2023年5月15日月曜日

イハナシの魔女やりました

 ネタバレしない感想。


<よくないところ>

尺をギリギリまで削ってテンポを上げる試みは素晴らしいが、やり過ぎ。

主人公が育った背景(虐待)の描写をカットしたことで、優柔不断な主人公に共感できない

登場人物の感情の動きが早すぎてついていけない、主人公の魅力が伝わらないうちから好意?など


設定の開示がへたくそ。致命的な遅さの設定開示がひとつあるので探してみてね。

その結果、失礼すぎるシーンで終わるルートが生まれてしまっている。


善悪のバランスが悪すぎる。フィクションの悪は愛されることもあるということを理解してほしい。

島の人間を悪く描きすぎ。共感できる余地をなくしてしまっているのが大変残念。

沖縄の文化に深く触れているからこそ、それを最終盤まで単純悪として扱ったのは悲しい。


<よいところ>

沖縄の信仰に対する造詣が深い。沖縄を舞台にする理由がきちんとある作品だと断言できる。

観光地ではない沖縄が好きなものとしては、太鼓判を押さざるを得ない。素晴らしい。

セカイ系なのにセカイ系らしくないのは、実在の文化を下敷きにしているから。


尺をギリギリまでカットした割には、日常の積み重ねがそれなりに描かれている。

ほかに割くべきとも思うが、ゼロ年代美少女ゲームのエッセンスを感じられて、個人的には好き。

少なくとも個々のシーン自体は楽しめる。(ここを切り捨てるのはかなり勇気がいるのかもしれない。)


終盤はド王道のボーイミーツガール展開。

途中まで善悪バランスが崩れていることがノイズとして乗ってくるが、最終盤では気にならないほどの力で押し切ってくる。

よくないところを吹き飛ばす感じ。終わりよければ全てよしという気持ちになれる。


日常侵食系はいいよね。


<総評>

10時間程度でゼロ年代美少女ゲームを思い出させてくれる良作。こういうのでいいんだよ。


<その他>

沖縄の離島航路であんな丁寧なアナウンスは流れません。

高認の通知に合格の文字はなかったと思う。

ドボン大富豪やりたい。でも蛇足だよねあのシーン。


2022年2月17日木曜日

回数券雑感

 鉄道・バスの回数券が次々と消えている。ICカードが普及してもなお、磁気乗車券として残っていた鉄道各社の回数券であるが、2020年の秋以降、首都圏と近畿圏の大手事業者で発売中止が相次いでいる。

既存の運賃種別の中で、ICカードとの相性が悪いのが回数券である。回数券をICカードに取り込むことは技術的に可能であるが、利用者にも駅員にも利用回数や有効期限が券面に表示されずわかりにくいことや、ほかの乗車券と併用する際の扱いが困難であり、よって今後も残るものだと思っていたので驚いた。

また、バス回数券の廃止と同時に、首都圏各社局に広がったのがバス特の廃止である。こちらは単純な改悪であり、バス共通カード廃止時の代替割引として大々的に宣伝されたことを思うと隔世の感がある。

だが、改めて事業者の立場に立って考えてみると、回数券もバス特も何らメリットはなく、ただ歴史的経緯で行われているサービスであったのだということがわかる。

これらの割引根拠には、多頻度利用者に対する乗車券発券費用を節約することがまず挙げられる。しかしながら、この効果はワンマンバスや磁気乗車券に移行した時点で大きく減少し、ICカード導入でさらに減少している。

そして、企画券などで期待される需要惹起効果も薄い。同一区間の多頻度利用者は、通院や通学といった必要性の高い目的であり、普通運賃利用者と比べて需要の運賃弾力性が高いとは考えられない。

新型コロナウイルス感染拡大が広がって、運賃収入を増やすことが求められているが、東急など一部の例外を除き普通運賃や定期運賃の改定を事業者は躊躇している。というか、せざるを得ない理由がある。認可運賃の改定申請と、国交省による審査基準が一時的な需要減に伴う減収を想定していない。改定を決めた東急も、設備改善を最大の理由に挙げている。

そのため、事業者は増収の当てを、手間のかかる普通運賃の改定ではなく、届出で変更できる回数券や企画券などの割引乗車券の廃止や値上げ、届出の必要がないポイント付与の見直しに求めているのである。

磁気券最後の牙城とも言えた回数券が廃止される-外的要因により半ば強制的に進められるICカード利用拡大による運賃の見直しはまだまだ進みそうである。区間別、時間帯別に運賃を変動させるダイナミックプライシングが当然の世界はすぐそばにあるように思う。

