2019年8月18日日曜日

安居島について

概要

松山市に属する有人離島である。平成の大合併以前は北条市に属した。伊予北条駅にほど近い北条港から北北西に13.5キロの距離にあり、瀬戸内海西部・斎灘(いつきなだ)のほぼ中央部に位置する。他の島とは離れているが、属島として無人の小安居島を有する。

地理

東西1.3キロ、南北約0.2キロ、周囲3.5キロ。全体が低い丘であり、最も高い地点でも標高55メートルである。集落以外はほとんど雑木林で、水田はなく、果樹園もほとんどない。
小字は8つあり、北端より西まわりに、明神(みょうじん)、生洲(いけす)、汐出(しおで)、小浦(おうら)、湊(みなと)、安居殿谷(あいだに)、蛭子(えびす)、長谷(ながたに)の順に並ぶ。

歴史

周辺の島々で見られる弥生期の高地性集落跡や、臨海性遺跡は見つかっていないが、少なくとも律令国家体制が形成され、かつ、官米の舟運による輸送が公認された8世紀中頃には荒天時の緊急避難場所として利用されていたようで、延喜式において規定されている海路上にある「藍島」は本島を指すと思われる。

その後も周辺各村の肥草刈場や漁師の緊急避難場所として利用されてきたが、現在へ連なる定住の歴史は浅く、文化年間まで時代は下る。瀬戸内海の無人島は入会権を巡る争いが珍しくなかったが、特に本島は斎灘のほぼ中央に位置したことから、幕藩体制成立後も長らく松山藩、大洲藩、広島藩の何れに属するかが明確ではなく、入植が困難であったためである。

この決着がついたのは文化13年(1816年)で、風早郡代官であった広橋大助の尽力により、風早郡難波村の草刈場として松山藩領有地と確定した。これを受け、同年より藩命により開拓に着手され、翌14年に浅海村の庄屋の子であった大内金左衛門が初めての島民として移住、続いて本村の難波村より逐次渡島し、漁業を中心に開発が進められた。

それまで「藍島」「相島」などと表記した島名は、このころ安居島となった。一説によると松山藩領となり安じて居をなすようになったためであるとされる。天保2年(1832年)には難波村より分村し、「安居島」村となっている。

弘化年間、字湊に防波堤が築造されると、帆船の風待ち・潮待ち港として発展し、安政年間には遊郭も置かれた。この安居島遊郭は道後松ヶ枝町に次ぐ規模で、明治中期には遊女の数は80人に上ったという。ただし、これは妓楼が立ち並ぶ郭ではなく、いわゆる「おちょろ船」が中心の、風待ち港に見られる独特の形態であり、遊女はその他島民に混ざって日常生活を送っていた。(同様の遊郭は大崎下島の御手洗が有名である。)

順調な発展とともに、人口も増加した。嘉永6年(1853年)には26戸、明治5年には29戸171人、明治6年には32戸204人となり、町村制が施行され北条村の大字となった明治22年には約120戸500人を数えるに至る。

凡そこの頃が安居島の最盛期で、年間およそ3,500艘の船が出入りし、漁業と併せて活況を呈した。しかし、船舶が大型化、動力化するにつれ、風待ち港としての役割が失われていき、島は急激に衰退の一途をたどり始めた。昭和戦前期に最後の遊女がいなくなり、赤線指定されることなく消滅した安居島遊郭は、その象徴と言える。

瀬戸内海の一寒村になった安居島に残された島民は、漁業振興を図ろうと明治36年に安居島漁業組合を、さらに明治38年には安居島遠海漁業組合を設立し、斎灘の中央という地の利を活かした生き残り策を取る。また、最盛期の蓄えを元に一杯船主となったものも多く、漁業と運送業が大正以降の島の産業となった。

とはいえ、過疎化の流れに抗うことはできず、第二次大戦中に海軍の対空陣地が築かれたことや、戦後の外地からの引揚げ及び疎開で一時的に人口が増加したこと等を除くと、人口は減少を続けることになる。

過疎化対策として、昭和32年8月に離島振興対策実施地域の指定を受け、漁港の整備を中軸に、護岸の改修、海底ケーブルによる一般受電、航路補助による定期船の就航など、様々な施策が打たれたが、高度成長以降の本土との生活格差は広がるばかりで、流出に歯止めをかけることはできなかった。

先述した引揚げの影響で、人口のピークこそ昭和30年の532人だが、昭和57年には61人と30年間で9割減となり、平成30年時点ではわずかに10人を残すのみとなっている。高齢化率は80%に達し、今日の安居島は年金によって支えられている限界集落の一つといえる。

交通・インフラ

安居島における交通及びインフラの整備状況は次のとおりである。

・定期航路
有限会社新喜峰により、北条港と安居島港を結ぶ定期客船が1日1往復(夏季は2往復)運航されている。現在用いられている船舶は、平成11年に進水した「あいほく」で、総トン数57t、旅客定員68名である。
定期航路が開設されたのは昭和37年度で、離島振興法に基づく航路助成(県単独事業)による。それまでは、郵便船や漁船等に便乗するか、時間を定めない渡海船を利用する必要があった。

