間)および河中線に関しては、稿を改めて紹介します。 )
※奥道後・空港両線の統合時期に誤りがあり、訂正いたしました。ご教示くださりありがとうございました。

2014年10月30日木曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/杣野線

■終点:杣野前組(そまのまえぐみ) ※平成26年10月1日廃止

 久万の営業所を出発したロートルバスは、いつしか暗い杉林のなか、ヘッドライトを灯して走っています。
 そして、いまが真っ昼間であることを忘れそうになったころ、終点に着くのです。

後ろには放棄林が 顔に陽が当たる区間はほんの僅かばかり

 杣野前組は、山林面積が9割を超えている久万高原町にあっても、 ひときわ目立つ純山村です。バス停の北側にわずかばかり広がる急な段畑が、集落の平地全てと言っても過言ではなく、農業といえばそこでタバコや茶などが栽培されているにすぎません。

 ここは、杣夫が築いた、林業のための集落なのです。
 「前組」という一風変わったバス停の名前は、その成り立ちをよく示しています。江戸時代の杣夫たちが指導者のもとで集まり、杣小屋で共同生活を行うことを「組」と呼ぶのですが、前組とは、まさにこの「組」から取られた地名だと思われます。

 はたして冬季の寒冷は厳しく積雪も多い当地は、長らく人里からは遠いところであったと考えられ、いつ拓かれたか、詳しいことは全くわかりません。
 とはいえ、あたり一帯では「若宮」と呼ばれる杣夫が郷土開拓の神として祀られており(「若宮信仰」)、ここはやはり古よりずっと木々とともに暮らしてきた集落なのでしょう。

県道が交差する場所にある終点だけは開けていた 集落はここから北へ階段状に広がっている

 それにしても、どうしてこんな山深くで人々の営みが生まれたのでしょうか。それはひとえに、四国でも有数の寒冷地であったからです。寒冷地で少しづつ育った木々は、年輪の目が細かく、美しい杢目と強度を併せ持つ名木になるのです。

 杣野がいかに良材を生み出したかを伝える話が『面河村名所旧蹟史』にあります。ろくろを使って椀や盆を作る木地師「小椋氏」が、わざわざ名木を求めて京都から移り住んできたというものです。美作や備後を経て、ようやく辿り着いた土地が、ここ杣野なのでした。江戸時代には、この静かな山村で作られた椀や盆が、割石峠を越え、松山を経て大坂の木地問屋に出荷されていたといいます。

 しかし、戦後になると、多くの山村の例に漏れず、杣野の林業は壊滅します。燃料革命に加えて、木材輸入の自由化が追い打ちをかけたのです。ことに他に頼る産業のない杣野では、この変化に対応できるはずもありません。

前組の手前にある宮前集落 廃屋が痛々しい

 バスが入る前年、昭和35年に596人を誇った前組の人口は、わずか19年後の昭和54年には181人へと激減し、この年には地区で唯一の学校であった石墨小学校が閉校しています。そこから5年後の59年にははやくも100人を割り込んでおり、更に30年を経た現在の人口は、推して知るべしだと言えましょう。

 もちろん、バスの本数もそれに合わせるように削減されました。平成初期までは、朝と昼に集落を出発し、昼と夕方に戻ってくるという、2往復ながら実用的なダイヤであったのが、最末期には1往復、それも昼間に集落へ向かい、すぐ折り返すだけの、使いたくても使えないダイヤに変わってしまったのです。

バス停から少し離れたところに車庫が残っている 滞泊の名残である

 木漏れ日の道だったであろうバス通りも、いつの頃からか無造作に茂る放棄林にかこまれて、万年日陰となってしまいました。杣夫の村が嘘のようです。

 それでも伊予鉄バスは、薄暗さに負けぬようヘッドライトを灯し、老体に鞭打って、なんとか頑張ってきました。ですが、それももう限界。
杣夫どころか、集落そのものが消えていこうとしている杣野前組には、定員56名のバスは大きすぎたのです。

