■終点:達布学校前(たっぷがっこうまえ)
留萌から北東におよそ30キロ、日本海へと注ぐ小平蘂川に沿ってきた山行きバスは、夏草の中をバッタが飛び交う、荒涼とした終点につきました。
ここ達布は、アイヌ語で「湾曲した川に囲まれた内陸の地」を意味する地で、その名の通り小平蘂川に育まれた稲穂がただただ広がる、ちいさな山間の町です。
今からでは想像もつきませんが、かつてここには、北炭・天塩炭鉱(達布炭鉱)がありました。
達布には映画館から銭湯、商店街まで、おおよそ生活に必要な物が揃っていたことでしょう。
もちろん、閉山から半世紀を経て、当時の面影は殆ど残されていません。
最後に残った旅館は5年ほど前に、同じく最後の食堂は今年の頭に暖簾を下ろしたとのこと。
バスの終点でもある学校も、廃校となって久しいそうです。
そんななか、数少ない名残が、この「てんてつバス」、旧天塩鉄道バスに見られます。
町の中央部にある、廃屋に囲まれて佇む古びたバス営業所は、かつて石炭を運び出した鉄道の駅事務所であった建物なのです。
営業所は、達布の盛衰をつぶさに見てきました。
炭鉱が消え、鉄道が消え、営林署が消え、小学校が消え…。
変わりゆく町の中で、ただひとつの変わらなかった空間なのかもしれません。
ですが、そんな営業所も、次の冬を迎えることはありません。
古くは、年の瀬や留萌の夏祭りのときなど、鈴なりのお客さんを乗せたという達布留萌線も、今年の9月をもって廃止されることが決まっているのです。
運転士さんによると、営業所の建物も運命を同じくするそうです。
ヤマの街が、またひとつ森に還ろうとしています。
(26年8月訪問)
■ 達布営業所
営業所としての機能は既にありませんが、乗務員休憩所としては現役です。
全国的に見ても歴史ある建物が使われている出張所でしょう。
中には、戦前から使われているであろう「乘車券貯蔵箱」まであります。
乗務員休憩所のストーブの横に、外気温の書き込みがされたカレンダーが掲げられていたのが印象的でした。2014年の最高気温は摂氏34度、最低はマイナス25度だそう。
■達布炭鉱
留萌炭田地帯には、ほかにも留萌線沿線の大和田炭鉱や、留萌鉄道沿線の昭和炭鉱や羽幌炭鉱がありますが、達布炭鉱はこれらに比べて小規模で、採鉱時期も短いものでした。達布の入植=貸下げ自体が始まったのは明治40年のことながら、炭鉱が開発されたのは昭和14年から、鉄道が引かれたのは日米開戦後の同17年と、時代をかなり下らねばなりません。閉山は同42年、鉄道の廃止が47年ですから、達布が炭鉱で栄えたのは30年に満たなかったことになります。あえかな炭鉱町でした。
2014年8月21日木曜日
2014年8月9日土曜日
【バス終点】山梨交通/南アルプス登山バス
■終点:広河原(ひろがわら)
「広河原行きの快速です、乗りますか?」「発車、オーライ!」「お釣り、100円です。」
甲府駅発広河原行きの快速バスでは、停留所ごと、車掌さんの声が車内に響きます。
バスの車掌さん。
「となりのトトロ」の世界です。ワンマンバスが普及していない昭和中頃までは当たり前の光景だったことでしょう。しかし、私のような平成生まれにとっては、無縁なものだとばかり思っていました。
山梨交通に車掌乗務の路線があると聞いたのは昨年の春ごろ。
なんでも、南アルプス登山者向けの季節運行路線に、車掌さんが乗っているというのです。
季節限定とはいえ、きちんと路線免許の交付を受けた一般路線バスです。ボンネットバスを用いるなど、いかにもな観光路線風ではなく、ごく普通の中型車で運行されるというのも嬉しいところ。
さて、この路線のハイライトはなんといっても、芦安を過ぎて、白鳳渓谷の断崖絶壁に沿って伸びるバス・タクシー専用道。この美しくも危険な道がツーマンの理由でもあります。車掌さんと運転士さん、息のあった指差喚呼に、手際の良い無線交信で、狭隘区間での離合もなんのその、満員の登山客をしっかりと終点へと送り届けているのです。
