2015年1月1日木曜日

【バス終点】伊予鉄南予バス/佐礼谷線

■終点:佐礼谷(されだに) ※平成23年10月廃止

 県都松山より国道56号線を南西へおよそ30キロのところに伊予市中山町があります。平成の大合併より前には伊予郡の最南端、中予と南予の境目のまち、中山町でありました。

内子側から旧中山町を一望する 奥に立ちはだかるのが犬寄峠
(佐礼谷線ではなく永木線)

  中山町には松山から南予に至る第一の関門、犬寄峠があります。かつては辺りに山犬が多いことから単に「犬吉峠」と呼ばれていましたが、たびたび旅人が襲われたため、いつしか犬寄峠と呼ぶようになったと伝えられています。人よりも犬が偉い、文字通りの「獣道」だったのでしょう。事実、曲がりくねった悪路で、昭和の時代になっても狭いところでは幅2メートルあるかないかという、ずいぶんな難所であったそうです。この汚名が返上されるのは、戦後も下って昭和45年のこと。犬寄峠下を貫く犬寄トンネルの開通を待たねばなりません。

 さて、近世初期まで、中山は大洲藩6万石の領下にある一山村にすぎませんでした。肱川の支流中山川上流の山間盆地で、旅する人たちが犬寄峠の往来の折、一杯の番茶にのどの渇きをいやす茶屋、はたまた木賃宿があるかないかといった程度の村落でありました。しかし、幕藩体制の整備と、それに続く商工業の発展は、村落から宿場町へとその顔を変えていくのです。

旧大洲街道に沿って



 街道の整備が進められるに従って、中山を核として大いに発展する街道筋のなかでも、ひときわ繁栄を享受した集落が、犬寄峠の嶮を間近に控えた佐礼谷です。たとえば、佐礼谷の庄屋・和田家に伝わる『伊予郡南神崎村庄屋記録』によると、寛政元年4月には幕府の諸国巡見使が佐礼谷で休んだことが伝えられていま す。ほかにも大洲藩の参勤交代の中継地に選ばれたことや、そうでなくても犬寄峠が難所であるゆえに、多くの旅人が佐礼谷で羽を休めていったのです。

 歴史などおかまいなしと犬寄トンネルで町を貫く国道から分かれ、旧街道筋を目指す佐礼谷へのバス路線には今も犬寄峠の往時が残っています。佐礼谷終点へは国道から7キロの道のりです。

終点 佐礼谷

 バス通りの家並みにはその様子がうかがえます。白塗りの洋館がかつての郵便局跡であったり、長屋門を構える立派な農家の横を走り抜けたり。和洋折衷の「ハイカラ」な住宅が目立つのも、宿場の繁栄が近世に続いていたからこそに他なりません。

 街道が運んできたものは、人だけではありません。必ず文化がもたらされます。車窓に目立つ「ハイカラ」洋館もそのひとつだと言えましょうが、佐礼谷に持ち込まれ根付いた文化というと、俳句を外しては語ることができないでしょう。

後ろの洋館が旧佐礼谷郵便局 昭和2年築

 「里やあるけふり横たふ秋のくれ」

 佐礼谷を好み享和年間に当地で閑居した大洲藩士・田辺文里が詠んだ一句です。山間の小さくも栄えた佐礼谷の様子が浮かんでくるようです。田辺は芭蕉の研究者としても名高く、彼が寺子屋を開くことにより、中山には一気に蕉風が広がりました。

 この俳句文化は明治維新やその後の戦争など幾多の苦難にも負けず、いまでも「佐礼谷むささび俳句会」「中山町俳句会」ほか複数の俳句会が中心となり受け継がれています。

 「住みなれし山里の空燕去る」
  中山町俳句会員の谷口米子[1]さんが平成8年に詠まれた近句です。

 ご多分にもれず、ゆるやかに過疎の波に洗われている佐礼谷ですが、確かに街道の記憶は集落の文化として現代まで受け伝えられています。私が燕の帰ってくる春へ期待をかけるのは、街角の端々から気品を感じる佐礼谷にすっかり魅せられてしまったからに他なりません。


[1]中山町誌(中山町史編さん委員会、平成8年1月31日発行)から引用しました。問題があるようでしたら書き換えます。

■伊予鉄道佐礼谷線・竹之内線の歩み -附 伊予鉄道内子線ことはじめ-
**発展史**
 ながらく鉄道とは縁遠い地域であった中山において、交通機関といえば昔は人力車でした。人力車が世に出たのは明治初期のことで、中山には明治末期に10台の車があったと伝えられています。その前後して乗合馬車が登場しました。内子町の徳岡文四郎氏がはじめた内子・中山・郡中を結ぶ馬車は、6人乗りでその当時の料金が中山から郡中まで32銭だったといいます。

 この徳岡氏は先見の明がある人物で、自動車が時代の趨勢であると見るや、大正12年に内子自動車株式会社を設立、すぐに馬車を廃しバスに転業しています。こうして中山の地に内子・中山・松山を結ぶバスが走り始めることになりました。