回数券廃止は、きっぷや旅客営業制度の在り方を根幹から変えていく入り口にすぎないのであろう。

2020年11月10日火曜日

上高地と奈良のメモ

上高地帝国ホテル

鉄道省とその外局たる国際観光局によって1930年代に進められた国際観光政策によって最初に開発が検討されたのが上高地である。修験道の聖地であった軽井沢は、電力開発に伴う道路整備により、日本アルプスの拠点として脚光を浴びつつあった。その流れを確固たるものにしたのが、先述の国際観光政策と、それに伴い開業した新設の国際観光ホテル、すなわち上高地帝国ホテルであった。


上高地前史


上高地の観光地としての価値を最初に発見したのは、イギリス人宣教師ウォルター・ウェンストンであると言われている。彼が1891年に著した『日本アルプス―登山と探検』には、自ら徳本峠を越えて上高地にたどり着いた様子を記しており、多くの人々に上高地を紹介するきっかけになった。

それから遅れること15年、加藤惣吉によって1906年に「上高地温泉」が開設された。これが上高地における最初の宿泊施設である。しかし依然としてアクセスは徳本峠を越える徒歩道しかなく、観光地というにはほど遠い姿であった。

 

上高地の観光地としてのポテンシャルを大いに高めたのは、電源開発に伴う道路整備である。長距離送電の技術が確立され、日本中の渓谷で電源開発が進められた1920年代、同地でもダム及び発電所の建設が行われた。セバ谷ダムを調整池とした京浜電力湯川発電所、大正池を調整池とした梓川電力霞沢発電所がそれである。これら発電所の建設資材輸送のため、1928年には島々―奈川渡間の車道が京浜電力の手によって、翌29年には奈川渡―大正池間の車道が梓川電力の手によって建設された。そして、同年にはこれを利用した島々―中ノ湯間の乗合自動車(アルプス自動車)の運行が開始された。このようにして上高地は近代交通ネットワークに組み込まれ、観光地としての歩みを始めることになるのである。

 

国策としての上高地開発

 

鉄道省の外局であった国際観光局では、外客誘致のための重点整備を促進するために、全国の観光地点をランク付けしたリストを作成するが、このリストで上高地は上から2番目のランクとされ、国際観光政策上、比較的重要な扱いを受けることになった。これは、関東と関西の中間に位置することに加え、当時の登山ブームにより外国人登山客も引き受けることができるポテンシャルの高さゆえであった。

 

19319月に国際観光局において開催された国際観光委員会第二部特別委員会第6回会議において、上高地の具体的な開発が議論された。これを受けて上高地への視察団が編成され、国際観光局長新井尭爾のほか、国際観光委員会委員で帝国ホテル会長である大倉喜七郎、同委員で都ホテル会長である藤村義朗らが赴いた。この視察とその後の会議により、長野県と帝国ホテルによる上高地の全面的な観光地開発が決定し、電力会社専用道の県道移管と改修を主とする大正池までのアクセス道路整備を県が、大正池から河童橋までの道路建設とホテル建設を帝国ホテルが担うことになった。

 

上高地帝国ホテルの概要

 

19335月に着工した上高地帝国ホテル(正確には1936年まで「上高地ホテル」として営業)は、総工費30万円を以て突貫工事で建設が進められ、同年105日に開業を果たしている。設計は前田侯爵邸など華族の邸宅建築のほか、川奈ホテルや芝パークホテルなどホテル建設も多く手がけた高橋貞太郎で、施工は大倉土木の協力のもと帝国ホテル直営で行われた。

 

この建物は、木造三階建てで屋階(おっかい)を持ち、客室46室(うち浴室付き8室)、収容人数は200人の規模を有し、外壁の1階部分は自然石張り、2階はカラマツを校倉(あぜくら)風に組み、3階は板張りをペイントするといった具合に、山小屋風の外観であった。

乾燥室、ロッカールーム、露台、そして屋階にはスチューデントルームを備えるなど、他の国際観光ホテルにはない山岳ホテルとしての特徴的な室構成になっている。

 

外部意匠

 

上高地ホテルの建設意匠は、開業時の新聞記事で「ホテルの外見はスイツツル辺の山小屋を想わせる清楚なもの」と形容されているように、概ねスイスのコテージ形式を踏襲していると言える。大きな切妻や、玉石貼りも同様のイメージに基づいていると考えられる。

 

居室空間の概要

 

居室に関しても、山岳ホテルらしい配慮がなされている。浴室付きの客室が少ないのはその一例で、これは登山客を中心に低廉な宿泊料金を希望する客層が一定数見込まれたため、アメリカの国立公園に立地するホテルも参考にしつつ、浴室付きの客室数を最小限に止めたものである。一方で、浴室がない客室にも洗面台は必ず設置されており、これも同様に外国に範をとった設計である。

 