今なお残る、正統派ツーマンバス。車窓から望む白凰渓谷の渓谷美と共に、後世まで残って欲しいバスがある風景です。
(25年6月訪問)
2013年12月20日金曜日
瀬戸内海交通/愛媛22か1807
引き続き瀬戸内海交通から、今回は象徴的な車両をご紹介しましょう。
路線用のシャーシでこの定員を実現するにあたり、少しでも客室面積を増やすためエンジンを横置きとするなど工夫は見られますが、再び同様の車両を導入することは到底不可能でしょう。
ちなみに、同車は今治~大三島線用としてではなく、下田水~大三島線(昭和63年開設)用として導入されています。これは当時、今治と大島を結ぶ来島海峡 大橋が未供用であったことから、今治との連絡船が発着した大島・下田水港を起点に島間連絡急行バスが運行されていたことによります。
なお、この路線は平成11年の来島海峡大橋架橋後も存続するものの、平成19年をもって廃止されました。このとき1807号車も予備車に格下げされ、以後は大三島急行線の代走・応援を中心に活躍しますが、今夏導入されたエアロエースに代替され引退となったのでした。
瀬戸内海交通のフラッグシップともよべる大三島急行線(今治桟橋~宮浦港)に充当されていた愛媛22か1807号車で、型式はP-LV218Q、ボデーは
ご覧のとおり西工58MC
B-Iです。平成元年に導入され大三島営業所に今年8月まで配置されていた急行専用車で、同社に在籍した最後の路線シャーシ長尺車であるとともに、最後の58MC急行車でした。
車内には13列の座席を有し、補助席を含めた旅客定員はなんと65人。通勤通学輸送に対応した詰め込み仕様です。キュービック最長となる軸距6.0メートルの大型長尺車とは言え、同路線の最新鋭車であるエアロエースの旅客定員が55人であることを考えると、その窮屈さが想像できることと思います。
路線用のシャーシでこの定員を実現するにあたり、少しでも客室面積を増やすためエンジンを横置きとするなど工夫は見られますが、再び同様の車両を導入することは到底不可能でしょう。
ちなみに、同車は今治~大三島線用としてではなく、下田水~大三島線(昭和63年開設)用として導入されています。これは当時、今治と大島を結ぶ来島海峡 大橋が未供用であったことから、今治との連絡船が発着した大島・下田水港を起点に島間連絡急行バスが運行されていたことによります。
なお、この路線は平成11年の来島海峡大橋架橋後も存続するものの、平成19年をもって廃止されました。このとき1807号車も予備車に格下げされ、以後は大三島急行線の代走・応援を中心に活躍しますが、今夏導入されたエアロエースに代替され引退となったのでした。
2013年12月16日月曜日
瀬戸内海交通/大島島内路線(その2)
前回に続いて、大島島内路線の歴史と、知られざる路線について紹介します。
島という海運が優勢となる立地条件ながら、大島におけるバスの歴史は比較的古く、昭和6年には個人(矢野武夫)の手で宮窪~幸間のバス営業がはじめられて います。6人乗りのシボレーただ1台で行われた小さな事業でしたが、戦争が激化するまで10年以上にわたって続けられました。
戦争が終わると昭和27年に宮窪~吉海間にバスが復活します。同じく個人(小原博・現在の小原タクシー)によるもので、免許上はハイヤーであるものの、事実上の乗合バスだったようです。同様の事例は各地に見られ、愛媛県内でも弓削島や中島で同様の行為が行われておりました。
道路運送法に基づく「乗合バス」が登場したのは昭和36年のこと。大島をはじめ、近隣の大三島など越智郡三島五町(現在の今治市島嶼部)の共同出資によって設立された「大三島観光交通」が、宮窪~幸間で路線を開設しました。個人による脱法的な営業を正し、また地域内で体系的な路線網を築くためにも、会社組織による運営が求められていたのです。
その大三島観光交通は瀬戸内運輸の資本参加を経て、昭和39年に瀬戸内海交通へと社名を変更します。そして翌40年に大島営業所が開設され、それを受け下田水から田浦・早川・友浦へ向かう路線が相次いで開業。ここに現在まで続く路線網が完成したのでした。
