2013年7月8日月曜日

【バス終点】高知高陵交通/須崎梼原線

■終点:梼原(ゆすはら) 路線図
四万十川の上流、檮原川の源流近くに、梼原という町があります。
四国山地の西部、愛媛県との県境にある山深いところです。

濃緑に抱かれた家々は、谷あいに寄り添うよう屋根を連ねています。 合併前の人口はおよそ二千。険しい地勢ながらも大きな集落です。
これはひとえに津野氏、長宗我部氏の頃より伊予に通じる国境の村であったからに他なりません。梼原には、須崎から大洲へと続く梼原街道が通ります。

その道は峻険な四国山地にふさわしく、山肌に貼り付いた頼りない道です。しかし、高知から梼原への道は他になく、幕末期には坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党や天誅組など、多くの志士たちがここを通って脱藩していきました。

写真中央の道を走ります
もちろん、高知高陵交通の梼原線もこの道を通ります。 底深い谷をつづら折りの道で進み、当別峠を越えて梼原へ。ローカルバスの似合う山間の小道は、見かけによらず壮大な歴史の道なのでありました。
(平成24年8月訪問)

■路線概要
県交通グループに属する高知高陵交通は、梼原町の出資によるバス会社であった梼原観光自動車と、高知県交通の2社によって設立された会社であり、高知県西部の須崎市および高岡郡内山間部を主な営業範囲としています。

須崎梼原線は同社における最も主要な路線であり、「須崎本社営業所」と、「梼原営業所」間を結んでいます。

路線の歴史も古く、昭和元年に須崎梼原間が開業し、昭和38年には高知市への直通急行バス「ゆすはら号」が走るようになりました。

基本的には国道197号線を走りますが、途中の大川第一停留所-桂トンネル間で旧国道となる県道377号線を通る「大西経由」便と、そのまま国道を走る「布施ケ坂新道経由」便、ふた通りの経路があります。特に県道区間は狭隘路が連続します。
なお、高知直通便は全て新道経由です。

平成23年10月1日改正時点で、須崎梼原間は5往復あり、うち大西経由が2往復です。ほかに須崎杉の川間、須崎新田間、新田梼原間の区間便が若干あります。
曜日によって運行本数が変わりることはないですが、新田梼原間の区間便については学休期間中の運行がありません。


■狭隘区間:大川第一から桂トンネル(大西経由便)
須崎から30分ほど。旧葉山村の役場が置かれた津野町永野の集落を過ぎてまもなく、バスは国道から逸れて、旧国道である県道377号線へとハンドルを切ります。

新荘川の最上流に位置するこのあたりは、川を軸にして北部と南部の山地に分かれた葉山地溝帯を形成しており、県道は川の北岸の断層崖に沿うように走るのです。
道の片側は断崖絶壁が、もう片側には剥き出しの法面がそびえ立つような狭隘路が続いており、加えて、北岸・南岸から新荘川に流れ込む多くの支流が作り出した河岸段丘を越えつつ進むこととなるため、上り下りの勾配もきつく、車窓の遷り変りには全く飽きがきません。

それぞれの支流との合流点ごとにある集落をいくつか過ぎ、鶴松(かくしょう)森の巨峰が仰ぎ見えるようになると、バスは再び国道へと戻ります。 野越トンネルで新荘川水系と四万十川水系との分水嶺を越えると、いよいよ梼原町です。

2013年7月2日火曜日

【バス終点】宇和島自動車/武者泊線

■終点:武者泊(むしゃどまり) 路線図
宇和島から1時間の城辺ターミナルで乗り換えること、更に1時間。
崖に貼りついてヘロヘロと続く道の終わり、そこが終点でありました。
稜線近くにある小高いバス転回場から下を見ると、深い入江にへばりつくよう家並みが広がっています。

ようやく行き着いた武者泊は、そんな外海の集落でした。


愛媛県の南端、御荘から宇和海に突き出すように船越半島が伸びています。
リアス式海岸が続き、古くから好漁場として知られているところです。

半島は瀬戸内側と太平洋側で地域がわけられ、それぞれ内海(うちうみ)、外海(そとうみ)と呼ばれています。
比較的波穏やかな内海に対して、太平洋の波洗う宿毛湾に面する外海では、黒潮の分流が海岸を激しく洗うのです。

