2020年11月10日火曜日

上高地と奈良のメモ

上高地帝国ホテル

鉄道省とその外局たる国際観光局によって1930年代に進められた国際観光政策によって最初に開発が検討されたのが上高地である。修験道の聖地であった軽井沢は、電力開発に伴う道路整備により、日本アルプスの拠点として脚光を浴びつつあった。その流れを確固たるものにしたのが、先述の国際観光政策と、それに伴い開業した新設の国際観光ホテル、すなわち上高地帝国ホテルであった。


上高地前史


上高地の観光地としての価値を最初に発見したのは、イギリス人宣教師ウォルター・ウェンストンであると言われている。彼が1891年に著した『日本アルプス―登山と探検』には、自ら徳本峠を越えて上高地にたどり着いた様子を記しており、多くの人々に上高地を紹介するきっかけになった。

それから遅れること15年、加藤惣吉によって1906年に「上高地温泉」が開設された。これが上高地における最初の宿泊施設である。しかし依然としてアクセスは徳本峠を越える徒歩道しかなく、観光地というにはほど遠い姿であった。

 

上高地の観光地としてのポテンシャルを大いに高めたのは、電源開発に伴う道路整備である。長距離送電の技術が確立され、日本中の渓谷で電源開発が進められた1920年代、同地でもダム及び発電所の建設が行われた。セバ谷ダムを調整池とした京浜電力湯川発電所、大正池を調整池とした梓川電力霞沢発電所がそれである。これら発電所の建設資材輸送のため、1928年には島々―奈川渡間の車道が京浜電力の手によって、翌29年には奈川渡―大正池間の車道が梓川電力の手によって建設された。そして、同年にはこれを利用した島々―中ノ湯間の乗合自動車(アルプス自動車)の運行が開始された。このようにして上高地は近代交通ネットワークに組み込まれ、観光地としての歩みを始めることになるのである。

 

国策としての上高地開発

 

鉄道省の外局であった国際観光局では、外客誘致のための重点整備を促進するために、全国の観光地点をランク付けしたリストを作成するが、このリストで上高地は上から2番目のランクとされ、国際観光政策上、比較的重要な扱いを受けることになった。これは、関東と関西の中間に位置することに加え、当時の登山ブームにより外国人登山客も引き受けることができるポテンシャルの高さゆえであった。

 

19319月に国際観光局において開催された国際観光委員会第二部特別委員会第6回会議において、上高地の具体的な開発が議論された。これを受けて上高地への視察団が編成され、国際観光局長新井尭爾のほか、国際観光委員会委員で帝国ホテル会長である大倉喜七郎、同委員で都ホテル会長である藤村義朗らが赴いた。この視察とその後の会議により、長野県と帝国ホテルによる上高地の全面的な観光地開発が決定し、電力会社専用道の県道移管と改修を主とする大正池までのアクセス道路整備を県が、大正池から河童橋までの道路建設とホテル建設を帝国ホテルが担うことになった。

 

上高地帝国ホテルの概要

 

19335月に着工した上高地帝国ホテル(正確には1936年まで「上高地ホテル」として営業)は、総工費30万円を以て突貫工事で建設が進められ、同年105日に開業を果たしている。設計は前田侯爵邸など華族の邸宅建築のほか、川奈ホテルや芝パークホテルなどホテル建設も多く手がけた高橋貞太郎で、施工は大倉土木の協力のもと帝国ホテル直営で行われた。

 

この建物は、木造三階建てで屋階(おっかい)を持ち、客室46室(うち浴室付き8室)、収容人数は200人の規模を有し、外壁の1階部分は自然石張り、2階はカラマツを校倉(あぜくら)風に組み、3階は板張りをペイントするといった具合に、山小屋風の外観であった。

乾燥室、ロッカールーム、露台、そして屋階にはスチューデントルームを備えるなど、他の国際観光ホテルにはない山岳ホテルとしての特徴的な室構成になっている。

 

外部意匠

 

上高地ホテルの建設意匠は、開業時の新聞記事で「ホテルの外見はスイツツル辺の山小屋を想わせる清楚なもの」と形容されているように、概ねスイスのコテージ形式を踏襲していると言える。大きな切妻や、玉石貼りも同様のイメージに基づいていると考えられる。

 

居室空間の概要

 

居室に関しても、山岳ホテルらしい配慮がなされている。浴室付きの客室が少ないのはその一例で、これは登山客を中心に低廉な宿泊料金を希望する客層が一定数見込まれたため、アメリカの国立公園に立地するホテルも参考にしつつ、浴室付きの客室数を最小限に止めたものである。一方で、浴室がない客室にも洗面台は必ず設置されており、これも同様に外国に範をとった設計である。

 

特に象徴的なのが屋階のスチューデントルームである。これは小規模の部屋や相部屋の総称で、宿泊料をさらに抑え、その名の通り学生をはじめ一般庶民にも広く利用されるよう図ったもので、これまでの洋式ホテルのように外国人や上流日本人だけが利用する施設ではなく、大衆の利用も想定し、これを建築的に解決しようとした好例と言える。

 

また、居室からの眺望に関する配慮も独特のものがある。他の国際観光ホテルが視点場を高位に求めて周囲を見下ろす俯瞰を重視したのに対し、上高地帝国ホテルでは穂高岳、焼岳に対して見上げる仰観を重視した。具体的には、展望台を設けず、代わりに各居室に露台を設置して、各個室からの眺望を確保した。

 

共用空間の概要

 

共用空間では、より山岳ホテルらしさが目立つ。先述した乾燥室やロッカールームのほか、次のような特徴がある。ひとつはドレスコードを求めるグリルと別に食堂が設けられている点である。スイスの山岳ホテルを範にとり、山行姿の客でも食事をとれるよう配慮した結果である。また、これも同じくスイスの山岳ホテルを参考として、玄関ホール中央に暖炉が設けられた。寒冷地のホテルでは吹き抜けホールに暖炉を設け、全館に暖気を行き渡らせるのであるが、上高地帝国ホテルの場合は当初より夏のシーズンホテルとして計画されていたことから、山岳ホテルとしてのシンボル的な性格が強かったものと思われる。そして、最後にダンスホールの設置を行わなかった点が挙げられる。同時期に建設された蒲郡ホテルや琵琶湖ホテルがダンスホール計画を重視していたのとは対照的に、登山拠点としての山岳ホテルたる上高地帝国ホテルでは、ダンスホール設置は早々に検討対象から外された。

2019年8月18日日曜日

安居島について

概要

松山市に属する有人離島である。平成の大合併以前は北条市に属した。伊予北条駅にほど近い北条港から北北西に13.5キロの距離にあり、瀬戸内海西部・斎灘(いつきなだ)のほぼ中央部に位置する。他の島とは離れているが、属島として無人の小安居島を有する。