 こうして、平成26年10月、伊予鉄南予バスらしいローカル線が、またひとつ消えていきました。


■伊予鉄道自動車部久万営業所管内路線成立史
 現在の久万高原町域にはじめてバスがお目見えしたのは、大正8年のことです。広島県加計町の児玉氏と香川県大川郡の小西氏による共同出資により設立された中予自動車商会の手によって、松山の河原町(立花旅館前、立花橋の南詰、実際は立花町にあった)と久万を結ぶ路線の運行が始められました。

 なお、その後の同区間では複数社による過当競争や、三共自動車によるそれらの統合、鉄道省による路線買収など様々な動きが見られますが、現在のジェイアール四国バス久万高原線(昭和9年に三共自動車から松山・久万・落出間を買収)に当たる区間ですので、 当稿では割愛いたします。

 改めて現在の伊予鉄南予バス久万営業所管内の営業路線に焦点を当てると、最も古いのは仕七川・久万(・松山)間で、大正12年に面河自動車の手によって運行が始められています。同社は久万町の小倉氏、湯浅氏、仕七川村の新谷氏らによって同年に設立されており、後に中央自動車、三共自動車を経て、昭和19年に伊予鉄道へと吸収されます。

 仕七川・久万間運行開始後の展開は不明ながら、伊予鉄道がバス事業を開始した時点では、上述の仕七川方面線の区間を含む御三戸・栃原間と、通仙橋・渋草間、仕七川・水押間、久万・畑野川間の4路線(免許交付日は全て18年12月23日)がありました。おそらく省営バスと連絡する御三戸ないし久万を起点に各終点を結んでいたと思われます。

 戦後の拡充は、まず昭和23年に栃原・若山間が延伸されたことに始まります。昭和24年には畑野川・上直瀬間(現在とは異なり、現県道153号線経由)が開通、そして昭和25年には清瀬橋・仕七川間が開通し、現在のメインルートである嵯峨山を経由(但し、峠御堂トンネル開通前につき中野村経由)する久万発、若山、渋草、水押行きの運行も始まります。

 なおも路線拡大はとどまることを知らず、昭和26年の渋草・竹本間延伸に続いて、昭和27年には若山・関門(昭和30年に面河と改称か?時期不明)間が延伸開業。昭和30年には国鉄との相互乗入協定(久万・御三戸・面河間)の発効に伴う御三戸発着便の久万延長(久万・御三戸開業)も行われています。

 幹線ルートの整備が一段落した昭和30年代には、枝線の開設・延伸が相次ぎます。まず昭和32年には伊予落合・富重間、直瀬公会堂・清瀬橋間、畑野川・明杖間が一挙に開通。昭和36年には一の谷・杣野前組間(杣野線)と久万・久万役場間(久万以遠線)が、昭和37年には明杖・河之内間(河之内線)がそれぞれ開通しています。

 なお、富重延伸をもって小田線と接続し、それまで孤立していた存在であった久万管内線は、松山を中心とした伊予鉄バスネットワークに組み込まれていくことになります。河之内線開業と同じ昭和37年には、室町営業所所管路線ながら、黒森峠経由で松山・面河を直結する面河特急線が開業。その3年後の昭和40年には念願であった松山・久万(・面河)間の直通快速バス(久万特急線)も実現しています。

 この久万特急線の開業をもって久万管内の路線拡大にはほぼ終止符が打たれたと言っても過言ではなく、昭和40年代の新規開業は石鎚スカイライン開通に伴う昭和45年の面河・石鎚土小屋間延伸のみです。そして、峠御堂トンネル供用開始による久万中学校前・畑野川間の短絡ルートが開業した昭和50年に、久万営業所管内の路線網はピークを迎えるのです。

※稿を改めて路線廃止についてもまとめます。/富重線の馬野地乗り入れは、学校統廃合によるもので、(確か)平成20年の延伸です。久万管内で最も新しい区間ということになります。(とはいえ、森松管内線であった小田・久万線の部分復活ですが。)/昭和37年の路線図表において、水押の一つ先に「峠」というバス停が見受けられます。詳細はわかりません。/県道153号線経由の畑野川・峠・直瀬公会堂間は昭和58年時点で存在していませんが、廃止の時期は不明です。