 さて、この頃の乗合自動車と切っても切り離せない話といえば、やはり同業他社との過当競争です。内子自動車の沿線でも、中央自動車、愛媛自動車、大洲自動車の各社がしのぎを削って争うありさまで、全くの乱戦状態でした。そのため自主的統合の機運が生まれ、近隣の中央自動車(松山)と愛媛自動車(松山)が主導した共同経営組合である「三社共同自動車組合」が昭和4年に発足するとこれに加入しています。

 この組合各社は昭和8年5月に合併、「三共自動車」へと発展的解消を果たし、同時に内子・中山・松山線も三共自動車の運行に変わります。ここまでのダイヤ、運賃、車両等は全て不明ながら、三共移管後の昭和10年にはフォード8人乗りが1日2往復していたという記録が残っています。

 そのほか三共自動車当時の主な動きとしては、発足と同時に国有鉄道との連帯運輸を開始したことと、昭和11年5月より郵便物の併送を開始したことが挙げられます。また時局柄、代燃化が推められたことも記しておかねばならないでしょう。同社では昭和15年12月から代燃化改造が始められており、休車等一部を除いて18年までには改造が完了していることから、中山方面線でもこのあいだに代燃車へと置き換えられたものだと考えられます。

 そして、いよいよ敗色が濃くなってきた頃、またしても路線の運行会社が変わることになります。次なる運行会社は現在まで続く伊予鉄道です。同社は鉄軌道事業の補強策としてかねてより発行済株式の6割を握るなど三共の経営に参画していたのですが、そこに陸上交通事業調整法の施行(注:ただし伊予鉄道は同法の対象とはされていない)などに由来する交通事業者の統合機運も相まって、昭和18年12月23日付で吸収合併することとなったのです。

 この合併に際しては、戦時下ということもあり、不要不急路線の運行休止が数多く行われています。三共は53の免許路線を持っていたのですが、既に休止していた22路線のみならず、あらためて不要だと判断された路線についても休止され、伊予鉄道に運行が引き継がれたのはわずか16路線のみでした。

 内子線は代替交通機関が一切ないということもあり、流石に存続はしていますが、非力な代燃車のうえ、木炭の配給ですら事欠く世情を考えると、とうてい満足のいく運行が行われたとは思えません。このように首の皮一枚でなんとか終戦を迎えることになるのです。

 戦後の本格復興は昭和22年からはじまります。6月の石油配給公団設立によりガソリンの供給が徐々に安定化されていったことなどが理由です。同年には新車の割り当ても復活しており、昭和24年1月には戦後復興期の象徴とも言えるトレーラーバスが松山市内にお目見えしています。路線の面では、まず松山市内を中心として休止路線が順次復旧し、続いて地方の休止路線復活、そして純粋な新路線の開設(昭和24年に10路線、25年に14路線)と目覚ましい復旧・発展を遂げることになるのです。

内子管内路線図
トンネル建設に伴う切替で
開業当時とは一部異なる
  このようななか昭和26年に開設された12の新路線のうちのひとつとして、内子線の支線的性格を持つ佐礼谷線が3月2日に運行をはじめています。同線が免許されたのは2月2日。既存内子線の伊予郡上灘町丙1226番地から、同郡佐礼谷村乙132までの、5.0キロの区間です。開業時のダイヤは佐礼谷を7時半に出て郡中に8時着、郡中を17時半に出て佐礼谷に18時に戻ってくる1往復きりのダイヤで、運賃は全行路で大人38円でした。延伸に伴う新設停留所は、仁生から佐礼谷までの5箇所、加えて佐礼谷に車庫が設置されています。

 当時の運輸省文書によると、開業にあたり常用とされた車両は既所有の昭和23年式ニッサン「2B50」形式で、総定員は35人、ガソリンエンジン車ながら木炭発生炉つき、ということですが、該当する形式が思い当たりません。年式と燃料種別が正しいとすると、戦時型トラックシャーシを利用したニッサン(日産重工業→日産自動車)180型ないし190型だと思われますが定かではありません。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。なお、佐礼谷へ木炭車が入ったのは僅かな期間だと思われます。佐礼谷線が開業した翌月に石油行政権がGHQから日本政府へとを委譲されているのですが、これに石油事情のさらなる好転などが相まり、それまで禁止されていた代燃車からガソリン車への転換・復原が一転して推奨されるようになったのです。

社内報より竹之内線開業記事
  ともかく、このような形で佐礼谷にバスが乗り入れてきました。これにより松山方面へのアクセスは劇的に改善されましたが、佐礼谷は中山町に属していますから役場のある中山方面への直達便が次に求められるようになりました。そんな要望を受けて昭和32年4月1日から、佐礼谷方面に新たな路線が拓かれたのです。