地理

東西1.3キロ、南北約0.2キロ、周囲3.5キロ。全体が低い丘であり、最も高い地点でも標高55メートルである。集落以外はほとんど雑木林で、水田はなく、果樹園もほとんどない。
小字は8つあり、北端より西まわりに、明神(みょうじん)、生洲(いけす)、汐出(しおで)、小浦(おうら)、湊(みなと)、安居殿谷(あいだに)、蛭子(えびす)、長谷(ながたに)の順に並ぶ。

歴史

周辺の島々で見られる弥生期の高地性集落跡や、臨海性遺跡は見つかっていないが、少なくとも律令国家体制が形成され、かつ、官米の舟運による輸送が公認された8世紀中頃には荒天時の緊急避難場所として利用されていたようで、延喜式において規定されている海路上にある「藍島」は本島を指すと思われる。

その後も周辺各村の肥草刈場や漁師の緊急避難場所として利用されてきたが、現在へ連なる定住の歴史は浅く、文化年間まで時代は下る。瀬戸内海の無人島は入会権を巡る争いが珍しくなかったが、特に本島は斎灘のほぼ中央に位置したことから、幕藩体制成立後も長らく松山藩、大洲藩、広島藩の何れに属するかが明確ではなく、入植が困難であったためである。

この決着がついたのは文化13年(1816年)で、風早郡代官であった広橋大助の尽力により、風早郡難波村の草刈場として松山藩領有地と確定した。これを受け、同年より藩命により開拓に着手され、翌14年に浅海村の庄屋の子であった大内金左衛門が初めての島民として移住、続いて本村の難波村より逐次渡島し、漁業を中心に開発が進められた。

それまで「藍島」「相島」などと表記した島名は、このころ安居島となった。一説によると松山藩領となり安じて居をなすようになったためであるとされる。天保2年(1832年)には難波村より分村し、「安居島」村となっている。

弘化年間、字湊に防波堤が築造されると、帆船の風待ち・潮待ち港として発展し、安政年間には遊郭も置かれた。この安居島遊郭は道後松ヶ枝町に次ぐ規模で、明治中期には遊女の数は80人に上ったという。ただし、これは妓楼が立ち並ぶ郭ではなく、いわゆる「おちょろ船」が中心の、風待ち港に見られる独特の形態であり、遊女はその他島民に混ざって日常生活を送っていた。(同様の遊郭は大崎下島の御手洗が有名である。)

順調な発展とともに、人口も増加した。嘉永6年(1853年)には26戸、明治5年には29戸171人、明治6年には32戸204人となり、町村制が施行され北条村の大字となった明治22年には約120戸500人を数えるに至る。

凡そこの頃が安居島の最盛期で、年間およそ3,500艘の船が出入りし、漁業と併せて活況を呈した。しかし、船舶が大型化、動力化するにつれ、風待ち港としての役割が失われていき、島は急激に衰退の一途をたどり始めた。昭和戦前期に最後の遊女がいなくなり、赤線指定されることなく消滅した安居島遊郭は、その象徴と言える。

瀬戸内海の一寒村になった安居島に残された島民は、漁業振興を図ろうと明治36年に安居島漁業組合を、さらに明治38年には安居島遠海漁業組合を設立し、斎灘の中央という地の利を活かした生き残り策を取る。また、最盛期の蓄えを元に一杯船主となったものも多く、漁業と運送業が大正以降の島の産業となった。

とはいえ、過疎化の流れに抗うことはできず、第二次大戦中に海軍の対空陣地が築かれたことや、戦後の外地からの引揚げ及び疎開で一時的に人口が増加したこと等を除くと、人口は減少を続けることになる。

過疎化対策として、昭和32年8月に離島振興対策実施地域の指定を受け、漁港の整備を中軸に、護岸の改修、海底ケーブルによる一般受電、航路補助による定期船の就航など、様々な施策が打たれたが、高度成長以降の本土との生活格差は広がるばかりで、流出に歯止めをかけることはできなかった。

先述した引揚げの影響で、人口のピークこそ昭和30年の532人だが、昭和57年には61人と30年間で9割減となり、平成30年時点ではわずかに10人を残すのみとなっている。高齢化率は80%に達し、今日の安居島は年金によって支えられている限界集落の一つといえる。

交通・インフラ

安居島における交通及びインフラの整備状況は次のとおりである。

・定期航路
有限会社新喜峰により、北条港と安居島港を結ぶ定期客船が1日1往復(夏季は2往復)運航されている。現在用いられている船舶は、平成11年に進水した「あいほく」で、総トン数57t、旅客定員68名である。
定期航路が開設されたのは昭和37年度で、離島振興法に基づく航路助成(県単独事業)による。それまでは、郵便船や漁船等に便乗するか、時間を定めない渡海船を利用する必要があった。

・教育施設
小学校及び高校が存在したが、何れも現存しない。

安居島小学校は明治8年に北条小学校の分教場として開設され、明治19年には小学校令に基づく安居島簡易小学校(3年制)となった。校舎は民家を使用していた。明治25年には北条小学校より独立し、正規の安居島尋常小学校になる。明治41年に義務教育延長(6年制)を受けて天満神社西側へ校舎を新築移転する。その後、昭和14年の高等科設置、昭和16年の国民学校への改称、昭和22年の新制移行、昭和36年の校舎改築、昭和47年の休校を経て、昭和58年に閉校した。
分教場設置時の児童数は不明、尋常小学校設置時の児童数は41名で、最も児童数が多かったのは高等科設置前では昭和3年と同9年の80名、設置後では昭和18年の105名、新制移行後では昭和29年の89名である。休校時の児童数は6名。

安居島中学校は、学制改革により小学校高等科が廃止された昭和22年に、安居島小学校内に併置する形で開設された。昭和24年に小学校敷地内に単独の校舎を新築し、昭和36年には小学校東隣に新築移転している。昭和40年には北温中学校と統合し、北条北中学校安居島分教場となるが、昭和41年より四国本土の北条新開に開設した寄宿舎からの通学とすることになり、同年閉鎖された。

・電気及び上水道
四国電力及び松山市水道局により供給されている。

電気
時期は不詳ながら、少なくとも昭和初期には自家発電により電気を使用していたようである。離島振興法による国の補助事業として、昭和35年には全島統一の自家発電施設が設置され、更に昭和45年には四国本土からの海底ケーブルにより四国電力からの供給が開始された。

上水道
長らく島内に4箇所あった塩分を含まない共同井戸から飲料水を取水し、炊事洗濯は塩分を含む個人井戸を使用していたが、こちらも補助事業として平成6年に飲料水供給施設が完成し、平成7年より四国本土から定期船で運搬する形で、北条市水道局による上水の供給が開始された。合併により供給元は松山市水道局となる。