(主要参考文献)
面河村史/伊予鉄道百年史/社内報「いよてつ」各号/県バス協会年報各号/S58年秋時刻表
※参考文献の適当な書き方でもわかる通り、あくまで「参考程度の読み物」として捉えてください。
※事実誤認等、内容に関することについてご教示いただけると喜びます。

2014年10月23日木曜日

伊予鉄バス創業のころ

■はじめに
伊予鉄グループは四国最古の鉄道会社であるとともに、愛媛県で最大の規模を誇るバス会社であることは既知の通りですが、高名な<坊っちゃん列車>に象徴される鉄道創業期に対して、バス事業創業期のことについてはあまり知られていないように思われます。

しかしながら、伊予鉄道は愛媛県で最古の歴史を持つバス会社でもあります。大正5年11月3日に<伊予自動車>という事業者が八幡浜・郡中間でバス営業をはじめるのですが、ここに伊予鉄バスの源流を求めることができるのです。しかし、このことは伊予鉄道史の集大成とも言える『伊予鉄道百年史』をはじめ、節目ごとに出版された社史のなかで、殆ど触れられていません。確かに伊予自動車創業当時は伊予鉄道と資本関係などはなく、それどころか後に郡中と道後の間で鉄道と競合関係になる*1こともあり、記述が薄くなるのは仕方のない事かもしれませんが、残念なことです。そんな伊予自動車創業の頃の姿を、県旅客自動車協会資料や、関係市町村の資料、関係者の回想録などによって、いまいちど整理しておきます。

<郡中バス停> 乗り換えが必要ながら、今でも八幡浜まで路線が繋がる。
 ■伊予自動車(伊予鉄バス)創業のころ
佐田岬半島の付け根に位置する八幡浜は、天然の良港を有し、古くから大洲藩の外港として栄えていました。近代に入っても、その資本力や立地を活かして製糸業を始めとする諸産業が興り、大正期には<四国のマンチェスター>と称されるなど、栄華を極めていました。

ですが、県都・松山との交通には恵まれておりませんでした。大正初年当時、八幡浜と松山を行き来する一般的なルートは、佐田岬半島を大きく迂回する1日1便の汽船*2を使うというもので、松山で所用を足すには、日帰りは無論、1泊2日でも厳しく、折悪しく嵐にでも出会うものなら片道で3日、4日はたっぷり費やしたそうです。

こんな有り様ですから、愛媛県で最も早く本格的なバス運行が立案されたのも自然な話で、大正3年頃に八幡浜の開業医であった上甲簾氏によって、松山を目指す伊予自動車の創業が計画されます。株式募集に苦労したようで、計画から月日が開くものの、大正5年9月に資本金5千円にて設立がなり、先述の通り11月3日から郡中・八幡浜間で運輸営業を始めます。もっとも、詳細は不明ながら、夏頃には既に大洲と八幡浜の間でバスを走らせていたそうで、大らかな当時の世情が目に浮かんできます。

設立時のダイヤは2日で1往復。どちらかを朝に出て夕方に到着するという、至極のんびりしたものでした。当初こそ伊予鉄道線と郡中で連絡する形をとりましたが、翌年には松山を経由して道後湯之町まで乗り入れるようになります。詳しい運賃は不明ながら、愛媛県の保安課長などを歴任した岡井義雄氏の手記によると、大正7年頃は松山まで6円50銭くらいであったそうです。

開業時に用いられた車両はたったの1台。記念すべき愛媛県登録ナンバーの1番となったのは、小倉のカンジ商会なる商社を通じて購入された中古車で、米・ハドソン社製のHudson "Twenty"*3。前年に死去した佐久間左馬太元台湾総督が自家用車として使用していたものだそうです。

