■中島汽船バスの歩み
主要道路すら貧弱な中島に、はじめて自動車がお目見えしたのは、戦後混乱期を脱した昭和27年のことでありました。大浦で商店業を営む富永忠がハイヤー営業の認可を得たのです。唯一となる自動車は三菱機械工業製・ジャイアントAA7型コンドル(8人乗り)、いわゆるオート3輪であり、営業と運転は弟の富永考がひとりであたったそうです。
与えられたのはハイヤー免許ながら、住民の希望もあって実際はバス運行の形をとっており、大浦~神浦間を日に9往復、全区間の運賃は30円でありました。「バス」は1台しかなかったため、車検こそ島内で行う許可を得たものの、検査・整備は主に夜間に行わざるを得ず、故障運休も珍しくはありませんでした。また、当然ながら無認可の乗合行為は高松・松山の両陸運局から度重なる注意を受けており、運行の安定・健全化を図るために、昭和33年6月に町営移管が行われたのです。
バスの運行業務は既存の観光課を改組した運輸観光課があたり、その管理は引き続き富永考が担当、車庫も既存のものを活用しました。町営移管後は道路整備を待って順次路線網の拡大が図られます。まず昭和34年3月に大浦宇和間を延伸、同年12月には吉木(※)、昭和35年の車庫・営業所新築を挟んで、38年8月には饒、39年5月には大浦から北へ粟井まで、40年6月には粟井~大泊口・饒~畑里がそれぞれ開業し、いよいよ42年5月には島内一周運行がはじまります。そして、中島唯一の隧道である辻堂トンネルの開通を受け、昭和46年3月に島を横断するトンネル線(大浦~西中港)が開業。このとき現在まで続く路線網が完成をみたのです。
(※)吉木については民家の立退き問題で交渉が難航し、34年に乗り入れたのは吉木集落の西端にあたる吉木墓所(停留所現存せず、吉木より150米ほど西側)まで。現在の吉木停留所まで達したのは38年8月。
なお、40年7月から町内を区域とする貸切営業も開始し、48年8月には松山市・北条市へと営業区域を広げています。
このようにして町営バスは中島に欠かせない交通手段となっていきました。しかし、ながらく続いた町によるバス運営は、平成大合併によって終わりを迎えることになります。過疎化に悩む中島町は松山市への吸収合併を希望したのですが、この際に松山市から提示された条件が、慢性的な赤字を抱える町営汽船および町営バスの民営化でありました。これを受け平成15年10月に民営化方針が示され、同年12月に石崎汽船が譲渡先企業として選定されます。こうして石崎汽船と町内全地縁団体の出資によって設立された中島汽船株式会社へと一切の事業が譲渡されることになりました。
そして平成16年10月1日に大浦港において出発式が開かれ、同日より中島汽船バスが走り出しました。平成11年の弓削町営バス廃業(自主運行化)以降、愛媛県唯一となっていた公営バス(※)はここに消え、中島のバスは半世紀を経て再び民営に戻ったのです。
(※)地方公営企業法に基づくもののみで、廃止代替バスを除く。
■年表
昭和27年10月 株式会社富永商店にハイヤー免許が交付される。大浦~神浦間にて事実上の路線バス営業開始。
昭和33年6月 温泉郡中島町運輸観光課に移管。大浦~神浦間免許、正式開業。同時に宇和間までを出張診療に向かう町立中央病院の医師用「病院診察車」名義での定期試運転開始。
昭和34年3月 神浦~宇和間間正式開業。
同年12月 宇和間~吉木墓所間開業。
昭和35年5月 車庫・営業所を新築。
昭和38年8月 吉木墓所~吉木~曉間開業。
昭和39年5月 大浦~粟井間開業。
昭和40年6月 粟井~大泊口、曉~畑里間開業。
