久万の営業所を出発したロートルバスは、いつしか暗い杉林のなか、ヘッドライトを灯して走っています。
そして、いまが真っ昼間であることを忘れそうになったころ、終点に着くのです。
後ろには放棄林が 顔に陽が当たる区間はほんの僅かばかり |
杣野前組は、山林面積が9割を超えている久万高原町にあっても、 ひときわ目立つ純山村です。バス停の北側にわずかばかり広がる急な段畑が、集落の平地全てと言っても過言ではなく、農業といえばそこでタバコや茶などが栽培されているにすぎません。
ここは、杣夫が築いた、林業のための集落なのです。
「前組」という一風変わったバス停の名前は、その成り立ちをよく示しています。江戸時代の杣夫たちが指導者のもとで集まり、杣小屋で共同生活を行うことを「組」と呼ぶのですが、前組とは、まさにこの「組」から取られた地名だと思われます。
はたして冬季の寒冷は厳しく積雪も多い当地は、長らく人里からは遠いところであったと考えられ、いつ拓かれたか、詳しいことは全くわかりません。
とはいえ、あたり一帯では「若宮」と呼ばれる杣夫が郷土開拓の神として祀られており(「若宮信仰」)、ここはやはり古よりずっと木々とともに暮らしてきた集落なのでしょう。
県道が交差する場所にある終点だけは開けていた 集落はここから北へ階段状に広がっている |
それにしても、どうしてこんな山深くで人々の営みが生まれたのでしょうか。それはひとえに、四国でも有数の寒冷地であったからです。寒冷地で少しづつ育った木々は、年輪の目が細かく、美しい杢目と強度を併せ持つ名木になるのです。
杣野がいかに良材を生み出したかを伝える話が『面河村名所旧蹟史』にあります。ろくろを使って椀や盆を作る木地師「小椋氏」が、わざわざ名木を求めて京都から移り住んできたというものです。美作や備後を経て、ようやく辿り着いた土地が、ここ杣野なのでした。江戸時代には、この静かな山村で作られた椀や盆が、割石峠を越え、松山を経て大坂の木地問屋に出荷されていたといいます。
しかし、戦後になると、多くの山村の例に漏れず、杣野の林業は壊滅します。燃料革命に加えて、木材輸入の自由化が追い打ちをかけたのです。ことに他に頼る産業のない杣野では、この変化に対応できるはずもありません。
前組の手前にある宮前集落 廃屋が痛々しい |
バスが入る前年、昭和35年に596人を誇った前組の人口は、わずか19年後の昭和54年には181人へと激減し、この年には地区で唯一の学校であった石墨小学校が閉校しています。そこから5年後の59年にははやくも100人を割り込んでおり、更に30年を経た現在の人口は、推して知るべしだと言えましょう。
もちろん、バスの本数もそれに合わせるように削減されました。平成初期までは、朝と昼に集落を出発し、昼と夕方に戻ってくるという、2往復ながら実用的なダイヤであったのが、最末期には1往復、それも昼間に集落へ向かい、すぐ折り返すだけの、使いたくても使えないダイヤに変わってしまったのです。
バス停から少し離れたところに車庫が残っている 滞泊の名残である |
木漏れ日の道だったであろうバス通りも、いつの頃からか無造作に茂る放棄林にかこまれて、万年日陰となってしまいました。杣夫の村が嘘のようです。
それでも伊予鉄バスは、薄暗さに負けぬようヘッドライトを灯し、老体に鞭打って、なんとか頑張ってきました。ですが、それももう限界。
杣夫どころか、集落そのものが消えていこうとしている杣野前組には、定員56名のバスは大きすぎたのです。
こうして、平成26年10月、伊予鉄南予バスらしいローカル線が、またひとつ消えていきました。
■伊予鉄道自動車部久万営業所管内路線成立史
現在の久万高原町域にはじめてバスがお目見えしたのは、大正8年のことです。広島県加計町の児玉氏と香川県大川郡の小西氏による共同出資により設立された中予自動車商会の手によって、松山の河原町(立花旅館前、立花橋の南詰、実際は立花町にあった)と久万を結ぶ路線の運行が始められました。