道後延伸がなり、利用客が増加した翌大正6年には3台が増備されますが、こちらも全てが中古車ないし再生車で、2番および3番が小田原電気鉄道*4の中古となる米・スチュードベーカー社製の1915年式 Studebaker、4番は忌番として飛び、5番が東京自動車飛行機製作所なる会社で製作されたフィアット再生車*5の<剣号*6>でした。
 ちなみに、初めての新車は米・オーバーランド製のもの*7で、大正8年に導入されています。

なお、県外からやってきたのは車両だけではなく、運転士や整備士も東京から招聘されました。愛媛県初のバス会社ならではだと言えましょう。
 (補足:当時の営業拠点の場所は、今のところ不詳です。現在の南予バス八幡浜営業所の位置=代官屋敷跡に移転したのは、大正12年とのこと。)

さて、このような形で走り始めた路線バスですが、なにぶん大正期のこと、一筋縄ではいかなかったようで、数々の問題がおこっています。車両の異常はその最たるものでしょう。パンクしたタイヤに藁を詰めて走ることなどは日常茶飯事で、郡中までの間に二十数回パンクして夜が明けたこともあったそうです。エンジンや電装系の故障も頻発し、面白いものでは運行中に前照灯が壊れたため、車掌がボンネットに馬乗りとなって提灯を掲げたなどというエピソードもあります。特に八幡浜と大洲を隔てる夜昼峠はクルマに大きな負荷がかかったようで、峠を越えて大洲に無事到着すると、わざわざ電報で八幡浜本社に安着を連絡するという決まりまでありました。
また、同時期の多くのバス会社と同様、箱馬車との紛争も激しく、馬車夫が自動車を取り囲み発車の妨害をし、流血騒ぎとまでなった事件もあったそうです。

<大洲本町案内所> 昭和戦前期のミルクホールを改装した建物が今も残る。
■まもなく創業100年
ここまで見てきたように、伊予鉄バス創業のころは、こんな時代でした。ポンコツ車が行って帰るだけの路線、パンクと闘い、馬車夫とわたり合いながら、土煙あがる凸凹道を必死に走っていたことでしょう。
ノンステップバスが頻発する現代の松山市駅前からは全く想像もつかない姿が、伊予鉄バスの源流にあるのです。

最後に、伊予自動車から伊予鉄道自動車部への変遷を、簡単に触れておきましょう。大正期は愛媛県においても中小バス事業者が乱立した時期で、八幡浜近辺でも大洲に予州自動車が、内子に内子自動車が次々に設立されています。もちろん、伊予自動車を巻き込んだ激しい競争が起こり、次第にバス会社統合の機運が高まっていくのです。結果、まず大正15年に松山の中予自動車と合併し中央自動車に、昭和8年には近隣事業者と更なる合併を行い三共自動車に、そして昭和19年に三共自動車が伊予鉄道に吸収合併され現在へつながってきます。この辺りの経緯は百年史などに詳しく、そちらも参照してください。

※伊予自動車はあくまで愛媛県初のバス会社、かつ現代まで途切れることなく続いている会社・路線であって、個人営業のバスですと先行する事例があります。明治43年に石井氏によって、 堀江(現在の堀江郵便局前あたり)と山越(<松屋旅館>付近らしいです。どこなんでしょうか。)の間でバス営業が行われたのですが、半年ほどで廃業しています。

*1: 大正6年にバスは郡中道後間延伸 *2:宇和島運輸会社、松山側の寄港地は郡中ならびに高浜 *3:年式不詳 *4:現在の箱根登山バス *5:シャーシ、エンジン等流用 *6:年式不明、おそらく1917年製造、ひらがな表記の文献もあり *7:形式不詳、導入年度から推察するにModel83ないし90

2014年8月21日木曜日

【バス終点】てんてつバス/達布留萌線

■終点:達布学校前(たっぷがっこうまえ)

留萌から北東におよそ30キロ、日本海へと注ぐ小平蘂川に沿ってきた山行きバスは、夏草の中をバッタが飛び交う、荒涼とした終点につきました。
ここ達布は、アイヌ語で「湾曲した川に囲まれた内陸の地」を意味する地で、その名の通り小平蘂川に育まれた稲穂がただただ広がる、ちいさな山間の町です。  