昭和40年7月 貸切営業開始。
昭和42年5月 畑里~大泊口間開業。環島路線の完成。
昭和46年3月 トンネル線(大浦~西中港間)開業。
昭和48年8月 貸切営業区域を北条市・松山市へ拡大。
平成15年10月 松山市の合併を見据え、民営化の方針を提示。
平成15年12月 譲渡先企業を石崎汽船に決定。
平成16年4月 中島汽船設立。
平成16年10月 中島汽船が町営汽船・バスの全事業を譲受。営業を開始。
2013年5月26日日曜日
2013年5月10日金曜日
【バス終点】小田急バス/向13系統
■終点:明治大学正門(めいじだいがくせいもん)
新宿から小田急線で半時間ほど、多摩川を越えた先に小高い生田の丘があります。
その丘の頂に広がるのが明治大学の生田校舎で、どこか国立大学のような緑豊かなキャンパスです。
今でこそ若者の声が絶えない活気あふれるところですが、 戦前から戦中にかけて陸軍の「登戸研究所」が置かれ、細菌兵器や風船爆弾の開発が行われていたことで知られています。
戦後、研究所跡地にひらかれたのが生田校舎なのです。
その明大行きのバスは向ヶ丘遊園駅から。団地が並ぶ丘の斜面を駆け上がり、大学の正門をくぐった先が終点です。
大学構内らしく入学式のころには花びら舞い、それはそれは絵になるバス停ですが、この桜が植樹されたのは意外にも戦前だそう。
美しく咲き誇る姿からは想像がつきにくいものの、少しく残る当時の実験棟と共に陸軍時代を知る数少ない生き証人なのです。
(25年4月訪問)
新宿から小田急線で半時間ほど、多摩川を越えた先に小高い生田の丘があります。
その丘の頂に広がるのが明治大学の生田校舎で、どこか国立大学のような緑豊かなキャンパスです。
今でこそ若者の声が絶えない活気あふれるところですが、 戦前から戦中にかけて陸軍の「登戸研究所」が置かれ、細菌兵器や風船爆弾の開発が行われていたことで知られています。
戦後、研究所跡地にひらかれたのが生田校舎なのです。
その明大行きのバスは向ヶ丘遊園駅から。団地が並ぶ丘の斜面を駆け上がり、大学の正門をくぐった先が終点です。
大学構内らしく入学式のころには花びら舞い、それはそれは絵になるバス停ですが、この桜が植樹されたのは意外にも戦前だそう。
美しく咲き誇る姿からは想像がつきにくいものの、少しく残る当時の実験棟と共に陸軍時代を知る数少ない生き証人なのです。
(25年4月訪問)
2013年4月9日火曜日
【バス終点】高知東部交通/馬路線
■終点:魚梁瀬(やなせ)
太平洋に沿って走ってきた安芸からの小型バスは、安田の貯木場を見過ぎると、いよいよ急峻な四国山地へと入っていきます。
このあたり、高知県東部にある安芸郡は広く林業で栄えた所で、なかでも広大な国有林が広がる魚梁瀬は、営林署の手で拓かれた四国を代表する林業の村です。
魚梁瀬の歴史を紐解く上で重要なのが、山深い奥地にある森林資源を切り出すために作られた魚梁瀬森林鉄道で、魚梁瀬と安田(田野)、奈半利の貯木場を結びました。この建設こそが、魚梁瀬を拓き、発展させたのです。
それまで、もっぱら人力や牛馬車、そしてせいぜい奈半利川・安田川を利用した流材によって木々を伐り出していた四国山地に、はじめて近代的で効率的な輸送手段が現れたのですから、それはもう革命でした。
時代が進んだのちのこと、電源開発による奈半利ダム建設に伴い、材木輸送はトラックへと代替されますが、一部区間では道路へと転用され、かつての鉄道ルートは今でも欠かせない大事な輸送路となっています。