このような環境の違いは、地域の糧である漁業にも現れており、 内海で多く目にした真珠やブリの養殖筏は少なく、かわって一本釣り漁船の姿が多くなります。外海、なかでも武者泊は、昔ながらのカツオ一本釣りで暮らしをたてている所なのです。


あいにく訪れた3月のあたまはカツオ漁の夜明け前。しかし、どこまでも静かな集落ながら、その後ろには入り組んだ海岸線と豊かであろう大海原が広がります。目をとじると大漁旗を掲げて帰港する漁船が浮かぶようです。

「今は一番に時期が悪いですよ。また来たらええです。」
ハンドルを握る運転士も、こう言ってしきりに惜しがってくれたことですし、ぜひ漁のシーズン中に再訪してみようと思う終点です。
(平成25年3月訪問)

■宇和島自動車武者泊線概要
国道56号線沿いの城辺バスターミナルと、船越半島南端の武者泊を結ぶ路線です。

昭和14年4月20日に開業した城辺~船越間を基本としており、以後、道路の改良を待って順次延伸を重ねてきました。
戦争を挟んだ昭和22年5月15日には船越から福浦まで、続く昭和34年1月31日には麦ケ浦まで延伸され、昭和42年6月26日に武者泊まで全通しました。

当初は城辺~船越間において県道34号線を経由していましたが、昭和51年の西海有料道路開通を受けて一部を同道路経由へと振り替えます。その後、平成22年に西海道路経由へと一本化され(小屋浦~竹倉間廃止)、現在の形となりました。(※)

開業時の運行本数は確認できませんでしたが、昭和20年6月時点では4往復が運行されています。福浦延伸時にはそのうち3往復が福浦に直通し、残る1往復は船越止めのまま残りますが、麦ケ浦延伸時に4往復すべてが終点まで走るようになり、武者泊延伸時にはこれが6往復となりました。その後の大きな変更はありません。
平成22年10月改正の現行ダイヤでは、1日6往復のうち1往復が日祝運休、2往復が学休日運休で、途中の船越にて外泊方面と連絡する便も設定されています。

全便とも城辺営業所に所属する中型車で運行され、毎晩1台が武者泊にて運転士とともに夜間滞泊をおこなっています。また、西海道路口~武者泊間は自由乗降区間の指定を受けています。

(※)県道320号線西海有料道路は平成18年に無料開放され、平成24年には県道34号線に統合されています。そのため、廃止された区間を正確に言うと、県道34号旧道区間となります。 

船越入口~船越間にて
■参考文献
『西海町誌』(西海町、昭和54年)
『御荘町史』(御荘町、昭和45年)
『全国バス事業要覧 昭和27年度版』(日本乗合自動車協会、昭和26年)
『全国バス事業要覧 昭和30年度版』(同上、昭和29年)
『愛媛県のバスとタクシーの歩み』(愛媛県旅客自動車協会、昭和38年)
『宇和島自動車労働組合50年史』(宇和島自動車労働組合、平成9年)
『角川日本地名大辞典 愛媛県版』(角川書店、昭和56年)

2013年5月26日日曜日

中島汽船バスの歩み

■中島汽船バスの歩み
主要道路すら貧弱な中島に、はじめて自動車がお目見えしたのは、戦後混乱期を脱した昭和27年のことでありました。大浦で商店業を営む富永忠がハイヤー営業の認可を得たのです。唯一となる自動車は三菱機械工業製・ジャイアントAA7型コンドル(8人乗り)、いわゆるオート3輪であり、営業と運転は弟の富永考がひとりであたったそうです。