郵便及び電話
島内の郵便局は長期閉鎖中(事実上廃止)である。電話は西日本電信電話により供給されているが、詳細は調査中。

郵便局
昭和28年に安居島郵便局として開設された。平成10年に閉鎖の上、同年に安居島簡易郵便局として簡易化され再開したが、平成25年より長期閉鎖中である。

名所・旧跡

安居島港防波堤
大内金左衛門碑
天満神社
安居島灯台
安居島海水浴場
遊女みどりの墓
海軍特設見張所跡

以下時間がないのでメモ

瀬戸内の島々の生活文化(愛媛県 平成3年)より
島でとれる農産物は芋・麦・野菜。芋麦飯におかずとして煮干しやひじきを付けるのが戦前の標準的な食事。定期船ができるまでは、広島県側との繋がりが強かった。病気になると上蒲刈の医者に通う。漁で取った魚も、いけすでしばらく活かし、中島から糸崎に向かうナマ船が寄港するときにまとめて運んでいた。渡海船も2隻あり、こちらを用いて北条に運ぶこともあった。大山祇神社にもよくお参りに行った。戦時中は軍の探照燈があったため、末期は毎日のように空襲があった。一度は船に直撃を受けて死者も出た。

安居島小学校百年誌?より
昭和19年3月19日 空襲のため休業
昭和20年7月24日~3日間 空襲のため休業
大正2年から3年 大人に対して夜学を実施
大正3年5月1日 「パッチン」遊びを禁じる 遊郭?
昭和41年 給食開始

北条市誌より
姫坂神社由来
昔、京都の由緒あるお姫様が、お家の事情で、海に流され、安居島の大岩の所に流れ着いた。姫は所持していたお金が、ぬれたので浜に乾かしていた所に、漁に来ていたよそ者の一味が、姫とお金の両方を奪おうとした。
姫は「お金は差し上げますからどうか命だけは助けてください」と懇願した。
しかし、悪者の一味は、それを聞き入れず命まで奪ってしまった。
姫は息が切れる前に「お前たちの子子孫孫まで呪いますぞよ」と言ったそうである。
その後、奪った金で千石船を造ったが、その船が行方不明になったり、家族に次々と死者が出たりして、とうとう家が絶えたという。
このお姫様の霊をなぐさめるために、島の中央に姫坂神社を建てたと言い伝えられている。

遊女みどり伝説
昔、安居島に遊郭があった頃の話じゃ。江戸時代の終り頃この島にいた遊女みどりは、たびたび通ってくる男と恋仲になったんじゃが、かなわぬ恋に嘆き悲しみ「小波止」から身を投げてしもうたんじゃ。すると、みどりの遺体は、島の東側の「ミズハ」という浜の岩の上に打ち寄せられたんよ。その後、誰いうともなしにこの岩を「みどり岩」と呼ぶようになったんよ。
明治時代になって、港を改修するために石工を雇い、この岩を割ったところ、石の中から「白蛇」が出てきて、その石工は病気になってしもたそうな。それからは、この岩に手を付ける者はいないんじゃ。みどりの墓は、島の西側の丘の上にある墓地に今でも残っとる。墓石には「天保二年六月二日」と刻んであるんよ。
(話 瀬戸丸清學)

伊予万歳「伊予風早名所づくし」
「…遥かに見ゆるは安居の島、オチョロ船にと身を任かす遊女みどりの恋物語…」

伊予国地理図誌(明治5年 石鉄県編纂)
安居嶋 第八小区下難波村ノ内
下難波村西北の海上に在り 海岸を距る壱里三十壱町十弐間 此島有限会社新喜

2019年2月13日水曜日

【終点メモ】2019年1月

2015年3月1日日曜日

【バス終点】上田バス/傍陽線

■終点:入軽井沢(いりかるいさわ)

 地元のおじいさんに寒いだろうと自宅に招かれ、小一時間の折り返し待ちはあっという間にすぎていきます。

 「この前も『ハーベストホテルはどこですか?』って聞かれたなあ。あるわけない。観光バスが迷い込んできたこともあった。」
 あたたかいお茶を注ぎつつ、なにもないところだよと笑いながら語ってくれました。

 こんな信州の「軽井沢」を目指すのが上田バスの傍陽線。上田駅から松代に続いていく坂道を40分ほど登り続けた先の山村に、積もるばかりの雪で白一色に染まった終点があるのです。


 ご推察の通り、信州にはいくつかの「軽井沢」があります。 そのうち町村制(のち地方自治法)に基づく自治体となったところがふたつあり、ひとつが高名な中山道沿いの避暑地・軽井沢、もうひとつがこちら中山道から別れた松代道沿いの山村・軽井沢です。

 今でこそそれぞれの軽井沢はまったく違う顔を見せています。しかし、昔はどちらにも番所が置かれ、峠を控えた交通の要衝でありました。一説によると「軽井沢」の語源は荷物を背負うことを意味する古語「かるう」にあるといい、これは転じて峠道という意味も持つそうですから、同じ地名になったのも偶然ではないでしょう。

 近代の交通革命がそれぞれの姿を変えていったわけですが、 もしかすると避暑地軽井沢も国鉄信越線で東京と直接結ばれることがなければ、小さな山村の佇まいであったかもしれません。改めて地名の奥深さを感じさせてくれる終点です。


 やっぱり「なにもないところだけど」と前置きをしつつ、こちらの軽井沢では春にホタルが飛び交い、近くの牛乳工場では出来立てのミルクが味わえる、とは先のおじいさんの談。松代との境を成す地蔵峠には天然温泉もあるそうです。

 リゾートホテルこそないかもしれませんが、私はすっかりこの素朴で親切な「軽井沢」のファンになりました。

(2015年2月訪問)


■傍陽線メモ
 上田バス傍陽線は1972年に廃止された鉄道真田傍陽線の代替としての役割を担っている路線で、市北西部にあたる傍陽地区と上田駅を結んでいます。一部便は上田駅に直通せず、途中の真田にて菅平線等との乗り換えを必要としますが、その場合も乗換券により運賃の通算が行われています。
 なお上田バスの前身会社にあたる上電バス時代には、路線名通り傍陽どめの便や、入軽井沢の先にある松井新田行きの便もあったそうです。また鉄道廃止後も長らく旧傍陽駅舎がバス待合所として活用されていましたが、残念ながら2003年に解体されています。

2015年2月1日日曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/唐川線

■終点:両沢(りょうざわ)

 「唐川と言ったら、やっぱりビワですよ。」
 あまりの閑散ぶりに、政治路線との噂もささやかれる唐川線ですが、幸か不幸か、沿線生まれの運転士と2人きりの車内、会話は弾みます。ローカルバス旅の醍醐味のひとつです。その運転士がとにかく太鼓判を押すのが、名産の「唐川ビワ」。

 ミカンにイヨカンなどなど柑橘類の影に隠れて目立ちませんが、実は愛媛県のビワ生産量は全国でも屈指のもので、ここ数年は長崎、千葉に次ぐ第3位を誇っています。そして、その県内生産のほぼ全量を担っているのが、ほかならぬ唐川なのです。