もちろんバスも鉄道跡を走ります。安田川沿いに魚梁瀬へ続く県道12号線は、安田から既に離合すらままならない「険道」 ですが、途中の馬路をすぎると特にカーブが増え、右へ左へ車体を大きく揺らしつつ進んでいきます。
鉄道は急勾配を避けるために蛇行を繰り返しますから、続く曲線は、ここにかつて鉄路が引かれていたことを物語っているのです。
バスの終点・魚梁瀬はダム建設によってその姿を変え、整然と区画整理された移転集落からは昔を偲ぶことはできませんが、村を切り拓いた森林鉄道の面影は、今も山中にしっかりと残されています。
■高知東部交通馬路線路線概要
安芸と魚梁瀬を安田川沿いに結ぶ路線で、平成22年3月改正の現行ダイヤでは全線毎日2往復に加え、途中の馬路まで平日2往復、日祝日1往復の区間便が加わります。
この路線の歴史は古く、高知県交通の前身にあたる野村組自動車部の手によって、大正9年に安芸・馬路間が開業しました。
しかしながら、残る馬路・魚梁瀬間の開通は遅く、森林鉄道の廃止に伴う道路拡幅が完成する昭和37年まで待つこととなりました。
その後、高知県交通の地域分社化方針に基づき、平成5年に高知東部交通へと路線移管され現在に至ります。
なお、明治40年~昭和38年まで当地には魚梁瀬森林鉄道が引かれ、生命財産の保証をしない「便乗」という形で住民の乗車が認められており、バス開通まで地域の足として重宝されていました。
(25年3月訪問)
太平洋に沿って走ってきた安芸からの小型バスは、安田の貯木場を見過ぎると、いよいよ急峻な四国山地へと入っていきます。
このあたり、高知県東部にある安芸郡は広く林業で栄えた所で、なかでも広大な国有林が広がる魚梁瀬は、営林署の手で拓かれた四国を代表する林業の村です。
魚梁瀬の歴史を紐解く上で重要なのが、山深い奥地にある森林資源を切り出すために作られた魚梁瀬森林鉄道で、魚梁瀬と安田(田野)、奈半利の貯木場を結びました。この建設こそが、魚梁瀬を拓き、発展させたのです。
それまで、もっぱら人力や牛馬車、そしてせいぜい奈半利川・安田川を利用した流材によって木々を伐り出していた四国山地に、はじめて近代的で効率的な輸送手段が現れたのですから、それはもう革命でした。
時代が進んだのちのこと、電源開発による奈半利ダム建設に伴い、材木輸送はトラックへと代替されますが、一部区間では道路へと転用され、かつての鉄道ルートは今でも欠かせない大事な輸送路となっています。
もちろんバスも鉄道跡を走ります。安田川沿いに魚梁瀬へ続く県道12号線は、安田から既に離合すらままならない「険道」 ですが、途中の馬路をすぎると特にカーブが増え、右へ左へ車体を大きく揺らしつつ進んでいきます。
鉄道は急勾配を避けるために蛇行を繰り返しますから、続く曲線は、ここにかつて鉄路が引かれていたことを物語っているのです。
バスの終点・魚梁瀬はダム建設によってその姿を変え、整然と区画整理された移転集落からは昔を偲ぶことはできませんが、村を切り拓いた森林鉄道の面影は、今も山中にしっかりと残されています。
■高知東部交通馬路線路線概要
安芸と魚梁瀬を安田川沿いに結ぶ路線で、平成22年3月改正の現行ダイヤでは全線毎日2往復に加え、途中の馬路まで平日2往復、日祝日1往復の区間便が加わります。
この路線の歴史は古く、高知県交通の前身にあたる野村組自動車部の手によって、大正9年に安芸・馬路間が開業しました。
しかしながら、残る馬路・魚梁瀬間の開通は遅く、森林鉄道の廃止に伴う道路拡幅が完成する昭和37年まで待つこととなりました。
その後、高知県交通の地域分社化方針に基づき、平成5年に高知東部交通へと路線移管され現在に至ります。
