2014年11月1日土曜日

【バス終点】伊予鉄道/松山空港線

■終点:湧ヶ淵(わきがふち)

 道後へ向かう入湯客を巡って伊予鉄道と松山電気軌道が熾烈な誘客合戦を繰り広げたことは、松山の歴史を知る者にとっておおよそ有名なことでしょう。道後行き電車が発車するたびに駅頭で客引きの鐘を鳴らしあったというエピソードは今でも語り継がれています。

 しかしながら、両社の争いが鉄道線路から遠く離れた地でも繰り広げられていたことは、あまり知られていないようです。

 いま松山の街を訪れてみると、かつて争いの象徴とされた道後行き電車の横を「湧ヶ淵」という行き先を掲げた松山空港線のローカルバスが走っています。おおよそ路線名には似合わない行き先ですが、それもそのはず。この路線の終点は、空港からまちなかを横断し、石手川の奥へとずいぶんと進んだ幽谷にあるのですから。
 そして、この終点の幽谷こそが、伊予鉄と松電、もうひとつの争いの舞台。明治の終わり頃には水力発電をめぐる「エレキ戦争」が、ここ湧ヶ淵で繰り広げられていたのです。

道路の向こうに石手川が流れる 伊予水力の発電所は対岸にあった

 この地にはじめて発電所を設けられたのは明治36年のことで、伊予鉄道と資本的なつながりがあった伊予水力発電会社の手によるものでした。急峻な石手川の流れを利用した四国でもはじめての水力発電所で、この完成により松山平野に電灯が灯されたのです。

 戦いの火蓋が切って落とされるのは、その8年後となる明治44年。湧ヶ淵のすぐ下流に松山電気軌道会社がダムを造り、大規模な発電所を建設したのです。三津浜と松山を結ぶ新しい電車軌道の開業にあたって不可欠なものでした。
 この発電所は先にできた伊予水力のものよりはるかに大きなスケールだったそうで、自社路線と競合する鉄道が敷設されることに反対する伊予鉄の思惑も相まり、ダム建設や送水管敷設にあたっては伊予水力側があの手この手で嫌がらせにでたそうです。

 もちろん、松山電軌も負けずといがみ合い、ふたつの電力・鉄道会社がさながら産業スパイ合戦を演じることになります。やれ「あの請負人は伊予水力のまわし者じゃ」「あの人夫がセメントの横流しをしとる」などと、地元民まで巻き込んで平和な幽谷は大騒動。ついには裁判沙汰にまで発展し、発電所や鉄道の完成後も長く対立が続いたといいます。

 この騒動がようやく収まり、湧ヶ淵に静けさが戻ってきたのは、伊予水力も松山電軌も全て伊予鉄道に合併(合併後、伊予鉄道電気へ社名変更)された大正10年のこと。この地にはじめてバスが乗り入れる3年前の出来事でありました。

 爾来1世紀、湧ヶ淵は静かな場所であり続けています。石手川の滔々とした流れだけが明治の頃へと思いを馳せさせてくれますが、折返しを待つ間、しばしの休憩をとる空港線のローカルバスには知る由もないことです。

湧ヶ淵から少し下ると旧国鉄の郵便気動車を転用したレストランも オススメです
■伊予鉄道松山空港線沿革(但し、路線東部の松山駅前・湧ヶ淵間に限る)
 松山空港線の歴史は、大正13年6月に道後在住の個人(山崎朝勝氏)によって、道後自動車と称するバスの運行が松山・道後・宿野々間で行われたことにまで遡ることができます。これはどちらかというと、現在、松山市駅と米野々を結んでいる河中線の原型に近いものですが、ここ湧ヶ淵や湯山の地にバスが乗り入れたのは、この時がはじめてです。

 この河中方面線の運行母体は中予地方の多くのバス路線と同様、三共自動車を経て第二次大戦末期の昭和19年には伊予鉄道の手に移りますが、その後まもなく休止されたようで、運行が再開されるのは戦後混乱期を脱しつつある昭和24年まで待たねばなりませんでした。そして再開時、湯山方面への路線は、松山市駅を起点に新立から石手川の土手に沿って湯山や河中に至る河中線と、旧来の経路通り道後を起点に石手に至る石手線の2路線2系統に分離・拡充されています。

 このうちの石手線は、時期不詳ながら松山市駅・道後間および石手・湯之元間を延伸し湯之元線へと改称。そののち松山駅への乗り入れをはさんで、昭和39年12月にはさらに湧ヶ淵まで延伸されたうえ、奥道後線と再改称されています。これは、湧ヶ淵の近隣に「奥道後温泉観光ホテル」 という一大レジャーホテルが開業したことに伴うものでした。ここに松山駅・松山市駅・石手寺前・湧ヶ淵(なお、道後温泉駅前に関しては、奥道後方面行きのみ停車)を結ぶ、現松山空港線の直接の原型とも言える路線が生まれるのです。なお、このときはじめて湧ヶ淵に折り返し場が設けられました。

 奥道後線運行開始後の大きな動きとしては、昭和61年の湯の山ニュータウン入居に伴う乗り入れ開始(同時に上下便とも道後温泉駅前への停車を開始)および区間便の設定と、平成2年12月の路線再編が挙げられます。特に後者は、それまで松山空港・道後温泉駅前を結んでいた(旧)松山空港線と統合する大改変で、これ以降、松山空港から湧ヶ淵までロングランする(新)松山空港線として、路線名と運行区間を変えて現在に至っています。

空港連絡や観光輸送と並んで、ニュータウン路線としての顔も持つ

一番町付近経路図(クリックで拡大)

 最後に当路線(東側区間)で特筆される特徴をふたつ紹介して
おきましょう。
 まずひとつめは、郊外バスながら市内バス専用の一番町停留所に停車することです。これはロープウェイ街を経由する湯山方面行きの便に限ったことで、大街道停留所に停車できない代替措置です。都心ならではの特例で、市内バス用の停留所に郊外バスが停車する唯一の事例です。路線上には他にも市内バス専用の義安寺前停留所がありますが、もちろんこちらは通過しています。
 ふたつめは、お客さんを乗せたままターンテーブルを利用することです。袋小路となっている道後温泉駅前バスターミナルの奥には転回用のターンテーブルがあり、道後温泉駅前発着便はこれを必ず利用することになります。殆どの一般路線は道後温泉駅前を起終点としていますが、松山空港線に限っては経路途中となるため、このようなことが起こるのです。たいへん珍しい光景です。

■四国電力湯山発電所
 「エレキ戦争」の舞台となったこれらの発電所は、戦争の時代を経て、全て四国電力へと引き継がれました。現在でも昭和32年に統合のうえ全面改築された湯山発電所(正確には全て廃止のうえ、直後に新設)が稼働しており、最大で3400kWhの電力を生み出し続けています。
 近隣の西条火力発電所(計406,000kW)や伊方原子力発電所(計2,022,000kW)と比べると極小規模とはいえ、伊予水力の発電所は260kW、「大規模」とされた松山電軌のものでも537kWであったことを思うと、隔世の感がありますね。
 その変遷を以下にまとめました。(クリックで拡大)


 なお、現在の湯山発電所は、旧第二、第三発電所の敷地内に建っています。

 (誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/松山空港線の西半分(道後温泉・松山空港間/旧松山空港線区間)および河中線に関しては、稿を改めて紹介します。 )
※奥道後・空港両線の統合時期に誤りがあり、訂正いたしました。ご教示くださりありがとうございました。