伊予鉄グループは四国最古の鉄道会社であるとともに、愛媛県で最大の規模を誇るバス会社であることは既知の通りですが、高名な<坊っちゃん列車>に象徴される鉄道創業期に対して、バス事業創業期のことについてはあまり知られていないように思われます。
しかしながら、伊予鉄道は愛媛県で最古の歴史を持つバス会社でもあります。大正5年11月3日に<伊予自動車>という事業者が八幡浜・郡中間でバス営業をはじめるのですが、ここに伊予鉄バスの源流を求めることができるのです。しかし、このことは伊予鉄道史の集大成とも言える『伊予鉄道百年史』をはじめ、節目ごとに出版された社史のなかで、殆ど触れられていません。確かに伊予自動車創業当時は伊予鉄道と資本関係などはなく、それどころか後に郡中と道後の間で鉄道と競合関係になる*1こともあり、記述が薄くなるのは仕方のない事かもしれませんが、残念なことです。そんな伊予自動車創業の頃の姿を、県旅客自動車協会資料や、関係市町村の資料、関係者の回想録などによって、いまいちど整理しておきます。
<郡中バス停> 乗り換えが必要ながら、今でも八幡浜まで路線が繋がる。 |
佐田岬半島の付け根に位置する八幡浜は、天然の良港を有し、古くから大洲藩の外港として栄えていました。近代に入っても、その資本力や立地を活かして製糸業を始めとする諸産業が興り、大正期には<四国のマンチェスター>と称されるなど、栄華を極めていました。
ですが、県都・松山との交通には恵まれておりませんでした。大正初年当時、八幡浜と松山を行き来する一般的なルートは、佐田岬半島を大きく迂回する1日1便の汽船*2を使うというもので、松山で所用を足すには、日帰りは無論、1泊2日でも厳しく、折悪しく嵐にでも出会うものなら片道で3日、4日はたっぷり費やしたそうです。
こんな有り様ですから、愛媛県で最も早く本格的なバス運行が立案されたのも自然な話で、大正3年頃に八幡浜の開業医であった上甲簾氏によって、松山を目指す伊予自動車の創業が計画されます。株式募集に苦労したようで、計画から月日が開くものの、大正5年9月に資本金5千円にて設立がなり、先述の通り11月3日から郡中・八幡浜間で運輸営業を始めます。もっとも、詳細は不明ながら、夏頃には既に大洲と八幡浜の間でバスを走らせていたそうで、大らかな当時の世情が目に浮かんできます。
設立時のダイヤは2日で1往復。どちらかを朝に出て夕方に到着するという、至極のんびりしたものでした。当初こそ伊予鉄道線と郡中で連絡する形をとりましたが、翌年には松山を経由して道後湯之町まで乗り入れるようになります。詳しい運賃は不明ながら、愛媛県の保安課長などを歴任した岡井義雄氏の手記によると、大正7年頃は松山まで6円50銭くらいであったそうです。
開業時に用いられた車両はたったの1台。記念すべき愛媛県登録ナンバーの1番となったのは、小倉のカンジ商会なる商社を通じて購入された中古車で、米・ハドソン社製のHudson "Twenty"*3。前年に死去した佐久間左馬太元台湾総督が自家用車として使用していたものだそうです。
道後延伸がなり、利用客が増加した翌大正6年には3台が増備されますが、こちらも全てが中古車ないし再生車で、2番および3番が小田原電気鉄道*4の中古となる米・スチュードベーカー社製の1915年式 Studebaker、4番は忌番として飛び、5番が東京自動車飛行機製作所なる会社で製作されたフィアット再生車*5の<剣号*6>でした。
ちなみに、初めての新車は米・オーバーランド製のもの*7で、大正8年に導入されています。
なお、県外からやってきたのは車両だけではなく、運転士や整備士も東京から招聘されました。愛媛県初のバス会社ならではだと言えましょう。
(補足:当時の営業拠点の場所は、今のところ不詳です。現在の南予バス八幡浜営業所の位置=代官屋敷跡に移転したのは、大正12年とのこと。)
さて、このような形で走り始めた路線バスですが、なにぶん大正期のこと、一筋縄ではいかなかったようで、数々の問題がおこっています。車両の異常はその最たるものでしょう。パンクしたタイヤに藁を詰めて走ることなどは日常茶飯事で、郡中までの間に二十数回パンクして夜が明けたこともあったそうです。エンジンや電装系の故障も頻発し、面白いものでは運行中に前照灯が壊れたため、車掌がボンネットに馬乗りとなって提灯を掲げたなどというエピソードもあります。特に八幡浜と大洲を隔てる夜昼峠はクルマに大きな負荷がかかったようで、峠を越えて大洲に無事到着すると、わざわざ電報で八幡浜本社に安着を連絡するという決まりまでありました。
また、同時期の多くのバス会社と同様、箱馬車との紛争も激しく、馬車夫が自動車を取り囲み発車の妨害をし、流血騒ぎとまでなった事件もあったそうです。
<大洲本町案内所> 昭和戦前期のミルクホールを改装した建物が今も残る。 |
ここまで見てきたように、伊予鉄バス創業のころは、こんな時代でした。ポンコツ車が行って帰るだけの路線、パンクと闘い、馬車夫とわたり合いながら、土煙あがる凸凹道を必死に走っていたことでしょう。
ノンステップバスが頻発する現代の松山市駅前からは全く想像もつかない姿が、伊予鉄バスの源流にあるのです。
最後に、伊予自動車から伊予鉄道自動車部への変遷を、簡単に触れておきましょう。大正期は愛媛県においても中小バス事業者が乱立した時期で、八幡浜近辺でも大洲に予州自動車が、内子に内子自動車が次々に設立されています。もちろん、伊予自動車を巻き込んだ激しい競争が起こり、次第にバス会社統合の機運が高まっていくのです。結果、まず大正15年に松山の中予自動車と合併し中央自動車に、昭和8年には近隣事業者と更なる合併を行い三共自動車に、そして昭和19年に三共自動車が伊予鉄道に吸収合併され現在へつながってきます。この辺りの経緯は百年史などに詳しく、そちらも参照してください。
※伊予自動車はあくまで愛媛県初のバス会社、かつ現代まで途切れることなく続いている会社・路線であって、個人営業のバスですと先行する事例があります。明治43年に石井氏によって、 堀江(現在の堀江郵便局前あたり)と山越(<松屋旅館>付近らしいです。どこなんでしょうか。)の間でバス営業が行われたのですが、半年ほどで廃業しています。
*1: 大正6年にバスは郡中道後間延伸 *2:宇和島運輸会社、松山側の寄港地は郡中ならびに高浜 *3:年式不詳 *4:現在の箱根登山バス *5:シャーシ、エンジン等流用 *6:年式不明、おそらく1917年製造、ひらがな表記の文献もあり *7:形式不詳、導入年度から推察するにModel83ないし90
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