なお、明治40年~昭和38年まで当地には魚梁瀬森林鉄道が引かれ、生命財産の保証をしない「便乗」という形で住民の乗車が認められており、バス開通まで地域の足として重宝されていました。
(25年3月訪問)
2013年3月21日木曜日
【バス終点】琴参バス/瀬戸大橋線
■終点:浦城(うらじょう) 路線図
昭和50年代、瀬戸大橋の架橋工事と共に、それまでの静かな島の景観は大きく変貌を遂げました。
ここは塩飽諸島の最も東に浮かぶ、香川県坂出市・与島。瀬戸大橋の橋台となった島です。
古くは石材と製塩で栄えた地ですが、大坂築城にも使われたという与島石の採石場付近を土台とし大橋が架けられ、そこに暮らした人々は島北部の塩浜塩田を埋め立てた新興住宅街へ移り住んだのです。
伝統的な産業と引き替えに、島は便利になったと言います。島内には島民専用ながらインターチェンジが設けられ、四国本土まではわずか10分で行けるようになりました。
そして、それまでの渡船からバトンを受けた琴参バスが、新たに坂出や児島へと働きに出るようになった島の人々を運んだのです。
もちろん、橋が架かろうと変わらなかったものもあります。
そのひとつが橋とは関わりなく今に続く産業、漁業です。鯛・鰆・メバル・蛸...島のまわりは、今でも多くの魚種を誇る好漁場として知られています。
とくに、橋台からは少しばかり離れた島の東部にあり、漁業で栄えた浦城集落の光景は昔のまま。変わっていません。
変わらなかった景色、変わった景色。
瀬戸大橋を走る異色のローカルバスは、大橋を望む漁港脇の潮錆たバス停から、今日も坂出を目指して走り出します。
■琴参バス瀬戸大橋線路線概要
坂出・与島・櫃石島を結ぶ琴参バス瀬戸大橋線は、 瀬戸中央自動車道の開通に合わせて、琴参バスの前身にあたる琴平参宮電鉄が昭和63年4月10日に開設した路線です。
当時は岡山側・下津井電鉄との共同運行路線であり、児島坂出間を直通で結びました。
直通が廃されたのは平成17年のことで、与島ないし櫃石島を境に本州側・四国側で系統が分割されました。
ただ、現在でも下電バスとの接続は考慮されており、坂出市内相互発着の場合は通算運賃も設定されています。
平成22年10月改正の現行ダイヤでは、坂出-与島間毎日6往復に、土休日運休の坂出-櫃石島間1往復が加わり、平日7往復・土休日6往復が運行されています。
なお、瀬戸中央道開業当初は瀬戸大橋を介して岡山香川両県を結ぶ路線バスが多数設定されており、児島坂出間のほか、 岡山高松、倉敷高松、岡山琴平、倉敷琴平を合わせた5路線が存在しました。
(25年2月訪問)
昭和50年代、瀬戸大橋の架橋工事と共に、それまでの静かな島の景観は大きく変貌を遂げました。
ここは塩飽諸島の最も東に浮かぶ、香川県坂出市・与島。瀬戸大橋の橋台となった島です。
伝統的な産業と引き替えに、島は便利になったと言います。島内には島民専用ながらインターチェンジが設けられ、四国本土まではわずか10分で行けるようになりました。
そして、それまでの渡船からバトンを受けた琴参バスが、新たに坂出や児島へと働きに出るようになった島の人々を運んだのです。
もちろん、橋が架かろうと変わらなかったものもあります。
そのひとつが橋とは関わりなく今に続く産業、漁業です。鯛・鰆・メバル・蛸...島のまわりは、今でも多くの魚種を誇る好漁場として知られています。
とくに、橋台からは少しばかり離れた島の東部にあり、漁業で栄えた浦城集落の光景は昔のまま。変わっていません。
変わらなかった景色、変わった景色。
瀬戸大橋を走る異色のローカルバスは、大橋を望む漁港脇の潮錆たバス停から、今日も坂出を目指して走り出します。