特に象徴的なのが屋階のスチューデントルームである。これは小規模の部屋や相部屋の総称で、宿泊料をさらに抑え、その名の通り学生をはじめ一般庶民にも広く利用されるよう図ったもので、これまでの洋式ホテルのように外国人や上流日本人だけが利用する施設ではなく、大衆の利用も想定し、これを建築的に解決しようとした好例と言える。

 

また、居室からの眺望に関する配慮も独特のものがある。他の国際観光ホテルが視点場を高位に求めて周囲を見下ろす俯瞰を重視したのに対し、上高地帝国ホテルでは穂高岳、焼岳に対して見上げる仰観を重視した。具体的には、展望台を設けず、代わりに各居室に露台を設置して、各個室からの眺望を確保した。

 

共用空間の概要

 

共用空間では、より山岳ホテルらしさが目立つ。先述した乾燥室やロッカールームのほか、次のような特徴がある。ひとつはドレスコードを求めるグリルと別に食堂が設けられている点である。スイスの山岳ホテルを範にとり、山行姿の客でも食事をとれるよう配慮した結果である。また、これも同じくスイスの山岳ホテルを参考として、玄関ホール中央に暖炉が設けられた。寒冷地のホテルでは吹き抜けホールに暖炉を設け、全館に暖気を行き渡らせるのであるが、上高地帝国ホテルの場合は当初より夏のシーズンホテルとして計画されていたことから、山岳ホテルとしてのシンボル的な性格が強かったものと思われる。そして、最後にダンスホールの設置を行わなかった点が挙げられる。同時期に建設された蒲郡ホテルや琵琶湖ホテルがダンスホール計画を重視していたのとは対照的に、登山拠点としての山岳ホテルたる上高地帝国ホテルでは、ダンスホール設置は早々に検討対象から外された。

2019年8月18日日曜日

安居島について

概要

松山市に属する有人離島である。平成の大合併以前は北条市に属した。伊予北条駅にほど近い北条港から北北西に13.5キロの距離にあり、瀬戸内海西部・斎灘(いつきなだ)のほぼ中央部に位置する。他の島とは離れているが、属島として無人の小安居島を有する。

地理

東西1.3キロ、南北約0.2キロ、周囲3.5キロ。全体が低い丘であり、最も高い地点でも標高55メートルである。集落以外はほとんど雑木林で、水田はなく、果樹園もほとんどない。
小字は8つあり、北端より西まわりに、明神(みょうじん)、生洲(いけす)、汐出(しおで)、小浦(おうら)、湊(みなと)、安居殿谷(あいだに)、蛭子(えびす)、長谷(ながたに)の順に並ぶ。

歴史

周辺の島々で見られる弥生期の高地性集落跡や、臨海性遺跡は見つかっていないが、少なくとも律令国家体制が形成され、かつ、官米の舟運による輸送が公認された8世紀中頃には荒天時の緊急避難場所として利用されていたようで、延喜式において規定されている海路上にある「藍島」は本島を指すと思われる。

その後も周辺各村の肥草刈場や漁師の緊急避難場所として利用されてきたが、現在へ連なる定住の歴史は浅く、文化年間まで時代は下る。瀬戸内海の無人島は入会権を巡る争いが珍しくなかったが、特に本島は斎灘のほぼ中央に位置したことから、幕藩体制成立後も長らく松山藩、大洲藩、広島藩の何れに属するかが明確ではなく、入植が困難であったためである。

この決着がついたのは文化13年(1816年)で、風早郡代官であった広橋大助の尽力により、風早郡難波村の草刈場として松山藩領有地と確定した。これを受け、同年より藩命により開拓に着手され、翌14年に浅海村の庄屋の子であった大内金左衛門が初めての島民として移住、続いて本村の難波村より逐次渡島し、漁業を中心に開発が進められた。

それまで「藍島」「相島」などと表記した島名は、このころ安居島となった。一説によると松山藩領となり安じて居をなすようになったためであるとされる。天保2年(1832年)には難波村より分村し、「安居島」村となっている。

弘化年間、字湊に防波堤が築造されると、帆船の風待ち・潮待ち港として発展し、安政年間には遊郭も置かれた。この安居島遊郭は道後松ヶ枝町に次ぐ規模で、明治中期には遊女の数は80人に上ったという。ただし、これは妓楼が立ち並ぶ郭ではなく、いわゆる「おちょろ船」が中心の、風待ち港に見られる独特の形態であり、遊女はその他島民に混ざって日常生活を送っていた。(同様の遊郭は大崎下島の御手洗が有名である。)

順調な発展とともに、人口も増加した。嘉永6年(1853年)には26戸、明治5年には29戸171人、明治6年には32戸204人となり、町村制が施行され北条村の大字となった明治22年には約120戸500人を数えるに至る。