はじまりの郡中バス停

 これらのビワ産地は、郡中と両沢を結ぶ伊予鉄バス唐川線の沿線そのもの。伊予市南部と砥部町を隔てる谷上山の南麓にあたり、東方に聳える障子山に源を持つ森川に沿ってのびています。この川は典型的な支流ですから、これに沿う村々も、本流にあたる大谷川に沿ってひらけた大洲街道上の町とは異なり、川べりにへばりつくような山村ばかりです。

 そもそも「カラ」という地名は「涸」「枯」から取られていることが多く、河川の上流の水の乏しいところや、斜面などによく見られると言われています。唐川は、土地もなければ、水もない、なかなかに厳しい地勢だといえます。

森川沿いには桜並木も

 そのような村の人々が暮らしの糧としたのが、ろうの原料であるハゼノキと、そしてビワの栽培なのでした。その歴史は古く、すでに藩政期・天保年間に編纂された『大洲秘録』に村の産物として名前が挙げられており、さらに明治43年に出版された『南山崎村郷土誌』には、山中に自生していたビワを「今より凡そ百年前、仝村に中村清蔵なる者あり、初めてこれを籠に入れ、郡中町に持ち行き、僅かなる金銭に換えて枇杷実の金銭となりしを不思議なる如く村人の語り伝えしと云う」とあることから、19世紀のはじめ頃から商品作物としての栽培が行われていると考えられます。

 そして、明治35年には村人の吉沢兼太郎氏が、中国大陸にルーツを持つ品種「田中びわ」を導入。これは在来品種の倍以上もある大果であり、たいへんな評判をよんだそうです。これをきっかけに、ランプや電灯の普及で需要が減少する一方のハゼノキ栽培は廃れ、初冬の森川沿いには枇杷の花が咲き誇るようになりました。

 バス終点の両沢は、そんな森川沿いの最上流、どん詰まりにあたる集落。ここでは至近から取れる砥石も有名ですが、ご多分に漏れず、ビワの木々も目立つところです。山の斜面にも、家の裏手にも、朽ちかけた木製バス標識の横にも、しっかりとビワの木が植えられています。

道路脇にも琵琶、そして後ろに聳える障子山 終点両沢付近である

 しかしながら、頼もしい唐川ビワとは異なり、モータリゼーションの波に洗われた唐川線はすっかり青色吐息のようです。本数はわずかに1日2往復。このようなバスの主なお客さんは通学生やお年寄りですが、ここでは同じ区間に自治体運行のスクールバスや無料の福祉バスが走っていることもあり、空気ばかりを運んでいます。なにより、伊予市内を走っていた路線バスは、ほとんどが既に廃止されているのです。

 「どうして今まで残っとるかがわからんよ。いつ消えるやわかりゃせんね。」
 また私だけを乗せ郡中へ戻る道中、山腹までびっしり植えられたビワの木々や、上唐川の立派な選果場を横目に、ロートル車のハンドルを握る運転士はポツリと呟きました。

■伊予鉄道唐川線の歩みと唐川線のこれから
 注)鍵括弧書き路線名は免許上の路線名、それ以外の路線名は営業上の路線名を示します。

***開業から全通まで***

昭和52年路線図表より関係箇所抜粋

うち郡中栄町経由は後に廃止されている
また延伸構想があった外山も確認できる
(クリックで拡大)
 残念ながら唐川線の運行がはじまった時期は定かではありません。
 伊予鉄道が三共自動車を吸収合併する際に受けた免許(全て合併日である昭和18年12月23日免許)のなかに、伊予郡南山崎村大字大平甲1098と同村大字下唐川甲92の1を結ぶ「唐川線」2.7キロが存在していることから、少なくとも三共自動車時代までには開設されていた路線なのは確かなのですが、三共関連の資料は多くが戦災で焼失しており、伊予鉄道側でも運行開始の時期はわからないそうです。伊予市誌などの沿線郷土誌にも、バス関係者の回顧録にも記述は見当たらず、見当もつきません。

 ただ、伊予鉄道に引き継がれた時点で運休していたことは間違いなく、その再開は昭和24年11月18日まで持ち越されることになります。 再開にあたって、伊予鉄道は免許区間の延長を申請しています。「唐川線」の終点下唐川停留所から南山崎村大字下唐川字豊岡333の第2に設けた豊岡停留所までを「下唐川線」1.5キロとして延長し、これに既存「内子線」の一部を合わせたのが新生・唐川線で、郡中と豊岡を結ぶ9.9キロの路線でした。なお、後の路線図表では豊岡停留所の記載が見当たりませんが、距離や住所、その後の変遷史から推察するに、現在の唐川停留所そのもの、もしくは至近にあった停留所だと思われます。

 運行回数は平日休日問わず1日6回(3往復)、運賃は郡中から上唐川までで25円、豊岡までで30円。主たる使用車両は既存の18人乗り昭和12年式フォードとかなりの古参車で、木炭発生炉付の代燃車。年式からおそらく他事業者でも広く使われたV-8型だと思われます。所属営業所は24年10月10日に開設されたばかりの松山営業所(榎町営業所から移転、現在伊予鉄本社がある場所)でした。また、佐礼谷線の項でも記述しましたが、この代燃車は翌々年頃までには置き換えられていると考えられます。

 唐川線が現在の形になったのは、 昭和37年7月16日のことです。免許路線名は不明ながら、唐川から現在の終点である両沢停留所までの2.0キロの間が、同年7月7日に延伸免許されています。この改正では松山までの直通便が設定されており、これは昭和35年4月の時点では存在しないことから、おそらくこの時にはじめて設定されたものだと思われます。なお、同改正での1日あたり運行回数は平日休日問わず郡中・両沢間が1.5回、松山・両沢間が2回、唐川・郡中間が0.5回となっています。

両沢延伸と外山延伸構想を伝える広報「いよてつ」通巻66号

   ちなみに、当時の社内報をみると、さらなる延伸構想についての記述があり興味を惹かれます。両沢から鵜崎峠経由で外山(砥部からの路線があった)へ至るというもので、延伸のあかつきには大平砥部線として砥部まで直通させることが考えられていたようです。もちろん、この構想は実現していません。


***全通以後***
 佐礼谷線と同様、これ以降はわかる範囲でのみ記述します。
昭和58年10月16日改正の関係時刻表
まだ松山バスターミナル直通便がみられる

 【昭和58年10月16日改正】時刻表によると、郡中・両沢4回(うち0.5回は日祝および学校休暇中運休)、松山・両沢5回と昭和37年当時と比較して増便がされていることに加え、一部便(全線計9回中の4回)が稲荷神社前・伊予市庁前間において、港南中学校前すなわち国道56号線を経由する現在の経路に改められています。ちなみに、58年改正時点でこの区間を走るのは唐川線の一部便に限られていることと、【昭和52年】時点での運行路線図表に同区間が記載されていることを併せて考えると、52年時点では既に港南中学校前を経由する便が設定されていたと考えることができるかもしれません。