■琴参バス瀬戸大橋線路線概要
坂出・与島・櫃石島を結ぶ琴参バス瀬戸大橋線は、 瀬戸中央自動車道の開通に合わせて、琴参バスの前身にあたる琴平参宮電鉄が昭和63年4月10日に開設した路線です。
当時は岡山側・下津井電鉄との共同運行路線であり、児島坂出間を直通で結びました。
直通が廃されたのは平成17年のことで、与島ないし櫃石島を境に本州側・四国側で系統が分割されました。
ただ、現在でも下電バスとの接続は考慮されており、坂出市内相互発着の場合は通算運賃も設定されています。
平成22年10月改正の現行ダイヤでは、坂出-与島間毎日6往復に、土休日運休の坂出-櫃石島間1往復が加わり、平日7往復・土休日6往復が運行されています。
なお、瀬戸中央道開業当初は瀬戸大橋を介して岡山香川両県を結ぶ路線バスが多数設定されており、児島坂出間のほか、 岡山高松、倉敷高松、岡山琴平、倉敷琴平を合わせた5路線が存在しました。
(25年2月訪問)
2013年3月15日金曜日
【バス終点】瀬戸内海交通/宗方線
■終点:宗方港(むなかたこう) 路線図(この一部[宮浦~宗方]です)
芸予諸島で最も大きな大三島。
その中心・宮浦から、南へと西岸の集落を結びつつ走ってきたバスの終点が、島の西南端にあり海に飛び出るように築かれた宗方の港です。
宗方は、潮の流れが緩やかな天然の良港として古くから知られていました。港のまわりをとりかこむ島々が、さながら天然の堤防の役割を果たしているのだそうです。
それを裏付けるよう、当地には航海や潮流と結びつく伝説が多く残されています。
たとえば、当地の八幡神社は、神功皇后三韓征伐のおり、土地の若者が海上案内をしたことに所以があるとされ、また宗方という地名についても、福岡県・宗像神社から神木が流れ着いたことから名付けられたとの言い伝えがあるのです。
しまなみ海道によって島々が繋がった今でも、今治との間が船で結ばれており、このバスも汽船受けのダイヤで走っています。
来島海峡大橋が架かる以前と変わらないままの、時間が止まったかのようなローカル路線と言えましょう。
とはいえ、やはり架橋の陰で、それまで島の交通を担っていた航路は縮小が続いています。
大三島においても、寄港する航路は本州・四国方面にそれぞれ1航路ずつ残るのみとなってしまいました。
そう、実はここ宗方は伝統の今治航路が発着する島最後の港なのです。
どうかこれからも船受けのバスが走り続けますように。
そこには高速道路とは異なる、のんびりとした時間が流れているのです。
■路線概要
瀬戸内運輸の子会社、瀬戸内海交通の島内ローカル路線です。
宮浦~宗方間は平日・休日問わず13往復のバスが同じ時間に走ります。
昭和46年、瀬戸内海交通によって開設。大三島営業所管内線。
13往復の通常便とは別にスクールダイヤ便(一部のみ一般乗車可/野々江バイパス経由あり)もあり。
(25年3月訪問)
芸予諸島で最も大きな大三島。
その中心・宮浦から、南へと西岸の集落を結びつつ走ってきたバスの終点が、島の西南端にあり海に飛び出るように築かれた宗方の港です。
宗方は、潮の流れが緩やかな天然の良港として古くから知られていました。港のまわりをとりかこむ島々が、さながら天然の堤防の役割を果たしているのだそうです。
それを裏付けるよう、当地には航海や潮流と結びつく伝説が多く残されています。
たとえば、当地の八幡神社は、神功皇后三韓征伐のおり、土地の若者が海上案内をしたことに所以があるとされ、また宗方という地名についても、福岡県・宗像神社から神木が流れ着いたことから名付けられたとの言い伝えがあるのです。