凡そこの頃が安居島の最盛期で、年間およそ3,500艘の船が出入りし、漁業と併せて活況を呈した。しかし、船舶が大型化、動力化するにつれ、風待ち港としての役割が失われていき、島は急激に衰退の一途をたどり始めた。昭和戦前期に最後の遊女がいなくなり、赤線指定されることなく消滅した安居島遊郭は、その象徴と言える。

瀬戸内海の一寒村になった安居島に残された島民は、漁業振興を図ろうと明治36年に安居島漁業組合を、さらに明治38年には安居島遠海漁業組合を設立し、斎灘の中央という地の利を活かした生き残り策を取る。また、最盛期の蓄えを元に一杯船主となったものも多く、漁業と運送業が大正以降の島の産業となった。

とはいえ、過疎化の流れに抗うことはできず、第二次大戦中に海軍の対空陣地が築かれたことや、戦後の外地からの引揚げ及び疎開で一時的に人口が増加したこと等を除くと、人口は減少を続けることになる。

過疎化対策として、昭和32年8月に離島振興対策実施地域の指定を受け、漁港の整備を中軸に、護岸の改修、海底ケーブルによる一般受電、航路補助による定期船の就航など、様々な施策が打たれたが、高度成長以降の本土との生活格差は広がるばかりで、流出に歯止めをかけることはできなかった。

先述した引揚げの影響で、人口のピークこそ昭和30年の532人だが、昭和57年には61人と30年間で9割減となり、平成30年時点ではわずかに10人を残すのみとなっている。高齢化率は80%に達し、今日の安居島は年金によって支えられている限界集落の一つといえる。

交通・インフラ

安居島における交通及びインフラの整備状況は次のとおりである。

・定期航路
有限会社新喜峰により、北条港と安居島港を結ぶ定期客船が1日1往復(夏季は2往復)運航されている。現在用いられている船舶は、平成11年に進水した「あいほく」で、総トン数57t、旅客定員68名である。
定期航路が開設されたのは昭和37年度で、離島振興法に基づく航路助成(県単独事業)による。それまでは、郵便船や漁船等に便乗するか、時間を定めない渡海船を利用する必要があった。

・教育施設
小学校及び高校が存在したが、何れも現存しない。

安居島小学校は明治8年に北条小学校の分教場として開設され、明治19年には小学校令に基づく安居島簡易小学校(3年制)となった。校舎は民家を使用していた。明治25年には北条小学校より独立し、正規の安居島尋常小学校になる。明治41年に義務教育延長(6年制)を受けて天満神社西側へ校舎を新築移転する。その後、昭和14年の高等科設置、昭和16年の国民学校への改称、昭和22年の新制移行、昭和36年の校舎改築、昭和47年の休校を経て、昭和58年に閉校した。
分教場設置時の児童数は不明、尋常小学校設置時の児童数は41名で、最も児童数が多かったのは高等科設置前では昭和3年と同9年の80名、設置後では昭和18年の105名、新制移行後では昭和29年の89名である。休校時の児童数は6名。

安居島中学校は、学制改革により小学校高等科が廃止された昭和22年に、安居島小学校内に併置する形で開設された。昭和24年に小学校敷地内に単独の校舎を新築し、昭和36年には小学校東隣に新築移転している。昭和40年には北温中学校と統合し、北条北中学校安居島分教場となるが、昭和41年より四国本土の北条新開に開設した寄宿舎からの通学とすることになり、同年閉鎖された。

・電気及び上水道
四国電力及び松山市水道局により供給されている。

電気
時期は不詳ながら、少なくとも昭和初期には自家発電により電気を使用していたようである。離島振興法による国の補助事業として、昭和35年には全島統一の自家発電施設が設置され、更に昭和45年には四国本土からの海底ケーブルにより四国電力からの供給が開始された。

上水道
長らく島内に4箇所あった塩分を含まない共同井戸から飲料水を取水し、炊事洗濯は塩分を含む個人井戸を使用していたが、こちらも補助事業として平成6年に飲料水供給施設が完成し、平成7年より四国本土から定期船で運搬する形で、北条市水道局による上水の供給が開始された。合併により供給元は松山市水道局となる。