さて、バス網の整備に合わせて進められたのが、島内にある小学校の廃統合(宮窪・吉海小学校に統合)です。近頃はどこの過疎地でも行われている学校の統合ですが、大島に当時存在した宮窪・吉海の両町では、この時期に行われました。
統合新設された学校への通学手段は、もちろん上記の路線バスなのですが、それらのルートから外れる集落からの足として、朝夕のみ運行のスクールバス が設定されました。これが時刻表に載っていない「知られざる路線」なのです。そう、このスクールバスの特筆されるべきは、あくまで一般路線であり、誰しも が乗車をできるという事でしょう。
ちなみに、「スクールバス」の運行ルートは以下のとおり。
朝方
営業所→志津見を往復→南浦→名駒→下田水→営業所
夕方
下田水→名駒→南浦→営業所→志津見を往復→営業所
配布時刻表は存在せず(平成15年までは主に生徒向けとして作成していた)、方向幕も社幕で代用されることが多いのですが、れっきとした路線バスです。
最近の学校統廃合では、十中八九専用のスクールバスが用意されます。昭和中頃という早期に統合が行われた大島ならではの「限りなく貸し切りに近い」一般路線。たいへん珍しい存在と言えます。
その特殊性に加え、もちろん長期休暇や土日など学休日は全て運休ですから、相当に乗車ハードルは高いですが、運行日に大島を訪れた際にはぜひ乗ってみてください。
島という海運が優勢となる立地条件ながら、大島におけるバスの歴史は比較的古く、昭和6年には個人(矢野武夫)の手で宮窪~幸間のバス営業がはじめられて います。6人乗りのシボレーただ1台で行われた小さな事業でしたが、戦争が激化するまで10年以上にわたって続けられました。
戦争が終わると昭和27年に宮窪~吉海間にバスが復活します。同じく個人(小原博・現在の小原タクシー)によるもので、免許上はハイヤーであるものの、事実上の乗合バスだったようです。同様の事例は各地に見られ、愛媛県内でも弓削島や中島で同様の行為が行われておりました。
道路運送法に基づく「乗合バス」が登場したのは昭和36年のこと。大島をはじめ、近隣の大三島など越智郡三島五町(現在の今治市島嶼部)の共同出資によって設立された「大三島観光交通」が、宮窪~幸間で路線を開設しました。個人による脱法的な営業を正し、また地域内で体系的な路線網を築くためにも、会社組織による運営が求められていたのです。
その大三島観光交通は瀬戸内運輸の資本参加を経て、昭和39年に瀬戸内海交通へと社名を変更します。そして翌40年に大島営業所が開設され、それを受け下田水から田浦・早川・友浦へ向かう路線が相次いで開業。ここに現在まで続く路線網が完成したのでした。
さて、バス網の整備に合わせて進められたのが、島内にある小学校の廃統合(宮窪・吉海小学校に統合)です。近頃はどこの過疎地でも行われている学校の統合ですが、大島に当時存在した宮窪・吉海の両町では、この時期に行われました。
統合新設された学校への通学手段は、もちろん上記の路線バスなのですが、それらのルートから外れる集落からの足として、朝夕のみ運行のスクールバス が設定されました。これが時刻表に載っていない「知られざる路線」なのです。そう、このスクールバスの特筆されるべきは、あくまで一般路線であり、誰しも が乗車をできるという事でしょう。
ちなみに、「スクールバス」の運行ルートは以下のとおり。
朝方
営業所→志津見を往復→南浦→名駒→下田水→営業所
夕方
下田水→名駒→南浦→営業所→志津見を往復→営業所
配布時刻表は存在せず(平成15年までは主に生徒向けとして作成していた)、方向幕も社幕で代用されることが多いのですが、れっきとした路線バスです。
最近の学校統廃合では、十中八九専用のスクールバスが用意されます。昭和中頃という早期に統合が行われた大島ならではの「限りなく貸し切りに近い」一般路線。たいへん珍しい存在と言えます。