しまなみ海道によって島々が繋がった今でも、今治との間が船で結ばれており、このバスも汽船受けのダイヤで走っています。
来島海峡大橋が架かる以前と変わらないままの、時間が止まったかのようなローカル路線と言えましょう。
とはいえ、やはり架橋の陰で、それまで島の交通を担っていた航路は縮小が続いています。
大三島においても、寄港する航路は本州・四国方面にそれぞれ1航路ずつ残るのみとなってしまいました。
そう、実はここ宗方は伝統の今治航路が発着する島最後の港なのです。
どうかこれからも船受けのバスが走り続けますように。
そこには高速道路とは異なる、のんびりとした時間が流れているのです。
■路線概要
瀬戸内運輸の子会社、瀬戸内海交通の島内ローカル路線です。
宮浦~宗方間は平日・休日問わず13往復のバスが同じ時間に走ります。
昭和46年、瀬戸内海交通によって開設。大三島営業所管内線。
13往復の通常便とは別にスクールダイヤ便(一部のみ一般乗車可/野々江バイパス経由あり)もあり。
(25年3月訪問)
2013年2月10日日曜日
【バス終点】越後交通/長岡駅-寺泊大町
■終点:寺泊大町(てらどまりおおまち)
豪雪の明くる日、雪降り止まぬなか、色なき越後平野をひたすら走ってきたバスは、最後に小さな丘を越えると、日本海広がる寺泊の町へと入っていきます。
ここ寺泊は佐渡路の三国街道終点の宿場町として栄えたところです。また、古くは上杉景勝による兵糧輸送の中継港として、近世では北前船の寄港地として、海上交通の要衝でもありました。
そしてなにより寺泊と言えば佐渡への渡海港でありましょう。
遷御先の佐渡でその生涯を終えた順徳上皇しかり、日蓮上人しかり、佐渡配流とは、ここから対岸の赤泊に渡るものだったのです。
海に面したバス転回場の近くにある防波堤からは、対岸にぼんやりと霞む佐渡島が見渡せます。
あたりは相変わらず雪降りなものの、いつの間にか西の雲は薄くなり、夕日で染まる美しい島影が眼前にひろがっていました。
失意のうちに佐渡海峡を渡る流刑人も見たのでしょうか。幻想的な景色です。
■路線概要
長岡駅と寺泊、またその先にある大野積を結ぶ路線です。
長岡~寺泊間は平日10往復・所要60分、 寺泊~大野積間は同じく8往復・15分です。
廃止された越後交通長岡線(鉄道線)の代替路線でもあり、特に与板以西では鉄道時代とほぼ同じ経路をたどります。
(25年1月訪問)
豪雪の明くる日、雪降り止まぬなか、色なき越後平野をひたすら走ってきたバスは、最後に小さな丘を越えると、日本海広がる寺泊の町へと入っていきます。
ここ寺泊は佐渡路の三国街道終点の宿場町として栄えたところです。また、古くは上杉景勝による兵糧輸送の中継港として、近世では北前船の寄港地として、海上交通の要衝でもありました。
そしてなにより寺泊と言えば佐渡への渡海港でありましょう。
遷御先の佐渡でその生涯を終えた順徳上皇しかり、日蓮上人しかり、佐渡配流とは、ここから対岸の赤泊に渡るものだったのです。
海に面したバス転回場の近くにある防波堤からは、対岸にぼんやりと霞む佐渡島が見渡せます。
あたりは相変わらず雪降りなものの、いつの間にか西の雲は薄くなり、夕日で染まる美しい島影が眼前にひろがっていました。
失意のうちに佐渡海峡を渡る流刑人も見たのでしょうか。幻想的な景色です。
■路線概要
長岡駅と寺泊、またその先にある大野積を結ぶ路線です。
長岡~寺泊間は平日10往復・所要60分、 寺泊~大野積間は同じく8往復・15分です。