郵便及び電話
島内の郵便局は長期閉鎖中(事実上廃止)である。電話は西日本電信電話により供給されているが、詳細は調査中。

郵便局
昭和28年に安居島郵便局として開設された。平成10年に閉鎖の上、同年に安居島簡易郵便局として簡易化され再開したが、平成25年より長期閉鎖中である。

名所・旧跡

安居島港防波堤
大内金左衛門碑
天満神社
安居島灯台
安居島海水浴場
遊女みどりの墓
海軍特設見張所跡

以下時間がないのでメモ

瀬戸内の島々の生活文化(愛媛県 平成3年)より
島でとれる農産物は芋・麦・野菜。芋麦飯におかずとして煮干しやひじきを付けるのが戦前の標準的な食事。定期船ができるまでは、広島県側との繋がりが強かった。病気になると上蒲刈の医者に通う。漁で取った魚も、いけすでしばらく活かし、中島から糸崎に向かうナマ船が寄港するときにまとめて運んでいた。渡海船も2隻あり、こちらを用いて北条に運ぶこともあった。大山祇神社にもよくお参りに行った。戦時中は軍の探照燈があったため、末期は毎日のように空襲があった。一度は船に直撃を受けて死者も出た。

安居島小学校百年誌?より
昭和19年3月19日 空襲のため休業
昭和20年7月24日~3日間 空襲のため休業
大正2年から3年 大人に対して夜学を実施
大正3年5月1日 「パッチン」遊びを禁じる 遊郭?
昭和41年 給食開始

北条市誌より
姫坂神社由来
昔、京都の由緒あるお姫様が、お家の事情で、海に流され、安居島の大岩の所に流れ着いた。姫は所持していたお金が、ぬれたので浜に乾かしていた所に、漁に来ていたよそ者の一味が、姫とお金の両方を奪おうとした。
姫は「お金は差し上げますからどうか命だけは助けてください」と懇願した。
しかし、悪者の一味は、それを聞き入れず命まで奪ってしまった。
姫は息が切れる前に「お前たちの子子孫孫まで呪いますぞよ」と言ったそうである。
その後、奪った金で千石船を造ったが、その船が行方不明になったり、家族に次々と死者が出たりして、とうとう家が絶えたという。
このお姫様の霊をなぐさめるために、島の中央に姫坂神社を建てたと言い伝えられている。

遊女みどり伝説
昔、安居島に遊郭があった頃の話じゃ。江戸時代の終り頃この島にいた遊女みどりは、たびたび通ってくる男と恋仲になったんじゃが、かなわぬ恋に嘆き悲しみ「小波止」から身を投げてしもうたんじゃ。すると、みどりの遺体は、島の東側の「ミズハ」という浜の岩の上に打ち寄せられたんよ。その後、誰いうともなしにこの岩を「みどり岩」と呼ぶようになったんよ。
明治時代になって、港を改修するために石工を雇い、この岩を割ったところ、石の中から「白蛇」が出てきて、その石工は病気になってしもたそうな。それからは、この岩に手を付ける者はいないんじゃ。みどりの墓は、島の西側の丘の上にある墓地に今でも残っとる。墓石には「天保二年六月二日」と刻んであるんよ。
(話 瀬戸丸清學)

伊予万歳「伊予風早名所づくし」
「…遥かに見ゆるは安居の島、オチョロ船にと身を任かす遊女みどりの恋物語…」

伊予国地理図誌(明治5年 石鉄県編纂)
安居嶋 第八小区下難波村ノ内
下難波村西北の海上に在り 海岸を距る壱里三十壱町十弐間 此島有限会社新喜

2019年2月13日水曜日

【終点メモ】2019年1月

2015年3月1日日曜日

【バス終点】上田バス/傍陽線

■終点:入軽井沢(いりかるいさわ)

 地元のおじいさんに寒いだろうと自宅に招かれ、小一時間の折り返し待ちはあっという間にすぎていきます。

 「この前も『ハーベストホテルはどこですか?』って聞かれたなあ。あるわけない。観光バスが迷い込んできたこともあった。」
 あたたかいお茶を注ぎつつ、なにもないところだよと笑いながら語ってくれました。

 こんな信州の「軽井沢」を目指すのが上田バスの傍陽線。上田駅から松代に続いていく坂道を40分ほど登り続けた先の山村に、積もるばかりの雪で白一色に染まった終点があるのです。


 ご推察の通り、信州にはいくつかの「軽井沢」があります。 そのうち町村制(のち地方自治法)に基づく自治体となったところがふたつあり、ひとつが高名な中山道沿いの避暑地・軽井沢、もうひとつがこちら中山道から別れた松代道沿いの山村・軽井沢です。

 今でこそそれぞれの軽井沢はまったく違う顔を見せています。しかし、昔はどちらにも番所が置かれ、峠を控えた交通の要衝でありました。一説によると「軽井沢」の語源は荷物を背負うことを意味する古語「かるう」にあるといい、これは転じて峠道という意味も持つそうですから、同じ地名になったのも偶然ではないでしょう。

 近代の交通革命がそれぞれの姿を変えていったわけですが、 もしかすると避暑地軽井沢も国鉄信越線で東京と直接結ばれることがなければ、小さな山村の佇まいであったかもしれません。改めて地名の奥深さを感じさせてくれる終点です。