与えられたのはハイヤー免許ながら、住民の希望もあって実際はバス運行の形をとっており、大浦~神浦間を日に9往復、全区間の運賃は30円でありました。「バス」は1台しかなかったため、車検こそ島内で行う許可を得たものの、検査・整備は主に夜間に行わざるを得ず、故障運休も珍しくはありませんでした。また、当然ながら無認可の乗合行為は高松・松山の両陸運局から度重なる注意を受けており、運行の安定・健全化を図るために、昭和33年6月に町営移管が行われたのです。

バスの運行業務は既存の観光課を改組した運輸観光課があたり、その管理は引き続き富永考が担当、車庫も既存のものを活用しました。町営移管後は道路整備を待って順次路線網の拡大が図られます。まず昭和34年3月に大浦宇和間を延伸、同年12月には吉木(※)、昭和35年の車庫・営業所新築を挟んで、38年8月には饒、39年5月には大浦から北へ粟井まで、40年6月には粟井~大泊口・饒~畑里がそれぞれ開業し、いよいよ42年5月には島内一周運行がはじまります。そして、中島唯一の隧道である辻堂トンネルの開通を受け、昭和46年3月に島を横断するトンネル線(大浦~西中港)が開業。このとき現在まで続く路線網が完成をみたのです。

(※)吉木については民家の立退き問題で交渉が難航し、34年に乗り入れたのは吉木集落の西端にあたる吉木墓所(停留所現存せず、吉木より150米ほど西側)まで。現在の吉木停留所まで達したのは38年8月。 

なお、40年7月から町内を区域とする貸切営業も開始し、48年8月には松山市・北条市へと営業区域を広げています。

このようにして町営バスは中島に欠かせない交通手段となっていきました。しかし、ながらく続いた町によるバス運営は、平成大合併によって終わりを迎えることになります。過疎化に悩む中島町は松山市への吸収合併を希望したのですが、この際に松山市から提示された条件が、慢性的な赤字を抱える町営汽船および町営バスの民営化でありました。これを受け平成15年10月に民営化方針が示され、同年12月に石崎汽船が譲渡先企業として選定されます。こうして石崎汽船と町内全地縁団体の出資によって設立された中島汽船株式会社へと一切の事業が譲渡されることになりました。

そして平成16年10月1日に大浦港において出発式が開かれ、同日より中島汽船バスが走り出しました。平成11年の弓削町営バス廃業(自主運行化)以降、愛媛県唯一となっていた公営バス(※)はここに消え、中島のバスは半世紀を経て再び民営に戻ったのです。

(※)地方公営企業法に基づくもののみで、廃止代替バスを除く。

■年表
昭和27年10月 株式会社富永商店にハイヤー免許が交付される。大浦~神浦間にて事実上の路線バス営業開始。
昭和33年6月 温泉郡中島町運輸観光課に移管。大浦~神浦間免許、正式開業。同時に宇和間までを出張診療に向かう町立中央病院の医師用「病院診察車」名義での定期試運転開始。
昭和34年3月 神浦~宇和間間正式開業。
同年12月 宇和間~吉木墓所間開業。
昭和35年5月 車庫・営業所を新築。
昭和38年8月 吉木墓所~吉木~曉間開業。
昭和39年5月 大浦~粟井間開業。
昭和40年6月 粟井~大泊口、曉~畑里間開業。
昭和40年7月 貸切営業開始。
昭和42年5月 畑里~大泊口間開業。環島路線の完成。
昭和46年3月 トンネル線(大浦~西中港間)開業。
昭和48年8月 貸切営業区域を北条市・松山市へ拡大。
平成15年10月 松山市の合併を見据え、民営化の方針を提示。
平成15年12月 譲渡先企業を石崎汽船に決定。
平成16年4月 中島汽船設立。
平成16年10月 中島汽船が町営汽船・バスの全事業を譲受。営業を開始。 

2013年5月10日金曜日

【バス終点】小田急バス/向13系統

■終点:明治大学正門(めいじだいがくせいもん)
新宿から小田急線で半時間ほど、多摩川を越えた先に小高い生田の丘があります。
その丘の頂に広がるのが明治大学の生田校舎で、どこか国立大学のような緑豊かなキャンパスです。