  唐川線の最盛期はこの頃であったと考えられ、昭和60年11月15日現在の運行回数一覧によると、58年時刻表の直後である【昭和59年3月6日認可】で減便が行われています。この時点での回数は、 郡中・両沢1.5回、松山・両沢2.5回となっており、松山行きのうち1.5回が港南中学校を経由しています。

 続いて確認がとれるのは、【平成2年12月25日改正】時刻表においてです。港南中を経由しない便がさらに減便されたことに加え、日曜祝日の全便運休化、松山直達便の全廃が行われており、現在のダイヤに近づいています。回数は4回(2往復)のみとなり、午後に両沢を出る0.5回を除いて全て港南中経由という、スクールバス然としたダイヤになりました。

 また、【平成6年10月16日改正】より、運行会社が伊予鉄南予バスへと移管されています。同社は平成元年8月8日に、主に南予地方のローカル線を担う目的で設立された伊予鉄道の地域子会社です。唐川線は松山バスターミナルへの乗り入れが廃されていたこともあり、中予地方で完結する路線ながら路線移譲の対象となったのです。これにより同路線の担当営業所は伊予鉄道自動車部松山営業所(注:1)から、伊予鉄南予バス内子営業所へと変わることとなりました。

平成21年11月1日改正の時刻表
平日のみ2往復 全て港南中学経由である
  このダイヤは全く変わることなく20年近くに渡って維持されますが、南予バスの全社的な路線再編が行われた【平成21年11月1日改正】で担当営業所が大洲営業所に変わるとともに、現行ダイヤへと修正が加えられています。
 その内容は、ついに全便が港南中学校前を経由するようになり、元来の稲荷神社前・栄町・郡中経由便が全廃されたことと、学校の週休2日制化を受けて新たに土曜日が運休日に加えられたことです。運行日の運行本数に変化はありません。
 



  現行ダイヤで特筆されることは、近年では珍しい夜間滞泊が残されていることです。集会所を間借りした宿泊所が現在でも使われています。ただし、翌日が運休日となる金曜日や祝前日は、回送車となり営業所まで戻っています。そして、同じく、休み明けの早朝に回送車として送り込まれてくるのです。

 終わりに、唐川線を取り巻く現状について、少し補足をしておきます。最後となる平成21年の改正から、はや6年が経過しようとしていますが、この間に伊予市では公共交通体系の見直しをすすめており、デマンドタクシーや福祉バスの積極的な導入と引き換えに、多くの一般路線バス(4条バス)を廃止してきました。実にこの唐川線と、同線への送り込みを兼ねているであろう長浜線(長浜・郡中間)は、伊予市内では都市間連絡路線を除くと最後に残った一般路線バスなのです。

 ですが、運転士が嘆いていたとおり、唐川線は無駄が多い路線です。現在ほぼ全線にわたって同一の経路を取る無償福祉バス(利用は60歳以上に限られる)が月曜日と木曜日に4往復ずつ、平日には大平地区にある南山崎小学校までのスクールバスが1.5往復走っており、唐川線は港南中学校生徒(定期代は市が全額補助)を主として、どちらの対象にもならない限られた人々だけの公共交通手段と化していたのです。

 このような各種バスが併存してきた理由には諸説ありますが、ひとつには長らくスクールバスの一般有償利用(一般混乗)を行うと、運行経費そのものが普通地方交付税の対象外とされてきたためだと考えられます。国庫補助を考えた場合、唐川線を廃止にすると、比較的運行距離の長い港南中学校スクールバス(注:2)に加え、福祉バスの対象拡大やデマンドタクシーの導入が必要ですから、結果として高コスト体質は変わらない、というものです。

 しかしながら、平成24年5月の総務省通達により、スクールバス一般混乗も普通交付税の対象とされることになりました。行政側も問題は認識していましたので、伊予市はこの通達をひとつのきっかけとして、唐川線の見直しに踏み込んだ「伊予市地域公共交通計画」を平成26年9月に策定しています。
 ここでは、さっそく平成26年度中に4条バスを見直すこと、27年度に旧伊予市域においてコミュニティバスを実証運行すること、28年度にスクールバスの一般混乗を目指すこと、が明言されていますから、一般路線バスとしての唐川線はいよいよ廃止される時が近づいてきたようです。

 唐川線と長浜線に対する伊予市の運行経費補助金は年間1300万円(24年度)。馴染みのオレンジ色のバスに乗って本場のビワを買いに行くことができなくなるのは寂しい気もしますが、空気ばかりを運ぶにしては、あまりに高すぎる対価であるとも思うのです。

終点・両沢 いつまで伊予鉄バスがやってくるのだろうか
なお写真右端に見える焼杉の家が運転士宿泊所である
注1:現在の松山斎院営業所。松山室町営業所は平成4年の設置です。ただし車庫自体は既に室町にあり、唐川線車両は室町駐車場に常置されていました。
注2:仮に設定すると、伊予市内では双海中学校スクールバスに次ぐ長さになります。ただ、双海中スクールは利用者も多く、かつ中学校単独なので1往復で済んでおり、便あたり利用者数では市内時点の南鵜崎小スクールと比して倍以上の開きがあります。単純比較は難しそうです。

(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/平成24年8月投稿記事を加筆改稿いたしました。)

2015/06/03修正/南予バスへの移管時期ならびに所管営業所に誤りがありました。

2015年1月1日木曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/佐礼谷線

■終点:佐礼谷(されだに) ※平成23年10月廃止

 県都松山より国道56号線を南西へおよそ30キロのところに伊予市中山町があります。平成の大合併より前には伊予郡の最南端、中予と南予の境目のまち、中山町でありました。

内子側から旧中山町を一望する 奥に立ちはだかるのが犬寄峠
(佐礼谷線ではなく永木線)

  中山町には松山から南予に至る第一の関門、犬寄峠があります。かつては辺りに山犬が多いことから単に「犬吉峠」と呼ばれていましたが、たびたび旅人が襲われたため、いつしか犬寄峠と呼ぶようになったと伝えられています。人よりも犬が偉い、文字通りの「獣道」だったのでしょう。事実、曲がりくねった悪路で、昭和の時代になっても狭いところでは幅2メートルあるかないかという、ずいぶんな難所であったそうです。この汚名が返上されるのは、戦後も下って昭和45年のこと。犬寄峠下を貫く犬寄トンネルの開通を待たねばなりません。

 さて、近世初期まで、中山は大洲藩6万石の領下にある一山村にすぎませんでした。肱川の支流中山川上流の山間盆地で、旅する人たちが犬寄峠の往来の折、一杯の番茶にのどの渇きをいやす茶屋、はたまた木賃宿があるかないかといった程度の村落でありました。しかし、幕藩体制の整備と、それに続く商工業の発展は、村落から宿場町へとその顔を変えていくのです。