 やっぱり「なにもないところだけど」と前置きをしつつ、こちらの軽井沢では春にホタルが飛び交い、近くの牛乳工場では出来立てのミルクが味わえる、とは先のおじいさんの談。松代との境を成す地蔵峠には天然温泉もあるそうです。

 リゾートホテルこそないかもしれませんが、私はすっかりこの素朴で親切な「軽井沢」のファンになりました。

(2015年2月訪問)


■傍陽線メモ
 上田バス傍陽線は1972年に廃止された鉄道真田傍陽線の代替としての役割を担っている路線で、市北西部にあたる傍陽地区と上田駅を結んでいます。一部便は上田駅に直通せず、途中の真田にて菅平線等との乗り換えを必要としますが、その場合も乗換券により運賃の通算が行われています。
 なお上田バスの前身会社にあたる上電バス時代には、路線名通り傍陽どめの便や、入軽井沢の先にある松井新田行きの便もあったそうです。また鉄道廃止後も長らく旧傍陽駅舎がバス待合所として活用されていましたが、残念ながら2003年に解体されています。

2015年2月1日日曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/唐川線

■終点:両沢(りょうざわ)

 「唐川と言ったら、やっぱりビワですよ。」
 あまりの閑散ぶりに、政治路線との噂もささやかれる唐川線ですが、幸か不幸か、沿線生まれの運転士と2人きりの車内、会話は弾みます。ローカルバス旅の醍醐味のひとつです。その運転士がとにかく太鼓判を押すのが、名産の「唐川ビワ」。

 ミカンにイヨカンなどなど柑橘類の影に隠れて目立ちませんが、実は愛媛県のビワ生産量は全国でも屈指のもので、ここ数年は長崎、千葉に次ぐ第3位を誇っています。そして、その県内生産のほぼ全量を担っているのが、ほかならぬ唐川なのです。

はじまりの郡中バス停

 これらのビワ産地は、郡中と両沢を結ぶ伊予鉄バス唐川線の沿線そのもの。伊予市南部と砥部町を隔てる谷上山の南麓にあたり、東方に聳える障子山に源を持つ森川に沿ってのびています。この川は典型的な支流ですから、これに沿う村々も、本流にあたる大谷川に沿ってひらけた大洲街道上の町とは異なり、川べりにへばりつくような山村ばかりです。

 そもそも「カラ」という地名は「涸」「枯」から取られていることが多く、河川の上流の水の乏しいところや、斜面などによく見られると言われています。唐川は、土地もなければ、水もない、なかなかに厳しい地勢だといえます。

森川沿いには桜並木も

 そのような村の人々が暮らしの糧としたのが、ろうの原料であるハゼノキと、そしてビワの栽培なのでした。その歴史は古く、すでに藩政期・天保年間に編纂された『大洲秘録』に村の産物として名前が挙げられており、さらに明治43年に出版された『南山崎村郷土誌』には、山中に自生していたビワを「今より凡そ百年前、仝村に中村清蔵なる者あり、初めてこれを籠に入れ、郡中町に持ち行き、僅かなる金銭に換えて枇杷実の金銭となりしを不思議なる如く村人の語り伝えしと云う」とあることから、19世紀のはじめ頃から商品作物としての栽培が行われていると考えられます。

 そして、明治35年には村人の吉沢兼太郎氏が、中国大陸にルーツを持つ品種「田中びわ」を導入。これは在来品種の倍以上もある大果であり、たいへんな評判をよんだそうです。これをきっかけに、ランプや電灯の普及で需要が減少する一方のハゼノキ栽培は廃れ、初冬の森川沿いには枇杷の花が咲き誇るようになりました。

 バス終点の両沢は、そんな森川沿いの最上流、どん詰まりにあたる集落。ここでは至近から取れる砥石も有名ですが、ご多分に漏れず、ビワの木々も目立つところです。山の斜面にも、家の裏手にも、朽ちかけた木製バス標識の横にも、しっかりとビワの木が植えられています。

道路脇にも琵琶、そして後ろに聳える障子山 終点両沢付近である

 しかしながら、頼もしい唐川ビワとは異なり、モータリゼーションの波に洗われた唐川線はすっかり青色吐息のようです。本数はわずかに1日2往復。このようなバスの主なお客さんは通学生やお年寄りですが、ここでは同じ区間に自治体運行のスクールバスや無料の福祉バスが走っていることもあり、空気ばかりを運んでいます。なにより、伊予市内を走っていた路線バスは、ほとんどが既に廃止されているのです。

 「どうして今まで残っとるかがわからんよ。いつ消えるやわかりゃせんね。」
 また私だけを乗せ郡中へ戻る道中、山腹までびっしり植えられたビワの木々や、上唐川の立派な選果場を横目に、ロートル車のハンドルを握る運転士はポツリと呟きました。

