2013年12月20日金曜日

瀬戸内海交通/愛媛22か1807

引き続き瀬戸内海交通から、今回は象徴的な車両をご紹介しましょう。 

 
瀬戸内海交通のフラッグシップともよべる大三島急行線(今治桟橋~宮浦港)に充当されていた愛媛22か1807号車で、型式はP-LV218Q、ボデーは ご覧のとおり西工58MC B-Iです。平成元年に導入され大三島営業所に今年8月まで配置されていた急行専用車で、同社に在籍した最後の路線シャーシ長尺車であるとともに、最後の58MC急行車でした。


 車内には13列の座席を有し、補助席を含めた旅客定員はなんと65人。通勤通学輸送に対応した詰め込み仕様です。キュービック最長となる軸距6.0メートルの大型長尺車とは言え、同路線の最新鋭車であるエアロエースの旅客定員が55人であることを考えると、その窮屈さが想像できることと思います。


路線用のシャーシでこの定員を実現するにあたり、少しでも客室面積を増やすためエンジンを横置きとするなど工夫は見られますが、再び同様の車両を導入することは到底不可能でしょう。

ちなみに、同車は今治~大三島線用としてではなく、下田水~大三島線(昭和63年開設)用として導入されています。これは当時、今治と大島を結ぶ来島海峡 大橋が未供用であったことから、今治との連絡船が発着した大島・下田水港を起点に島間連絡急行バスが運行されていたことによります。

なお、この路線は平成11年の来島海峡大橋架橋後も存続するものの、平成19年をもって廃止されました。このとき1807号車も予備車に格下げされ、以後は大三島急行線の代走・応援を中心に活躍しますが、今夏導入されたエアロエースに代替され引退となったのでした。


2013年12月16日月曜日

瀬戸内海交通/大島島内路線(その2)

前回に続いて、大島島内路線の歴史と、知られざる路線について紹介します。

島という海運が優勢となる立地条件ながら、大島におけるバスの歴史は比較的古く、昭和6年には個人(矢野武夫)の手で宮窪~幸間のバス営業がはじめられて います。6人乗りのシボレーただ1台で行われた小さな事業でしたが、戦争が激化するまで10年以上にわたって続けられました。

戦争が終わると昭和27年に宮窪~吉海間にバスが復活します。同じく個人(小原博・現在の小原タクシー)によるもので、免許上はハイヤーであるものの、事実上の乗合バスだったようです。同様の事例は各地に見られ、愛媛県内でも弓削島や中島で同様の行為が行われておりました。


道路運送法に基づく「乗合バス」が登場したのは昭和36年のこと。大島をはじめ、近隣の大三島など越智郡三島五町(現在の今治市島嶼部)の共同出資によって設立された「大三島観光交通」が、宮窪~幸間で路線を開設しました。個人による脱法的な営業を正し、また地域内で体系的な路線網を築くためにも、会社組織による運営が求められていたのです。

その大三島観光交通は瀬戸内運輸の資本参加を経て、昭和39年に瀬戸内海交通へと社名を変更します。そして翌40年に大島営業所が開設され、それを受け下田水から田浦・早川・友浦へ向かう路線が相次いで開業。ここに現在まで続く路線網が完成したのでした。

さて、バス網の整備に合わせて進められたのが、島内にある小学校の廃統合(宮窪・吉海小学校に統合)です。近頃はどこの過疎地でも行われている学校の統合ですが、大島に当時存在した宮窪・吉海の両町では、この時期に行われました。

統合新設された学校への通学手段は、もちろん上記の路線バスなのですが、それらのルートから外れる集落からの足として、朝夕のみ運行のスクールバス が設定されました。これが時刻表に載っていない「知られざる路線」なのです。そう、このスクールバスの特筆されるべきは、あくまで一般路線であり、誰しも が乗車をできるという事でしょう。

ちなみに、「スクールバス」の運行ルートは以下のとおり。
朝方
営業所→志津見を往復→南浦→名駒→下田水→営業所
夕方
下田水→名駒→南浦→営業所→志津見を往復→営業所

配布時刻表は存在せず(平成15年までは主に生徒向けとして作成していた)、方向幕も社幕で代用されることが多いのですが、れっきとした路線バスです。

最近の学校統廃合では、十中八九専用のスクールバスが用意されます。昭和中頃という早期に統合が行われた大島ならではの「限りなく貸し切りに近い」一般路線。たいへん珍しい存在と言えます。

その特殊性に加え、もちろん長期休暇や土日など学休日は全て運休ですから、相当に乗車ハードルは高いですが、運行日に大島を訪れた際にはぜひ乗ってみてください。