旧大洲街道に沿って



 街道の整備が進められるに従って、中山を核として大いに発展する街道筋のなかでも、ひときわ繁栄を享受した集落が、犬寄峠の嶮を間近に控えた佐礼谷です。たとえば、佐礼谷の庄屋・和田家に伝わる『伊予郡南神崎村庄屋記録』によると、寛政元年4月には幕府の諸国巡見使が佐礼谷で休んだことが伝えられていま す。ほかにも大洲藩の参勤交代の中継地に選ばれたことや、そうでなくても犬寄峠が難所であるゆえに、多くの旅人が佐礼谷で羽を休めていったのです。

 歴史などおかまいなしと犬寄トンネルで町を貫く国道から分かれ、旧街道筋を目指す佐礼谷へのバス路線には今も犬寄峠の往時が残っています。佐礼谷終点へは国道から7キロの道のりです。

終点 佐礼谷

 バス通りの家並みにはその様子がうかがえます。白塗りの洋館がかつての郵便局跡であったり、長屋門を構える立派な農家の横を走り抜けたり。和洋折衷の「ハイカラ」な住宅が目立つのも、宿場の繁栄が近世に続いていたからこそに他なりません。

 街道が運んできたものは、人だけではありません。必ず文化がもたらされます。車窓に目立つ「ハイカラ」洋館もそのひとつだと言えましょうが、佐礼谷に持ち込まれ根付いた文化というと、俳句を外しては語ることができないでしょう。

後ろの洋館が旧佐礼谷郵便局 昭和2年築

 「里やあるけふり横たふ秋のくれ」

 佐礼谷を好み享和年間に当地で閑居した大洲藩士・田辺文里が詠んだ一句です。山間の小さくも栄えた佐礼谷の様子が浮かんでくるようです。田辺は芭蕉の研究者としても名高く、彼が寺子屋を開くことにより、中山には一気に蕉風が広がりました。

 この俳句文化は明治維新やその後の戦争など幾多の苦難にも負けず、いまでも「佐礼谷むささび俳句会」「中山町俳句会」ほか複数の俳句会が中心となり受け継がれています。

 「住みなれし山里の空燕去る」
  中山町俳句会員の谷口米子[1]さんが平成8年に詠まれた近句です。

 ご多分にもれず、ゆるやかに過疎の波に洗われている佐礼谷ですが、確かに街道の記憶は集落の文化として現代まで受け伝えられています。私が燕の帰ってくる春へ期待をかけるのは、街角の端々から気品を感じる佐礼谷にすっかり魅せられてしまったからに他なりません。


[1]中山町誌(中山町史編さん委員会、平成8年1月31日発行)から引用しました。問題があるようでしたら書き換えます。

■伊予鉄道佐礼谷線・竹之内線の歩み -附 伊予鉄道内子線ことはじめ-
**発展史**
 ながらく鉄道とは縁遠い地域であった中山において、交通機関といえば昔は人力車でした。人力車が世に出たのは明治初期のことで、中山には明治末期に10台の車があったと伝えられています。その前後して乗合馬車が登場しました。内子町の徳岡文四郎氏がはじめた内子・中山・郡中を結ぶ馬車は、6人乗りでその当時の料金が中山から郡中まで32銭だったといいます。

 この徳岡氏は先見の明がある人物で、自動車が時代の趨勢であると見るや、大正12年に内子自動車株式会社を設立、すぐに馬車を廃しバスに転業しています。こうして中山の地に内子・中山・松山を結ぶバスが走り始めることになりました。

 さて、この頃の乗合自動車と切っても切り離せない話といえば、やはり同業他社との過当競争です。内子自動車の沿線でも、中央自動車、愛媛自動車、大洲自動車の各社がしのぎを削って争うありさまで、全くの乱戦状態でした。そのため自主的統合の機運が生まれ、近隣の中央自動車(松山)と愛媛自動車(松山)が主導した共同経営組合である「三社共同自動車組合」が昭和4年に発足するとこれに加入しています。

 この組合各社は昭和8年5月に合併、「三共自動車」へと発展的解消を果たし、同時に内子・中山・松山線も三共自動車の運行に変わります。ここまでのダイヤ、運賃、車両等は全て不明ながら、三共移管後の昭和10年にはフォード8人乗りが1日2往復していたという記録が残っています。

 そのほか三共自動車当時の主な動きとしては、発足と同時に国有鉄道との連帯運輸を開始したことと、昭和11年5月より郵便物の併送を開始したことが挙げられます。また時局柄、代燃化が推められたことも記しておかねばならないでしょう。同社では昭和15年12月から代燃化改造が始められており、休車等一部を除いて18年までには改造が完了していることから、中山方面線でもこのあいだに代燃車へと置き換えられたものだと考えられます。

 そして、いよいよ敗色が濃くなってきた頃、またしても路線の運行会社が変わることになります。次なる運行会社は現在まで続く伊予鉄道です。同社は鉄軌道事業の補強策としてかねてより発行済株式の6割を握るなど三共の経営に参画していたのですが、そこに陸上交通事業調整法の施行(注:ただし伊予鉄道は同法の対象とはされていない)などに由来する交通事業者の統合機運も相まって、昭和18年12月23日付で吸収合併することとなったのです。

 この合併に際しては、戦時下ということもあり、不要不急路線の運行休止が数多く行われています。三共は53の免許路線を持っていたのですが、既に休止していた22路線のみならず、あらためて不要だと判断された路線についても休止され、伊予鉄道に運行が引き継がれたのはわずか16路線のみでした。

 内子線は代替交通機関が一切ないということもあり、流石に存続はしていますが、非力な代燃車のうえ、木炭の配給ですら事欠く世情を考えると、とうてい満足のいく運行が行われたとは思えません。このように首の皮一枚でなんとか終戦を迎えることになるのです。

 戦後の本格復興は昭和22年からはじまります。6月の石油配給公団設立によりガソリンの供給が徐々に安定化されていったことなどが理由です。同年には新車の割り当ても復活しており、昭和24年1月には戦後復興期の象徴とも言えるトレーラーバスが松山市内にお目見えしています。路線の面では、まず松山市内を中心として休止路線が順次復旧し、続いて地方の休止路線復活、そして純粋な新路線の開設(昭和24年に10路線、25年に14路線)と目覚ましい復旧・発展を遂げることになるのです。

内子管内路線図
トンネル建設に伴う切替で
開業当時とは一部異なる
  このようななか昭和26年に開設された12の新路線のうちのひとつとして、内子線の支線的性格を持つ佐礼谷線が3月2日に運行をはじめています。同線が免許されたのは2月2日。既存内子線の伊予郡上灘町丙1226番地から、同郡佐礼谷村乙132までの、5.0キロの区間です。開業時のダイヤは佐礼谷を7時半に出て郡中に8時着、郡中を17時半に出て佐礼谷に18時に戻ってくる1往復きりのダイヤで、運賃は全行路で大人38円でした。延伸に伴う新設停留所は、仁生から佐礼谷までの5箇所、加えて佐礼谷に車庫が設置されています。