■伊予鉄道唐川線の歩みと唐川線のこれから
 注)鍵括弧書き路線名は免許上の路線名、それ以外の路線名は営業上の路線名を示します。

***開業から全通まで***

昭和52年路線図表より関係箇所抜粋

うち郡中栄町経由は後に廃止されている
また延伸構想があった外山も確認できる
(クリックで拡大)
 残念ながら唐川線の運行がはじまった時期は定かではありません。
 伊予鉄道が三共自動車を吸収合併する際に受けた免許(全て合併日である昭和18年12月23日免許)のなかに、伊予郡南山崎村大字大平甲1098と同村大字下唐川甲92の1を結ぶ「唐川線」2.7キロが存在していることから、少なくとも三共自動車時代までには開設されていた路線なのは確かなのですが、三共関連の資料は多くが戦災で焼失しており、伊予鉄道側でも運行開始の時期はわからないそうです。伊予市誌などの沿線郷土誌にも、バス関係者の回顧録にも記述は見当たらず、見当もつきません。

 ただ、伊予鉄道に引き継がれた時点で運休していたことは間違いなく、その再開は昭和24年11月18日まで持ち越されることになります。 再開にあたって、伊予鉄道は免許区間の延長を申請しています。「唐川線」の終点下唐川停留所から南山崎村大字下唐川字豊岡333の第2に設けた豊岡停留所までを「下唐川線」1.5キロとして延長し、これに既存「内子線」の一部を合わせたのが新生・唐川線で、郡中と豊岡を結ぶ9.9キロの路線でした。なお、後の路線図表では豊岡停留所の記載が見当たりませんが、距離や住所、その後の変遷史から推察するに、現在の唐川停留所そのもの、もしくは至近にあった停留所だと思われます。

 運行回数は平日休日問わず1日6回(3往復)、運賃は郡中から上唐川までで25円、豊岡までで30円。主たる使用車両は既存の18人乗り昭和12年式フォードとかなりの古参車で、木炭発生炉付の代燃車。年式からおそらく他事業者でも広く使われたV-8型だと思われます。所属営業所は24年10月10日に開設されたばかりの松山営業所(榎町営業所から移転、現在伊予鉄本社がある場所)でした。また、佐礼谷線の項でも記述しましたが、この代燃車は翌々年頃までには置き換えられていると考えられます。

 唐川線が現在の形になったのは、 昭和37年7月16日のことです。免許路線名は不明ながら、唐川から現在の終点である両沢停留所までの2.0キロの間が、同年7月7日に延伸免許されています。この改正では松山までの直通便が設定されており、これは昭和35年4月の時点では存在しないことから、おそらくこの時にはじめて設定されたものだと思われます。なお、同改正での1日あたり運行回数は平日休日問わず郡中・両沢間が1.5回、松山・両沢間が2回、唐川・郡中間が0.5回となっています。

両沢延伸と外山延伸構想を伝える広報「いよてつ」通巻66号

   ちなみに、当時の社内報をみると、さらなる延伸構想についての記述があり興味を惹かれます。両沢から鵜崎峠経由で外山(砥部からの路線があった)へ至るというもので、延伸のあかつきには大平砥部線として砥部まで直通させることが考えられていたようです。もちろん、この構想は実現していません。


***全通以後***
 佐礼谷線と同様、これ以降はわかる範囲でのみ記述します。
昭和58年10月16日改正の関係時刻表
まだ松山バスターミナル直通便がみられる

 【昭和58年10月16日改正】時刻表によると、郡中・両沢4回(うち0.5回は日祝および学校休暇中運休)、松山・両沢5回と昭和37年当時と比較して増便がされていることに加え、一部便(全線計9回中の4回)が稲荷神社前・伊予市庁前間において、港南中学校前すなわち国道56号線を経由する現在の経路に改められています。ちなみに、58年改正時点でこの区間を走るのは唐川線の一部便に限られていることと、【昭和52年】時点での運行路線図表に同区間が記載されていることを併せて考えると、52年時点では既に港南中学校前を経由する便が設定されていたと考えることができるかもしれません。

  唐川線の最盛期はこの頃であったと考えられ、昭和60年11月15日現在の運行回数一覧によると、58年時刻表の直後である【昭和59年3月6日認可】で減便が行われています。この時点での回数は、 郡中・両沢1.5回、松山・両沢2.5回となっており、松山行きのうち1.5回が港南中学校を経由しています。

 続いて確認がとれるのは、【平成2年12月25日改正】時刻表においてです。港南中を経由しない便がさらに減便されたことに加え、日曜祝日の全便運休化、松山直達便の全廃が行われており、現在のダイヤに近づいています。回数は4回(2往復)のみとなり、午後に両沢を出る0.5回を除いて全て港南中経由という、スクールバス然としたダイヤになりました。