 既存佐礼谷線の途中、佐礼谷局前停留所から、中山に近い内子線長沢までをショートカットする新たな経路を設け、松山と中山・内子方面を結ぶ便を佐礼谷局前経由へ変更するというものです。この運行に先立ち、昭和32年3月22日、中山町佐礼谷丙1070の1から中山町子448の1まで、2.1キロの間が竹之内線として免許されています。

 この変更により、佐礼谷線開業当初に設定された郡中・佐礼谷間の便と合わせて、内子発7時、13時10分、16時20分の松山行き、松山発6時半の鹿野川行きおよび13時、19時半発の内子行きが佐礼谷集落(佐礼谷停留所には入らない)を経由するように改められました。結果、実に本数にして4倍、松山側・中山側双方の滞在時間も大幅に長くなるという、たいへん利便的なダイヤとなったのです。

**衰退史**
 以降については、断片的な資料しかありませんので、わかる範囲でのみ記述します。

 まず、佐礼谷・郡中線(昭和26年開業区間)の松山市駅延伸時期についてです。
 佐礼谷線運行開始から県バス協会年報で確認できる昭和38年までの間において、全便郡中までであったものがいつの間にか0.5往復を残して松山市駅まで延伸されています。【昭和58年10月16日改正】時刻表をみても、佐礼谷方面行きは郡中始発11時半と松山市駅17時半、松山方面行きは2便とも市駅行きで7時15分発と12時7分発となっており、おそらく昭和38年以降、大規模な時刻改正は行われていないものと思われます。
 そんなわけで、市駅乗り入れの時期については、竹之内線が運行をはじめた昭和32年改正が最も自然だと考えております。

 そして、佐礼谷・郡中・松山市駅直通便の廃止時期ですが、伊予鉄道百年史で確認することが出来る【昭和60年11月15日現在】の運行回数表では、毎日1往復の運行を確認することができるものの、【平成2年12月25日】改正時刻表では全く確認できません。
 よって、 昭和58年から60年にかけて1往復化、そののち平成2年までに佐礼谷局前・佐礼谷間の路線もろとも廃止されたと考えられます。

 最後に、竹之内線開通に合わせて設定された佐礼谷局前経由便についてです。
 【平成2年12月25日改正】時刻表によると、上りが五十崎始発の松山市駅行きと内子始発の佐礼谷局前行き、下りが佐礼谷局前始発の中山行きと同じく佐礼谷局前始発の内子行き、そして松山市駅発の五十崎行きの、上り2本下り3本の2.5往復が設定されています。
 【平成5年10月16日改正】では、松山市駅乗り入れは上りのみの0.5往復に、全体でも2往復になっています。
 【平成6年3月16日改正】では、松山市駅乗り入れが廃止され、1.5往復に。更に朝の佐礼谷局前始発、夜の佐礼谷局前終着がともになくなっているので、夜間滞泊が存在していたとすると、この改正で廃止された可能性が高そうです。
 次に大きな変化が見られるのは、【平成9年4月1日改正】の時刻表で、ダイヤは基本的に変わらないものの、佐礼谷局前・佐礼谷間が久しぶりに復活しています。以前、運転士さんに伺ったところによると、通学生の利便を図って延伸したとのことでした。(追記:1)
 【平成11年9月8日改正】も、1.5往復の基本ダイヤは変わらないものの、更に通学生の利便を図って、下校便に冬ダイヤと夏ダイヤが設定されています。
 しかし、既述の通り【平成23年10月改正】で全便廃止となっています。それにしても、最後は12年以上に渡ってダイヤが全く変わっていなかったのですね。

佐礼谷線免許 これで待ちに待ったバスがくる
**佐礼谷線のその後**
 伊予市では、平成21年2月より、過疎地域住民を対象とした公共交通機関に関するアンケート調査の実施や、佐礼谷地区を含む当時の路線バス運行地域における意見交換会の開催を通して、新たな公共交通システムの導入に向けて検討を行ってきました。
 その結果、市営過疎バス(廃止代替バス)を含む路線バスの大幅な削減と、デマンド型乗合タクシーの導入が決まり、平成23年9月15日から月末まで行われた試験運行を経て、10月より路線バス廃止と引き換えに本格導入が行われました。
 したがって、佐礼谷線の沿線には、代替バス等も全く走っていません。

 デマンド型乗合タクシーは事前登録が必須であることなど、旅行者には冷たい乗り物です。しかし、登録さえしてしまうと、乗車の1時間前までに電話予約をするだけで、ドアtoドアのサービスが300円均一という低廉な価格で受けられるのです。
 バスファンとして寂しく思う気持ちはありますが、地域の実情にマッチしている素晴らしいシステムであるとも思っています。

(追記:1) twitter @sland81 さんより、情報をいただきまして、佐礼谷までの運行が復活した【9年4月改正】は佐礼谷中の閉校と同じタイミングとのことです。ありがとうございます。

(誤りがあればご教示いただけると幸いです/出典の明記は一部を除き省略しました/あくまで読み物として捉えてください)