今からでは想像もつきませんが、かつてここには、北炭・天塩炭鉱(達布炭鉱)がありました。
達布には映画館から銭湯、商店街まで、おおよそ生活に必要な物が揃っていたことでしょう。

もちろん、閉山から半世紀を経て、当時の面影は殆ど残されていません。
最後に残った旅館は5年ほど前に、同じく最後の食堂は今年の頭に暖簾を下ろしたとのこと。
バスの終点でもある学校も、廃校となって久しいそうです。


そんななか、数少ない名残が、この「てんてつバス」、旧天塩鉄道バスに見られます。
町の中央部にある、廃屋に囲まれて佇む古びたバス営業所は、かつて石炭を運び出した鉄道の駅事務所であった建物なのです。

営業所は、達布の盛衰をつぶさに見てきました。
炭鉱が消え、鉄道が消え、営林署が消え、小学校が消え…。
変わりゆく町の中で、ただひとつの変わらなかった空間なのかもしれません。


ですが、そんな営業所も、次の冬を迎えることはありません。
古くは、年の瀬や留萌の夏祭りのときなど、鈴なりのお客さんを乗せたという達布留萌線も、今年の9月をもって廃止されることが決まっているのです。
運転士さんによると、営業所の建物も運命を同じくするそうです。

ヤマの街が、またひとつ森に還ろうとしています。


(26年8月訪問)

■ 達布営業所
営業所としての機能は既にありませんが、乗務員休憩所としては現役です。
全国的に見ても歴史ある建物が使われている出張所でしょう。
中には、戦前から使われているであろう「乘車券貯蔵箱」まであります。
乗務員休憩所のストーブの横に、外気温の書き込みがされたカレンダーが掲げられていたのが印象的でした。2014年の最高気温は摂氏34度、最低はマイナス25度だそう。

■達布炭鉱
留萌炭田地帯には、ほかにも留萌線沿線の大和田炭鉱や、留萌鉄道沿線の昭和炭鉱や羽幌炭鉱がありますが、達布炭鉱はこれらに比べて小規模で、採鉱時期も短いものでした。達布の入植=貸下げ自体が始まったのは明治40年のことながら、炭鉱が開発されたのは昭和14年から、鉄道が引かれたのは日米開戦後の同17年と、時代をかなり下らねばなりません。閉山は同42年、鉄道の廃止が47年ですから、達布が炭鉱で栄えたのは30年に満たなかったことになります。あえかな炭鉱町でした。

2014年8月9日土曜日

【バス終点】山梨交通/南アルプス登山バス


■終点:広河原(ひろがわら)
「広河原行きの快速です、乗りますか?」「発車、オーライ!」「お釣り、100円です。」

甲府駅発広河原行きの快速バスでは、停留所ごと、車掌さんの声が車内に響きます。

バスの車掌さん。
「となりのトトロ」の世界です。ワンマンバスが普及していない昭和中頃までは当たり前の光景だったことでしょう。しかし、私のような平成生まれにとっては、無縁なものだとばかり思っていました。


山梨交通に車掌乗務の路線があると聞いたのは昨年の春ごろ。
なんでも、南アルプス登山者向けの季節運行路線に、車掌さんが乗っているというのです。

季節限定とはいえ、きちんと路線免許の交付を受けた一般路線バスです。ボンネットバスを用いるなど、いかにもな観光路線風ではなく、ごく普通の中型車で運行されるというのも嬉しいところ。

さて、この路線のハイライトはなんといっても、芦安を過ぎて、白鳳渓谷の断崖絶壁に沿って伸びるバス・タクシー専用道。この美しくも危険な道がツーマンの理由でもあります。車掌さんと運転士さん、息のあった指差喚呼に、手際の良い無線交信で、狭隘区間での離合もなんのその、満員の登山客をしっかりと終点へと送り届けているのです。


今なお残る、正統派ツーマンバス。車窓から望む白凰渓谷の渓谷美と共に、後世まで残って欲しいバスがある風景です。

(25年6月訪問)