 また、【平成6年10月16日改正】より、運行会社が伊予鉄南予バスへと移管されています。同社は平成元年8月8日に、主に南予地方のローカル線を担う目的で設立された伊予鉄道の地域子会社です。唐川線は松山バスターミナルへの乗り入れが廃されていたこともあり、中予地方で完結する路線ながら路線移譲の対象となったのです。これにより同路線の担当営業所は伊予鉄道自動車部松山営業所(注:1)から、伊予鉄南予バス内子営業所へと変わることとなりました。

平成21年11月1日改正の時刻表
平日のみ2往復 全て港南中学経由である
  このダイヤは全く変わることなく20年近くに渡って維持されますが、南予バスの全社的な路線再編が行われた【平成21年11月1日改正】で担当営業所が大洲営業所に変わるとともに、現行ダイヤへと修正が加えられています。
 その内容は、ついに全便が港南中学校前を経由するようになり、元来の稲荷神社前・栄町・郡中経由便が全廃されたことと、学校の週休2日制化を受けて新たに土曜日が運休日に加えられたことです。運行日の運行本数に変化はありません。
 



  現行ダイヤで特筆されることは、近年では珍しい夜間滞泊が残されていることです。集会所を間借りした宿泊所が現在でも使われています。ただし、翌日が運休日となる金曜日や祝前日は、回送車となり営業所まで戻っています。そして、同じく、休み明けの早朝に回送車として送り込まれてくるのです。

 終わりに、唐川線を取り巻く現状について、少し補足をしておきます。最後となる平成21年の改正から、はや6年が経過しようとしていますが、この間に伊予市では公共交通体系の見直しをすすめており、デマンドタクシーや福祉バスの積極的な導入と引き換えに、多くの一般路線バス(4条バス)を廃止してきました。実にこの唐川線と、同線への送り込みを兼ねているであろう長浜線(長浜・郡中間)は、伊予市内では都市間連絡路線を除くと最後に残った一般路線バスなのです。

 ですが、運転士が嘆いていたとおり、唐川線は無駄が多い路線です。現在ほぼ全線にわたって同一の経路を取る無償福祉バス(利用は60歳以上に限られる)が月曜日と木曜日に4往復ずつ、平日には大平地区にある南山崎小学校までのスクールバスが1.5往復走っており、唐川線は港南中学校生徒(定期代は市が全額補助)を主として、どちらの対象にもならない限られた人々だけの公共交通手段と化していたのです。

 このような各種バスが併存してきた理由には諸説ありますが、ひとつには長らくスクールバスの一般有償利用(一般混乗)を行うと、運行経費そのものが普通地方交付税の対象外とされてきたためだと考えられます。国庫補助を考えた場合、唐川線を廃止にすると、比較的運行距離の長い港南中学校スクールバス(注:2)に加え、福祉バスの対象拡大やデマンドタクシーの導入が必要ですから、結果として高コスト体質は変わらない、というものです。

 しかしながら、平成24年5月の総務省通達により、スクールバス一般混乗も普通交付税の対象とされることになりました。行政側も問題は認識していましたので、伊予市はこの通達をひとつのきっかけとして、唐川線の見直しに踏み込んだ「伊予市地域公共交通計画」を平成26年9月に策定しています。
 ここでは、さっそく平成26年度中に4条バスを見直すこと、27年度に旧伊予市域においてコミュニティバスを実証運行すること、28年度にスクールバスの一般混乗を目指すこと、が明言されていますから、一般路線バスとしての唐川線はいよいよ廃止される時が近づいてきたようです。

 唐川線と長浜線に対する伊予市の運行経費補助金は年間1300万円(24年度)。馴染みのオレンジ色のバスに乗って本場のビワを買いに行くことができなくなるのは寂しい気もしますが、空気ばかりを運ぶにしては、あまりに高すぎる対価であるとも思うのです。

終点・両沢 いつまで伊予鉄バスがやってくるのだろうか
なお写真右端に見える焼杉の家が運転士宿泊所である
注1:現在の松山斎院営業所。松山室町営業所は平成4年の設置です。ただし車庫自体は既に室町にあり、唐川線車両は室町駐車場に常置されていました。
注2:仮に設定すると、伊予市内では双海中学校スクールバスに次ぐ長さになります。ただ、双海中スクールは利用者も多く、かつ中学校単独なので1往復で済んでおり、便あたり利用者数では市内時点の南鵜崎小スクールと比して倍以上の開きがあります。単純比較は難しそうです。

(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/平成24年8月投稿記事を加筆改稿いたしました。)

2015/06/03修正/南予バスへの移管時期ならびに所管営業所に誤りがありました。