廃止された越後交通長岡線(鉄道線)の代替路線でもあり、特に与板以西では鉄道時代とほぼ同じ経路をたどります。
(25年1月訪問)
2013年2月3日日曜日
【バス終点】伊予鉄道/(川内管内)松瀬川線
■終点:松瀬川(ませがわ) 路線図(この最も北です)
「これ、珍しいでしょ。バスがここまで延びてきたとき、家主さんが会社に『ぜひ軒先を使ってください』と言うてくれたそうですよ。」
平日の昼下がり。運転士さんと二人きり、田舎道にエンジンを唸らせながら走ってきた伊予鉄バスが、民家の前で停まりました。
ここは道後平野の東奥にある奥松瀬川集落。道前と道後を隔てる稔山のふもとに15世帯あまりが暮らす静かな山村です。
面白いのは終点の停留所で、なんと集落奥にある民家の軒先に乗り場があるのです。
昔ながらの木製プレートの横には、赤い郵便受け。ここまで地域に溶け込んでいる終点は滅多にないでしょう。
松瀬川までバスが通じたのは、川内管内各線では最も遅い昭和40年の話で、沿線集落からの要望によって開設されたそう。
モータリゼーション前夜のこの時代、横河原の駅まで8キロもある集落のことです。当時、バスがどれほど歓迎されたことか、想像に難くありません。
とはいえ、開設からもう半世紀。時代はすっかり移ろいました。
「バスが出来たとき?思いもつかんねえ。見ての通り今では殆ど乗らないですよ。たまにおばあちゃんが使うくらいですね。」
長らくローカルバスは冬の時代。この路線とて、市の補助金でなんとか維持されているのです。
古き良き頃を知るであろう鄙びたバス停に見送られて、空っぽのバスは少し寂しげに集落を離れていきました。
■路線概要
松瀬川と川内バスターミナル間は土曜平日のみ4往復のダイヤで、うち一部は横河原駅や見奈良駅、東温市役所まで足をのばします。
東温市内の山間集落を結ぶ「川内管内線」のひとつです。
(24年8月訪問)
「これ、珍しいでしょ。バスがここまで延びてきたとき、家主さんが会社に『ぜひ軒先を使ってください』と言うてくれたそうですよ。」
平日の昼下がり。運転士さんと二人きり、田舎道にエンジンを唸らせながら走ってきた伊予鉄バスが、民家の前で停まりました。
ここは道後平野の東奥にある奥松瀬川集落。道前と道後を隔てる稔山のふもとに15世帯あまりが暮らす静かな山村です。
面白いのは終点の停留所で、なんと集落奥にある民家の軒先に乗り場があるのです。
昔ながらの木製プレートの横には、赤い郵便受け。ここまで地域に溶け込んでいる終点は滅多にないでしょう。
松瀬川までバスが通じたのは、川内管内各線では最も遅い昭和40年の話で、沿線集落からの要望によって開設されたそう。
モータリゼーション前夜のこの時代、横河原の駅まで8キロもある集落のことです。当時、バスがどれほど歓迎されたことか、想像に難くありません。
とはいえ、開設からもう半世紀。時代はすっかり移ろいました。
「バスが出来たとき?思いもつかんねえ。見ての通り今では殆ど乗らないですよ。たまにおばあちゃんが使うくらいですね。」
長らくローカルバスは冬の時代。この路線とて、市の補助金でなんとか維持されているのです。
古き良き頃を知るであろう鄙びたバス停に見送られて、空っぽのバスは少し寂しげに集落を離れていきました。
■路線概要
松瀬川と川内バスターミナル間は土曜平日のみ4往復のダイヤで、うち一部は横河原駅や見奈良駅、東温市役所まで足をのばします。
東温市内の山間集落を結ぶ「川内管内線」のひとつです。
(24年8月訪問)
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