今でこそ若者の声が絶えない活気あふれるところですが、 戦前から戦中にかけて陸軍の「登戸研究所」が置かれ、細菌兵器や風船爆弾の開発が行われていたことで知られています。

戦後、研究所跡地にひらかれたのが生田校舎なのです。


その明大行きのバスは向ヶ丘遊園駅から。団地が並ぶ丘の斜面を駆け上がり、大学の正門をくぐった先が終点です。

大学構内らしく入学式のころには花びら舞い、それはそれは絵になるバス停ですが、この桜が植樹されたのは意外にも戦前だそう。


美しく咲き誇る姿からは想像がつきにくいものの、少しく残る当時の実験棟と共に陸軍時代を知る数少ない生き証人なのです。

(25年4月訪問)

2013年4月9日火曜日

【バス終点】高知東部交通/馬路線

■終点:魚梁瀬(やなせ)
太平洋に沿って走ってきた安芸からの小型バスは、安田の貯木場を見過ぎると、いよいよ急峻な四国山地へと入っていきます。

このあたり、高知県東部にある安芸郡は広く林業で栄えた所で、なかでも広大な国有林が広がる魚梁瀬は、営林署の手で拓かれた四国を代表する林業の村です。


魚梁瀬の歴史を紐解く上で重要なのが、山深い奥地にある森林資源を切り出すために作られた魚梁瀬森林鉄道で、魚梁瀬と安田(田野)、奈半利の貯木場を結びました。この建設こそが、魚梁瀬を拓き、発展させたのです。

それまで、もっぱら人力や牛馬車、そしてせいぜい奈半利川・安田川を利用した流材によって木々を伐り出していた四国山地に、はじめて近代的で効率的な輸送手段が現れたのですから、それはもう革命でした。

時代が進んだのちのこと、電源開発による奈半利ダム建設に伴い、材木輸送はトラックへと代替されますが、一部区間では道路へと転用され、かつての鉄道ルートは今でも欠かせない大事な輸送路となっています。


もちろんバスも鉄道跡を走ります。安田川沿いに魚梁瀬へ続く県道12号線は、安田から既に離合すらままならない「険道」 ですが、途中の馬路をすぎると特にカーブが増え、右へ左へ車体を大きく揺らしつつ進んでいきます。

鉄道は急勾配を避けるために蛇行を繰り返しますから、続く曲線は、ここにかつて鉄路が引かれていたことを物語っているのです。


バスの終点・魚梁瀬はダム建設によってその姿を変え、整然と区画整理された移転集落からは昔を偲ぶことはできませんが、村を切り拓いた森林鉄道の面影は、今も山中にしっかりと残されています。

■高知東部交通馬路線路線概要
安芸と魚梁瀬を安田川沿いに結ぶ路線で、平成22年3月改正の現行ダイヤでは全線毎日2往復に加え、途中の馬路まで平日2往復、日祝日1往復の区間便が加わります。

この路線の歴史は古く、高知県交通の前身にあたる野村組自動車部の手によって、大正9年に安芸・馬路間が開業しました。
しかしながら、残る馬路・魚梁瀬間の開通は遅く、森林鉄道の廃止に伴う道路拡幅が完成する昭和37年まで待つこととなりました。
その後、高知県交通の地域分社化方針に基づき、平成5年に高知東部交通へと路線移管され現在に至ります。

なお、明治40年~昭和38年まで当地には魚梁瀬森林鉄道が引かれ、生命財産の保証をしない「便乗」という形で住民の乗車が認められており、バス開通まで地域の足として重宝されていました。

(25年3月訪問)

2013年3月21日木曜日

【バス終点】琴参バス/瀬戸大橋線

■終点:浦城(うらじょう) 路線図
昭和50年代、瀬戸大橋の架橋工事と共に、それまでの静かな島の景観は大きく変貌を遂げました。
ここは塩飽諸島の最も東に浮かぶ、香川県坂出市・与島。瀬戸大橋の橋台となった島です。


古くは石材と製塩で栄えた地ですが、大坂築城にも使われたという与島石の採石場付近を土台とし大橋が架けられ、そこに暮らした人々は島北部の塩浜塩田を埋め立てた新興住宅街へ移り住んだのです。