その特殊性に加え、もちろん長期休暇や土日など学休日は全て運休ですから、相当に乗車ハードルは高いですが、運行日に大島を訪れた際にはぜひ乗ってみてください。
2013年11月30日土曜日
瀬戸内海交通/大島島内路線(その1)
とりわけて私の好きな路線を紹介しましょう。瀬戸内海の島々を営業エリアとする瀬戸内海交通の大島島内路線です。
造船やタオルで知られる愛媛県今治市は、四国本土側の旧市街地に加えて、芸予諸島上の大三島・伯方島・大島などの島々をも市域に含んでいます。このような 島々を営業エリアとするのが瀬戸内海交通で、今治市本土を含めた愛媛県東予地方を広くエリアとする瀬戸内運輸の子会社です。
同社の路線で有名なのは、しまなみ海道を経由して島々と本土を結ぶ宮浦港~今治桟橋間の急行便ですが、地道に島内の公共交通を担うローカル路線の存在も忘れてはなりません。
このうち私が特にオススメしたいのが、本土から最も近い大島の島内路線でありまして、以下の3系統に大別できます。
下田水-田浦
下田水-友浦
下田水-早川
ターミナルとなっている下田水は、島の南部にある港で、かつては今治との連絡船が発着した玄関口でありました。そして、ここを出たバスは、島で最も大きな吉海の町を経て、終点の小さな集落へとそれぞれ向かっていくわけです。
ここには架橋前の路線網がそのまま残されており、それだけでも好ましいのですが、なによりも素晴らしいところはその車窓にあります。
下田水で来島海峡大橋を仰ぎ見たかと思うと、今度は吉海の町に残る狭隘路をそろそろと進み、まもなく終点の漁村へといった具合で、これはまさにイメージした通りの「島のバス」ではないでしょうか。
ちなみに趣味的に見ると、同社には四国地方で唯一となる西工58MC架装車が在籍しており、トップドアであることもあわせて嬉しい点かもしれません。
このように路線良し、車両良しの大島島内路線。今治や尾道を訪れた際は、ぜひ足を伸ばして乗車をしてみてください。
造船やタオルで知られる愛媛県今治市は、四国本土側の旧市街地に加えて、芸予諸島上の大三島・伯方島・大島などの島々をも市域に含んでいます。このような 島々を営業エリアとするのが瀬戸内海交通で、今治市本土を含めた愛媛県東予地方を広くエリアとする瀬戸内運輸の子会社です。

同社の路線で有名なのは、しまなみ海道を経由して島々と本土を結ぶ宮浦港~今治桟橋間の急行便ですが、地道に島内の公共交通を担うローカル路線の存在も忘れてはなりません。
このうち私が特にオススメしたいのが、本土から最も近い大島の島内路線でありまして、以下の3系統に大別できます。
下田水-田浦
下田水-友浦
下田水-早川
ターミナルとなっている下田水は、島の南部にある港で、かつては今治との連絡船が発着した玄関口でありました。そして、ここを出たバスは、島で最も大きな吉海の町を経て、終点の小さな集落へとそれぞれ向かっていくわけです。
ここには架橋前の路線網がそのまま残されており、それだけでも好ましいのですが、なによりも素晴らしいところはその車窓にあります。
下田水で来島海峡大橋を仰ぎ見たかと思うと、今度は吉海の町に残る狭隘路をそろそろと進み、まもなく終点の漁村へといった具合で、これはまさにイメージした通りの「島のバス」ではないでしょうか。
ちなみに趣味的に見ると、同社には四国地方で唯一となる西工58MC架装車が在籍しており、トップドアであることもあわせて嬉しい点かもしれません。
このように路線良し、車両良しの大島島内路線。今治や尾道を訪れた際は、ぜひ足を伸ばして乗車をしてみてください。
2013年10月3日木曜日
【バス終点】南伊豆東海バス/下加茂-天神原
■終点:天神原(てんじんばら)
バスは、おおよそ伊豆のイメージとはかけ離れた、鬱蒼と茂る杉林を抜けていきます。
その先に、夕日に照らされた天神原の集落がありました。
伊豆半島の南端に位置する南伊豆町は、石廊崎灯台に代表されるように、海沿いのイメージが強い町です。
しかしながら、意外にも町域は広く、山間集落も多く抱えています。
それら集落を結びつつ走るのが、この下加茂~天神原線で、1日6往復のみのローカル線です。