 当時の運輸省文書によると、開業にあたり常用とされた車両は既所有の昭和23年式ニッサン「2B50」形式で、総定員は35人、ガソリンエンジン車ながら木炭発生炉つき、ということですが、該当する形式が思い当たりません。年式と燃料種別が正しいとすると、戦時型トラックシャーシを利用したニッサン(日産重工業→日産自動車)180型ないし190型だと思われますが定かではありません。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。なお、佐礼谷へ木炭車が入ったのは僅かな期間だと思われます。佐礼谷線が開業した翌月に石油行政権がGHQから日本政府へとを委譲されているのですが、これに石油事情のさらなる好転などが相まり、それまで禁止されていた代燃車からガソリン車への転換・復原が一転して推奨されるようになったのです。

社内報より竹之内線開業記事
  ともかく、このような形で佐礼谷にバスが乗り入れてきました。これにより松山方面へのアクセスは劇的に改善されましたが、佐礼谷は中山町に属していますから役場のある中山方面への直達便が次に求められるようになりました。そんな要望を受けて昭和32年4月1日から、佐礼谷方面に新たな路線が拓かれたのです。

 既存佐礼谷線の途中、佐礼谷局前停留所から、中山に近い内子線長沢までをショートカットする新たな経路を設け、松山と中山・内子方面を結ぶ便を佐礼谷局前経由へ変更するというものです。この運行に先立ち、昭和32年3月22日、中山町佐礼谷丙1070の1から中山町子448の1まで、2.1キロの間が竹之内線として免許されています。

 この変更により、佐礼谷線開業当初に設定された郡中・佐礼谷間の便と合わせて、内子発7時、13時10分、16時20分の松山行き、松山発6時半の鹿野川行きおよび13時、19時半発の内子行きが佐礼谷集落(佐礼谷停留所には入らない)を経由するように改められました。結果、実に本数にして4倍、松山側・中山側双方の滞在時間も大幅に長くなるという、たいへん利便的なダイヤとなったのです。

**衰退史**
 以降については、断片的な資料しかありませんので、わかる範囲でのみ記述します。

 まず、佐礼谷・郡中線(昭和26年開業区間)の松山市駅延伸時期についてです。
 佐礼谷線運行開始から県バス協会年報で確認できる昭和38年までの間において、全便郡中までであったものがいつの間にか0.5往復を残して松山市駅まで延伸されています。【昭和58年10月16日改正】時刻表をみても、佐礼谷方面行きは郡中始発11時半と松山市駅17時半、松山方面行きは2便とも市駅行きで7時15分発と12時7分発となっており、おそらく昭和38年以降、大規模な時刻改正は行われていないものと思われます。
 そんなわけで、市駅乗り入れの時期については、竹之内線が運行をはじめた昭和32年改正が最も自然だと考えております。

 そして、佐礼谷・郡中・松山市駅直通便の廃止時期ですが、伊予鉄道百年史で確認することが出来る【昭和60年11月15日現在】の運行回数表では、毎日1往復の運行を確認することができるものの、【平成2年12月25日】改正時刻表では全く確認できません。
 よって、 昭和58年から60年にかけて1往復化、そののち平成2年までに佐礼谷局前・佐礼谷間の路線もろとも廃止されたと考えられます。

 最後に、竹之内線開通に合わせて設定された佐礼谷局前経由便についてです。
 【平成2年12月25日改正】時刻表によると、上りが五十崎始発の松山市駅行きと内子始発の佐礼谷局前行き、下りが佐礼谷局前始発の中山行きと同じく佐礼谷局前始発の内子行き、そして松山市駅発の五十崎行きの、上り2本下り3本の2.5往復が設定されています。
 【平成5年10月16日改正】では、松山市駅乗り入れは上りのみの0.5往復に、全体でも2往復になっています。
 【平成6年3月16日改正】では、松山市駅乗り入れが廃止され、1.5往復に。更に朝の佐礼谷局前始発、夜の佐礼谷局前終着がともになくなっているので、夜間滞泊が存在していたとすると、この改正で廃止された可能性が高そうです。
 次に大きな変化が見られるのは、【平成9年4月1日改正】の時刻表で、ダイヤは基本的に変わらないものの、佐礼谷局前・佐礼谷間が久しぶりに復活しています。以前、運転士さんに伺ったところによると、通学生の利便を図って延伸したとのことでした。(追記:1)
 【平成11年9月8日改正】も、1.5往復の基本ダイヤは変わらないものの、更に通学生の利便を図って、下校便に冬ダイヤと夏ダイヤが設定されています。
 しかし、既述の通り【平成23年10月改正】で全便廃止となっています。それにしても、最後は12年以上に渡ってダイヤが全く変わっていなかったのですね。

佐礼谷線免許 これで待ちに待ったバスがくる
**佐礼谷線のその後**
 伊予市では、平成21年2月より、過疎地域住民を対象とした公共交通機関に関するアンケート調査の実施や、佐礼谷地区を含む当時の路線バス運行地域における意見交換会の開催を通して、新たな公共交通システムの導入に向けて検討を行ってきました。
 その結果、市営過疎バス(廃止代替バス)を含む路線バスの大幅な削減と、デマンド型乗合タクシーの導入が決まり、平成23年9月15日から月末まで行われた試験運行を経て、10月より路線バス廃止と引き換えに本格導入が行われました。
 したがって、佐礼谷線の沿線には、代替バス等も全く走っていません。

 デマンド型乗合タクシーは事前登録が必須であることなど、旅行者には冷たい乗り物です。しかし、登録さえしてしまうと、乗車の1時間前までに電話予約をするだけで、ドアtoドアのサービスが300円均一という低廉な価格で受けられるのです。
 バスファンとして寂しく思う気持ちはありますが、地域の実情にマッチしている素晴らしいシステムであるとも思っています。

(追記:1) twitter @sland81 さんより、情報をいただきまして、佐礼谷までの運行が復活した【9年4月改正】は佐礼谷中の閉校と同じタイミングとのことです。ありがとうございます。

(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください)

2014年11月1日土曜日

【バス終点】伊予鉄道/松山空港線

■終点:湧ヶ淵(わきがふち)

 道後へ向かう入湯客を巡って伊予鉄道と松山電気軌道が熾烈な誘客合戦を繰り広げたことは、松山の歴史を知る者にとっておおよそ有名なことでしょう。道後行き電車が発車するたびに駅頭で客引きの鐘を鳴らしあったというエピソードは今でも語り継がれています。