・教育施設
小学校及び高校が存在したが、何れも現存しない。

安居島小学校は明治8年に北条小学校の分教場として開設され、明治19年には小学校令に基づく安居島簡易小学校(3年制)となった。校舎は民家を使用していた。明治25年には北条小学校より独立し、正規の安居島尋常小学校になる。明治41年に義務教育延長(6年制)を受けて天満神社西側へ校舎を新築移転する。その後、昭和14年の高等科設置、昭和16年の国民学校への改称、昭和22年の新制移行、昭和36年の校舎改築、昭和47年の休校を経て、昭和58年に閉校した。
分教場設置時の児童数は不明、尋常小学校設置時の児童数は41名で、最も児童数が多かったのは高等科設置前では昭和3年と同9年の80名、設置後では昭和18年の105名、新制移行後では昭和29年の89名である。休校時の児童数は6名。

安居島中学校は、学制改革により小学校高等科が廃止された昭和22年に、安居島小学校内に併置する形で開設された。昭和24年に小学校敷地内に単独の校舎を新築し、昭和36年には小学校東隣に新築移転している。昭和40年には北温中学校と統合し、北条北中学校安居島分教場となるが、昭和41年より四国本土の北条新開に開設した寄宿舎からの通学とすることになり、同年閉鎖された。

・電気及び上水道
四国電力及び松山市水道局により供給されている。

電気
時期は不詳ながら、少なくとも昭和初期には自家発電により電気を使用していたようである。離島振興法による国の補助事業として、昭和35年には全島統一の自家発電施設が設置され、更に昭和45年には四国本土からの海底ケーブルにより四国電力からの供給が開始された。

上水道
長らく島内に4箇所あった塩分を含まない共同井戸から飲料水を取水し、炊事洗濯は塩分を含む個人井戸を使用していたが、こちらも補助事業として平成6年に飲料水供給施設が完成し、平成7年より四国本土から定期船で運搬する形で、北条市水道局による上水の供給が開始された。合併により供給元は松山市水道局となる。

郵便及び電話
島内の郵便局は長期閉鎖中(事実上廃止)である。電話は西日本電信電話により供給されているが、詳細は調査中。

郵便局
昭和28年に安居島郵便局として開設された。平成10年に閉鎖の上、同年に安居島簡易郵便局として簡易化され再開したが、平成25年より長期閉鎖中である。

名所・旧跡

安居島港防波堤
大内金左衛門碑
天満神社
安居島灯台
安居島海水浴場
遊女みどりの墓
海軍特設見張所跡

以下時間がないのでメモ

瀬戸内の島々の生活文化(愛媛県 平成3年)より
島でとれる農産物は芋・麦・野菜。芋麦飯におかずとして煮干しやひじきを付けるのが戦前の標準的な食事。定期船ができるまでは、広島県側との繋がりが強かった。病気になると上蒲刈の医者に通う。漁で取った魚も、いけすでしばらく活かし、中島から糸崎に向かうナマ船が寄港するときにまとめて運んでいた。渡海船も2隻あり、こちらを用いて北条に運ぶこともあった。大山祇神社にもよくお参りに行った。戦時中は軍の探照燈があったため、末期は毎日のように空襲があった。一度は船に直撃を受けて死者も出た。

安居島小学校百年誌?より
昭和19年3月19日 空襲のため休業
昭和20年7月24日~3日間 空襲のため休業
大正2年から3年 大人に対して夜学を実施
大正3年5月1日 「パッチン」遊びを禁じる 遊郭?
昭和41年 給食開始

北条市誌より
姫坂神社由来
昔、京都の由緒あるお姫様が、お家の事情で、海に流され、安居島の大岩の所に流れ着いた。姫は所持していたお金が、ぬれたので浜に乾かしていた所に、漁に来ていたよそ者の一味が、姫とお金の両方を奪おうとした。
姫は「お金は差し上げますからどうか命だけは助けてください」と懇願した。
しかし、悪者の一味は、それを聞き入れず命まで奪ってしまった。
姫は息が切れる前に「お前たちの子子孫孫まで呪いますぞよ」と言ったそうである。
その後、奪った金で千石船を造ったが、その船が行方不明になったり、家族に次々と死者が出たりして、とうとう家が絶えたという。
このお姫様の霊をなぐさめるために、島の中央に姫坂神社を建てたと言い伝えられている。

遊女みどり伝説
昔、安居島に遊郭があった頃の話じゃ。江戸時代の終り頃この島にいた遊女みどりは、たびたび通ってくる男と恋仲になったんじゃが、かなわぬ恋に嘆き悲しみ「小波止」から身を投げてしもうたんじゃ。すると、みどりの遺体は、島の東側の「ミズハ」という浜の岩の上に打ち寄せられたんよ。その後、誰いうともなしにこの岩を「みどり岩」と呼ぶようになったんよ。
明治時代になって、港を改修するために石工を雇い、この岩を割ったところ、石の中から「白蛇」が出てきて、その石工は病気になってしもたそうな。それからは、この岩に手を付ける者はいないんじゃ。みどりの墓は、島の西側の丘の上にある墓地に今でも残っとる。墓石には「天保二年六月二日」と刻んであるんよ。
(話 瀬戸丸清學)

伊予万歳「伊予風早名所づくし」
「…遥かに見ゆるは安居の島、オチョロ船にと身を任かす遊女みどりの恋物語…」

伊予国地理図誌(明治5年 石鉄県編纂)
安居嶋 第八小区下難波村ノ内
下難波村西北の海上に在り 海岸を距る壱里三十壱町十弐間 此島有限会社新喜

2019年2月13日水曜日

【終点メモ】2019年1月