伝統的な産業と引き替えに、島は便利になったと言います。島内には島民専用ながらインターチェンジが設けられ、四国本土まではわずか10分で行けるようになりました。

そして、それまでの渡船からバトンを受けた琴参バスが、新たに坂出や児島へと働きに出るようになった島の人々を運んだのです。


もちろん、橋が架かろうと変わらなかったものもあります。
そのひとつが橋とは関わりなく今に続く産業、漁業です。鯛・鰆・メバル・蛸...島のまわりは、今でも多くの魚種を誇る好漁場として知られています。

とくに、橋台からは少しばかり離れた島の東部にあり、漁業で栄えた浦城集落の光景は昔のまま。変わっていません。

変わらなかった景色、変わった景色。
瀬戸大橋を走る異色のローカルバスは、大橋を望む漁港脇の潮錆たバス停から、今日も坂出を目指して走り出します。


■琴参バス瀬戸大橋線路線概要
坂出・与島・櫃石島を結ぶ琴参バス瀬戸大橋線は、 瀬戸中央自動車道の開通に合わせて、琴参バスの前身にあたる琴平参宮電鉄が昭和63年4月10日に開設した路線です。
当時は岡山側・下津井電鉄との共同運行路線であり、児島坂出間を直通で結びました。
直通が廃されたのは平成17年のことで、与島ないし櫃石島を境に本州側・四国側で系統が分割されました。
ただ、現在でも下電バスとの接続は考慮されており、坂出市内相互発着の場合は通算運賃も設定されています。

平成22年10月改正の現行ダイヤでは、坂出-与島間毎日6往復に、土休日運休の坂出-櫃石島間1往復が加わり、平日7往復・土休日6往復が運行されています。

なお、瀬戸中央道開業当初は瀬戸大橋を介して岡山香川両県を結ぶ路線バスが多数設定されており、児島坂出間のほか、 岡山高松、倉敷高松、岡山琴平、倉敷琴平を合わせた5路線が存在しました。

(25年2月訪問)

2013年3月15日金曜日

【バス終点】瀬戸内海交通/宗方線

■終点:宗方港(むなかたこう) 路線図(この一部[宮浦~宗方]です)
芸予諸島で最も大きな大三島。
その中心・宮浦から、南へと西岸の集落を結びつつ走ってきたバスの終点が、島の西南端にあり海に飛び出るように築かれた宗方の港です。


宗方は、潮の流れが緩やかな天然の良港として古くから知られていました。港のまわりをとりかこむ島々が、さながら天然の堤防の役割を果たしているのだそうです。

それを裏付けるよう、当地には航海や潮流と結びつく伝説が多く残されています。

たとえば、当地の八幡神社は、神功皇后三韓征伐のおり、土地の若者が海上案内をしたことに所以があるとされ、また宗方という地名についても、福岡県・宗像神社から神木が流れ着いたことから名付けられたとの言い伝えがあるのです。


しまなみ海道によって島々が繋がった今でも、今治との間が船で結ばれており、このバスも汽船受けのダイヤで走っています。 
来島海峡大橋が架かる以前と変わらないままの、時間が止まったかのようなローカル路線と言えましょう。

とはいえ、やはり架橋の陰で、それまで島の交通を担っていた航路は縮小が続いています。
大三島においても、寄港する航路は本州・四国方面にそれぞれ1航路ずつ残るのみとなってしまいました。

そう、実はここ宗方は伝統の今治航路が発着する島最後の港なのです。

どうかこれからも船受けのバスが走り続けますように。
そこには高速道路とは異なる、のんびりとした時間が流れているのです。


■路線概要
瀬戸内運輸の子会社、瀬戸内海交通の島内ローカル路線です。
宮浦~宗方間は平日・休日問わず13往復のバスが同じ時間に走ります。
昭和46年、瀬戸内海交通によって開設。大三島営業所管内線。
13往復の通常便とは別にスクールダイヤ便(一部のみ一般乗車可/野々江バイパス経由あり)もあり。

(25年3月訪問)