2020年11月10日火曜日

上高地と奈良のメモ

上高地帝国ホテル

鉄道省とその外局たる国際観光局によって1930年代に進められた国際観光政策によって最初に開発が検討されたのが上高地である。修験道の聖地であった軽井沢は、電力開発に伴う道路整備により、日本アルプスの拠点として脚光を浴びつつあった。その流れを確固たるものにしたのが、先述の国際観光政策と、それに伴い開業した新設の国際観光ホテル、すなわち上高地帝国ホテルであった。


上高地前史


上高地の観光地としての価値を最初に発見したのは、イギリス人宣教師ウォルター・ウェンストンであると言われている。彼が1891年に著した『日本アルプス―登山と探検』には、自ら徳本峠を越えて上高地にたどり着いた様子を記しており、多くの人々に上高地を紹介するきっかけになった。

それから遅れること15年、加藤惣吉によって1906年に「上高地温泉」が開設された。これが上高地における最初の宿泊施設である。しかし依然としてアクセスは徳本峠を越える徒歩道しかなく、観光地というにはほど遠い姿であった。

 

上高地の観光地としてのポテンシャルを大いに高めたのは、電源開発に伴う道路整備である。長距離送電の技術が確立され、日本中の渓谷で電源開発が進められた1920年代、同地でもダム及び発電所の建設が行われた。セバ谷ダムを調整池とした京浜電力湯川発電所、大正池を調整池とした梓川電力霞沢発電所がそれである。これら発電所の建設資材輸送のため、1928年には島々―奈川渡間の車道が京浜電力の手によって、翌29年には奈川渡―大正池間の車道が梓川電力の手によって建設された。そして、同年にはこれを利用した島々―中ノ湯間の乗合自動車(アルプス自動車)の運行が開始された。このようにして上高地は近代交通ネットワークに組み込まれ、観光地としての歩みを始めることになるのである。

 

国策としての上高地開発

 

鉄道省の外局であった国際観光局では、外客誘致のための重点整備を促進するために、全国の観光地点をランク付けしたリストを作成するが、このリストで上高地は上から2番目のランクとされ、国際観光政策上、比較的重要な扱いを受けることになった。これは、関東と関西の中間に位置することに加え、当時の登山ブームにより外国人登山客も引き受けることができるポテンシャルの高さゆえであった。

 

19319月に国際観光局において開催された国際観光委員会第二部特別委員会第6回会議において、上高地の具体的な開発が議論された。これを受けて上高地への視察団が編成され、国際観光局長新井尭爾のほか、国際観光委員会委員で帝国ホテル会長である大倉喜七郎、同委員で都ホテル会長である藤村義朗らが赴いた。この視察とその後の会議により、長野県と帝国ホテルによる上高地の全面的な観光地開発が決定し、電力会社専用道の県道移管と改修を主とする大正池までのアクセス道路整備を県が、大正池から河童橋までの道路建設とホテル建設を帝国ホテルが担うことになった。

 

上高地帝国ホテルの概要

 

19335月に着工した上高地帝国ホテル(正確には1936年まで「上高地ホテル」として営業)は、総工費30万円を以て突貫工事で建設が進められ、同年105日に開業を果たしている。設計は前田侯爵邸など華族の邸宅建築のほか、川奈ホテルや芝パークホテルなどホテル建設も多く手がけた高橋貞太郎で、施工は大倉土木の協力のもと帝国ホテル直営で行われた。

 

この建物は、木造三階建てで屋階(おっかい)を持ち、客室46室(うち浴室付き8室)、収容人数は200人の規模を有し、外壁の1階部分は自然石張り、2階はカラマツを校倉(あぜくら)風に組み、3階は板張りをペイントするといった具合に、山小屋風の外観であった。

乾燥室、ロッカールーム、露台、そして屋階にはスチューデントルームを備えるなど、他の国際観光ホテルにはない山岳ホテルとしての特徴的な室構成になっている。

 

外部意匠

 

上高地ホテルの建設意匠は、開業時の新聞記事で「ホテルの外見はスイツツル辺の山小屋を想わせる清楚なもの」と形容されているように、概ねスイスのコテージ形式を踏襲していると言える。大きな切妻や、玉石貼りも同様のイメージに基づいていると考えられる。

 

居室空間の概要

 

居室に関しても、山岳ホテルらしい配慮がなされている。浴室付きの客室が少ないのはその一例で、これは登山客を中心に低廉な宿泊料金を希望する客層が一定数見込まれたため、アメリカの国立公園に立地するホテルも参考にしつつ、浴室付きの客室数を最小限に止めたものである。一方で、浴室がない客室にも洗面台は必ず設置されており、これも同様に外国に範をとった設計である。

 

特に象徴的なのが屋階のスチューデントルームである。これは小規模の部屋や相部屋の総称で、宿泊料をさらに抑え、その名の通り学生をはじめ一般庶民にも広く利用されるよう図ったもので、これまでの洋式ホテルのように外国人や上流日本人だけが利用する施設ではなく、大衆の利用も想定し、これを建築的に解決しようとした好例と言える。

 

また、居室からの眺望に関する配慮も独特のものがある。他の国際観光ホテルが視点場を高位に求めて周囲を見下ろす俯瞰を重視したのに対し、上高地帝国ホテルでは穂高岳、焼岳に対して見上げる仰観を重視した。具体的には、展望台を設けず、代わりに各居室に露台を設置して、各個室からの眺望を確保した。

 

共用空間の概要

 

共用空間では、より山岳ホテルらしさが目立つ。先述した乾燥室やロッカールームのほか、次のような特徴がある。ひとつはドレスコードを求めるグリルと別に食堂が設けられている点である。スイスの山岳ホテルを範にとり、山行姿の客でも食事をとれるよう配慮した結果である。また、これも同じくスイスの山岳ホテルを参考として、玄関ホール中央に暖炉が設けられた。寒冷地のホテルでは吹き抜けホールに暖炉を設け、全館に暖気を行き渡らせるのであるが、上高地帝国ホテルの場合は当初より夏のシーズンホテルとして計画されていたことから、山岳ホテルとしてのシンボル的な性格が強かったものと思われる。そして、最後にダンスホールの設置を行わなかった点が挙げられる。同時期に建設された蒲郡ホテルや琵琶湖ホテルがダンスホール計画を重視していたのとは対照的に、登山拠点としての山岳ホテルたる上高地帝国ホテルでは、ダンスホール設置は早々に検討対象から外された。