なお、その後の同区間では複数社による過当競争や、三共自動車によるそれらの統合、鉄道省による路線買収など様々な動きが見られますが、現在のジェイアール四国バス久万高原線(昭和9年に三共自動車から松山・久万・落出間を買収)に当たる区間ですので、 当稿では割愛いたします。
改めて現在の伊予鉄南予バス久万営業所管内の営業路線に焦点を当てると、最も古いのは仕七川・久万(・松山)間で、大正12年に面河自動車の手によって運行が始められています。同社は久万町の小倉氏、湯浅氏、仕七川村の新谷氏らによって同年に設立されており、後に中央自動車、三共自動車を経て、昭和19年に伊予鉄道へと吸収されます。
仕七川・久万間運行開始後の展開は不明ながら、伊予鉄道がバス事業を開始した時点では、上述の仕七川方面線の区間を含む御三戸・栃原間と、通仙橋・渋草間、仕七川・水押間、久万・畑野川間の4路線(免許交付日は全て18年12月23日)がありました。おそらく省営バスと連絡する御三戸ないし久万を起点に各終点を結んでいたと思われます。
戦後の拡充は、まず昭和23年に栃原・若山間が延伸されたことに始まります。昭和24年には畑野川・上直瀬間(現在とは異なり、現県道153号線経由)が開通、そして昭和25年には清瀬橋・仕七川間が開通し、現在のメインルートである嵯峨山を経由(但し、峠御堂トンネル開通前につき中野村経由)する久万発、若山、渋草、水押行きの運行も始まります。
なおも路線拡大はとどまることを知らず、昭和26年の渋草・竹本間延伸に続いて、昭和27年には若山・関門(昭和30年に面河と改称か?時期不明)間が延伸開業。昭和30年には国鉄との相互乗入協定(久万・御三戸・面河間)の発効に伴う御三戸発着便の久万延長(久万・御三戸開業)も行われています。
幹線ルートの整備が一段落した昭和30年代には、枝線の開設・延伸が相次ぎます。まず昭和32年には伊予落合・富重間、直瀬公会堂・清瀬橋間、畑野川・明杖間が一挙に開通。昭和36年には一の谷・杣野前組間(杣野線)と久万・久万役場間(久万以遠線)が、昭和37年には明杖・河之内間(河之内線)がそれぞれ開通しています。
なお、富重延伸をもって小田線と接続し、それまで孤立していた存在であった久万管内線は、松山を中心とした伊予鉄バスネットワークに組み込まれていくことになります。河之内線開業と同じ昭和37年には、室町営業所所管路線ながら、黒森峠経由で松山・面河を直結する面河特急線が開業。その3年後の昭和40年には念願であった松山・久万(・面河)間の直通快速バス(久万特急線)も実現しています。
この久万特急線の開業をもって久万管内の路線拡大にはほぼ終止符が打たれたと言っても過言ではなく、昭和40年代の新規開業は石鎚スカイライン開通に伴う昭和45年の面河・石鎚土小屋間延伸のみです。そして、峠御堂トンネル供用開始による久万中学校前・畑野川間の短絡ルートが開業した昭和50年に、久万営業所管内の路線網はピークを迎えるのです。
※稿を改めて路線廃止についてもまとめます。/富重線の馬野地乗り入れは、学校統廃合によるもので、(確か)平成20年の延伸です。久万管内で最も新しい区間ということになります。(とはいえ、森松管内線であった小田・久万線の部分復活ですが。)/昭和37年の路線図表において、水押の一つ先に「峠」というバス停が見受けられます。詳細はわかりません。/県道153号線経由の畑野川・峠・直瀬公会堂間は昭和58年時点で存在していませんが、廃止の時期は不明です。
(主要参考文献)
面河村史/伊予鉄道百年史/社内報「いよてつ」各号/県バス協会年報各号/S58年秋時刻表
※参考文献の適当な書き方でもわかる通り、あくまで「参考程度の読み物」として捉えてください。
※事実誤認等、内容に関することについてご教示いただけると喜びます。
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