 しかしながら、両社の争いが鉄道線路から遠く離れた地でも繰り広げられていたことは、あまり知られていないようです。

 いま松山の街を訪れてみると、かつて争いの象徴とされた道後行き電車の横を「湧ヶ淵」という行き先を掲げた松山空港線のローカルバスが走っています。おおよそ路線名には似合わない行き先ですが、それもそのはず。この路線の終点は、空港からまちなかを横断し、石手川の奥へとずいぶんと進んだ幽谷にあるのですから。
 そして、この終点の幽谷こそが、伊予鉄と松電、もうひとつの争いの舞台。明治の終わり頃には水力発電をめぐる「エレキ戦争」が、ここ湧ヶ淵で繰り広げられていたのです。

道路の向こうに石手川が流れる 伊予水力の発電所は対岸にあった

 この地にはじめて発電所を設けられたのは明治36年のことで、伊予鉄道と資本的なつながりがあった伊予水力発電会社の手によるものでした。急峻な石手川の流れを利用した四国でもはじめての水力発電所で、この完成により松山平野に電灯が灯されたのです。

 戦いの火蓋が切って落とされるのは、その8年後となる明治44年。湧ヶ淵のすぐ下流に松山電気軌道会社がダムを造り、大規模な発電所を建設したのです。三津浜と松山を結ぶ新しい電車軌道の開業にあたって不可欠なものでした。
 この発電所は先にできた伊予水力のものよりはるかに大きなスケールだったそうで、自社路線と競合する鉄道が敷設されることに反対する伊予鉄の思惑も相まり、ダム建設や送水管敷設にあたっては伊予水力側があの手この手で嫌がらせにでたそうです。

 もちろん、松山電軌も負けずといがみ合い、ふたつの電力・鉄道会社がさながら産業スパイ合戦を演じることになります。やれ「あの請負人は伊予水力のまわし者じゃ」「あの人夫がセメントの横流しをしとる」などと、地元民まで巻き込んで平和な幽谷は大騒動。ついには裁判沙汰にまで発展し、発電所や鉄道の完成後も長く対立が続いたといいます。

 この騒動がようやく収まり、湧ヶ淵に静けさが戻ってきたのは、伊予水力も松山電軌も全て伊予鉄道に合併(合併後、伊予鉄道電気へ社名変更)された大正10年のこと。この地にはじめてバスが乗り入れる3年前の出来事でありました。

 爾来1世紀、湧ヶ淵は静かな場所であり続けています。石手川の滔々とした流れだけが明治の頃へと思いを馳せさせてくれますが、折返しを待つ間、しばしの休憩をとる空港線のローカルバスには知る由もないことです。

湧ヶ淵から少し下ると旧国鉄の郵便気動車を転用したレストランも オススメです
■伊予鉄道松山空港線沿革(但し、路線東部の松山駅前・湧ヶ淵間に限る)
 松山空港線の歴史は、大正13年6月に道後在住の個人(山崎朝勝氏)によって、道後自動車と称するバスの運行が松山・道後・宿野々間で行われたことにまで遡ることができます。これはどちらかというと、現在、松山市駅と米野々を結んでいる河中線の原型に近いものですが、ここ湧ヶ淵や湯山の地にバスが乗り入れたのは、この時がはじめてです。

 この河中方面線の運行母体は中予地方の多くのバス路線と同様、三共自動車を経て第二次大戦末期の昭和19年には伊予鉄道の手に移りますが、その後まもなく休止されたようで、運行が再開されるのは戦後混乱期を脱しつつある昭和24年まで待たねばなりませんでした。そして再開時、湯山方面への路線は、松山市駅を起点に新立から石手川の土手に沿って湯山や河中に至る河中線と、旧来の経路通り道後を起点に石手に至る石手線の2路線2系統に分離・拡充されています。

 このうちの石手線は、時期不詳ながら松山市駅・道後間および石手・湯之元間を延伸し湯之元線へと改称。そののち松山駅への乗り入れをはさんで、昭和39年12月にはさらに湧ヶ淵まで延伸されたうえ、奥道後線と再改称されています。これは、湧ヶ淵の近隣に「奥道後温泉観光ホテル」 という一大レジャーホテルが開業したことに伴うものでした。ここに松山駅・松山市駅・石手寺前・湧ヶ淵(なお、道後温泉駅前に関しては、奥道後方面行きのみ停車)を結ぶ、現松山空港線の直接の原型とも言える路線が生まれるのです。なお、このときはじめて湧ヶ淵に折り返し場が設けられました。

 奥道後線運行開始後の大きな動きとしては、昭和61年の湯の山ニュータウン入居に伴う乗り入れ開始(同時に上下便とも道後温泉駅前への停車を開始)および区間便の設定と、平成2年12月の路線再編が挙げられます。特に後者は、それまで松山空港・道後温泉駅前を結んでいた(旧)松山空港線と統合する大改変で、これ以降、松山空港から湧ヶ淵までロングランする(新)松山空港線として、路線名と運行区間を変えて現在に至っています。

空港連絡や観光輸送と並んで、ニュータウン路線としての顔も持つ

一番町付近経路図(クリックで拡大)

 最後に当路線(東側区間)で特筆される特徴をふたつ紹介して
おきましょう。
 まずひとつめは、郊外バスながら市内バス専用の一番町停留所に停車することです。これはロープウェイ街を経由する湯山方面行きの便に限ったことで、大街道停留所に停車できない代替措置です。都心ならではの特例で、市内バス用の停留所に郊外バスが停車する唯一の事例です。路線上には他にも市内バス専用の義安寺前停留所がありますが、もちろんこちらは通過しています。
 ふたつめは、お客さんを乗せたままターンテーブルを利用することです。袋小路となっている道後温泉駅前バスターミナルの奥には転回用のターンテーブルがあり、道後温泉駅前発着便はこれを必ず利用することになります。殆どの一般路線は道後温泉駅前を起終点としていますが、松山空港線に限っては経路途中となるため、このようなことが起こるのです。たいへん珍しい光景です。

■四国電力湯山発電所
 「エレキ戦争」の舞台となったこれらの発電所は、戦争の時代を経て、全て四国電力へと引き継がれました。現在でも昭和32年に統合のうえ全面改築された湯山発電所(正確には全て廃止のうえ、直後に新設)が稼働しており、最大で3400kWhの電力を生み出し続けています。
 近隣の西条火力発電所(計406,000kW)や伊方原子力発電所(計2,022,000kW)と比べると極小規模とはいえ、伊予水力の発電所は260kW、「大規模」とされた松山電軌のものでも537kWであったことを思うと、隔世の感がありますね。
 その変遷を以下にまとめました。(クリックで拡大)


 なお、現在の湯山発電所は、旧第二、第三発電所の敷地内に建っています。

 (誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください/松山空港線の西半分(道後温泉・松山空港間/旧松山空港線区間)および河中線に関しては、稿を改めて紹介します。 )
※奥道後・空港両線の統合時期に誤りがあり、訂正いたしました。ご教示くださりありがとうございました。