役場が置かれている下加茂から、青野川に沿って狭隘県道を終点目指して上っていきます。
そして、それら集落らの一番奥にあるのが、高台に開けた天神原なのです。
この奥深い集落を開拓したのは、終戦直後に夢破れて外地から引き揚げてきた人々で、 バス停の横にも戦後開拓村であることを伝える記念碑があります。
なにより、ここでは今でも伊豆方言ではなく、標準語のイントネーションが根付いているそうです。
戦後70余年、今なお天神原には引き揚げの歴史が息づいています。
観光地伊豆にも、こんな「標準語の村」があるのです。
(平成25年7月訪問)
バスは、おおよそ伊豆のイメージとはかけ離れた、鬱蒼と茂る杉林を抜けていきます。
その先に、夕日に照らされた天神原の集落がありました。
伊豆半島の南端に位置する南伊豆町は、石廊崎灯台に代表されるように、海沿いのイメージが強い町です。
しかしながら、意外にも町域は広く、山間集落も多く抱えています。
それら集落を結びつつ走るのが、この下加茂~天神原線で、1日6往復のみのローカル線です。
役場が置かれている下加茂から、青野川に沿って狭隘県道を終点目指して上っていきます。
そして、それら集落らの一番奥にあるのが、高台に開けた天神原なのです。
この奥深い集落を開拓したのは、終戦直後に夢破れて外地から引き揚げてきた人々で、 バス停の横にも戦後開拓村であることを伝える記念碑があります。
なにより、ここでは今でも伊豆方言ではなく、標準語のイントネーションが根付いているそうです。
戦後70余年、今なお天神原には引き揚げの歴史が息づいています。
観光地伊豆にも、こんな「標準語の村」があるのです。
2013年7月8日月曜日
【バス終点】高知高陵交通/須崎梼原線
■終点:梼原(ゆすはら) 路線図
四万十川の上流、檮原川の源流近くに、梼原という町があります。
四国山地の西部、愛媛県との県境にある山深いところです。
濃緑に抱かれた家々は、谷あいに寄り添うよう屋根を連ねています。 合併前の人口はおよそ二千。険しい地勢ながらも大きな集落です。
これはひとえに津野氏、長宗我部氏の頃より伊予に通じる国境の村であったからに他なりません。梼原には、須崎から大洲へと続く梼原街道が通ります。
その道は峻険な四国山地にふさわしく、山肌に貼り付いた頼りない道です。しかし、高知から梼原への道は他になく、幕末期には坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党や天誅組など、多くの志士たちがここを通って脱藩していきました。
もちろん、高知高陵交通の梼原線もこの道を通ります。 底深い谷をつづら折りの道で進み、当別峠を越えて梼原へ。ローカルバスの似合う山間の小道は、見かけによらず壮大な歴史の道なのでありました。
(平成24年8月訪問)
■路線概要
県交通グループに属する高知高陵交通は、梼原町の出資によるバス会社であった梼原観光自動車と、高知県交通の2社によって設立された会社であり、高知県西部の須崎市および高岡郡内山間部を主な営業範囲としています。
須崎梼原線は同社における最も主要な路線であり、「須崎本社営業所」と、「梼原営業所」間を結んでいます。
路線の歴史も古く、昭和元年に須崎梼原間が開業し、昭和38年には高知市への直通急行バス「ゆすはら号」が走るようになりました。
基本的には国道197号線を走りますが、途中の大川第一停留所-桂トンネル間で旧国道となる県道377号線を通る「大西経由」便と、そのまま国道を走る「布施ケ坂新道経由」便、ふた通りの経路があります。特に県道区間は狭隘路が連続します。
なお、高知直通便は全て新道経由です。
平成23年10月1日改正時点で、須崎梼原間は5往復あり、うち大西経由が2往復です。ほかに須崎杉の川間、須崎新田間、新田梼原間の区間便が若干あります。
曜日によって運行本数が変わりることはないですが、新田梼原間の区間便については学休期間中の運行がありません。
■狭隘区間:大川第一から桂トンネル(大西経由便)
須崎から30分ほど。旧葉山村の役場が置かれた津野町永野の集落を過ぎてまもなく、バスは国道から逸れて、旧国道である県道377号線へとハンドルを切ります。
新荘川の最上流に位置するこのあたりは、川を軸にして北部と南部の山地に分かれた葉山地溝帯を形成しており、県道は川の北岸の断層崖に沿うように走るのです。
道の片側は断崖絶壁が、もう片側には剥き出しの法面がそびえ立つような狭隘路が続いており、加えて、北岸・南岸から新荘川に流れ込む多くの支流が作り出した河岸段丘を越えつつ進むこととなるため、上り下りの勾配もきつく、車窓の遷り変りには全く飽きがきません。
それぞれの支流との合流点ごとにある集落をいくつか過ぎ、鶴松(かくしょう)森の巨峰が仰ぎ見えるようになると、バスは再び国道へと戻ります。 野越トンネルで新荘川水系と四万十川水系との分水嶺を越えると、いよいよ梼原町です。
四万十川の上流、檮原川の源流近くに、梼原という町があります。
四国山地の西部、愛媛県との県境にある山深いところです。
濃緑に抱かれた家々は、谷あいに寄り添うよう屋根を連ねています。 合併前の人口はおよそ二千。険しい地勢ながらも大きな集落です。
これはひとえに津野氏、長宗我部氏の頃より伊予に通じる国境の村であったからに他なりません。梼原には、須崎から大洲へと続く梼原街道が通ります。
その道は峻険な四国山地にふさわしく、山肌に貼り付いた頼りない道です。しかし、高知から梼原への道は他になく、幕末期には坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党や天誅組など、多くの志士たちがここを通って脱藩していきました。
写真中央の道を走ります |
(平成24年8月訪問)
■路線概要
県交通グループに属する高知高陵交通は、梼原町の出資によるバス会社であった梼原観光自動車と、高知県交通の2社によって設立された会社であり、高知県西部の須崎市および高岡郡内山間部を主な営業範囲としています。
須崎梼原線は同社における最も主要な路線であり、「須崎本社営業所」と、「梼原営業所」間を結んでいます。
路線の歴史も古く、昭和元年に須崎梼原間が開業し、昭和38年には高知市への直通急行バス「ゆすはら号」が走るようになりました。
基本的には国道197号線を走りますが、途中の大川第一停留所-桂トンネル間で旧国道となる県道377号線を通る「大西経由」便と、そのまま国道を走る「布施ケ坂新道経由」便、ふた通りの経路があります。特に県道区間は狭隘路が連続します。
なお、高知直通便は全て新道経由です。
平成23年10月1日改正時点で、須崎梼原間は5往復あり、うち大西経由が2往復です。ほかに須崎杉の川間、須崎新田間、新田梼原間の区間便が若干あります。
曜日によって運行本数が変わりることはないですが、新田梼原間の区間便については学休期間中の運行がありません。
■狭隘区間:大川第一から桂トンネル(大西経由便)
須崎から30分ほど。旧葉山村の役場が置かれた津野町永野の集落を過ぎてまもなく、バスは国道から逸れて、旧国道である県道377号線へとハンドルを切ります。
新荘川の最上流に位置するこのあたりは、川を軸にして北部と南部の山地に分かれた葉山地溝帯を形成しており、県道は川の北岸の断層崖に沿うように走るのです。
道の片側は断崖絶壁が、もう片側には剥き出しの法面がそびえ立つような狭隘路が続いており、加えて、北岸・南岸から新荘川に流れ込む多くの支流が作り出した河岸段丘を越えつつ進むこととなるため、上り下りの勾配もきつく、車窓の遷り変りには全く飽きがきません。
それぞれの支流との合流点ごとにある集落をいくつか過ぎ、鶴松(かくしょう)森の巨峰が仰ぎ見えるようになると、バスは再び国道へと戻ります。 野越トンネルで新荘川水系と四万十川水系との分水嶺を越えると、いよいよ梼原町です。
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