■中島汽船バスの歩み
主要道路すら貧弱な中島に、はじめて自動車がお目見えしたのは、戦後混乱期を脱した昭和27年のことでありました。大浦で商店業を営む富永忠がハイヤー営業の認可を得たのです。唯一となる自動車は三菱機械工業製・ジャイアントAA7型コンドル(8人乗り)、いわゆるオート3輪であり、営業と運転は弟の富永考がひとりであたったそうです。
与えられたのはハイヤー免許ながら、住民の希望もあって実際はバス運行の形をとっており、大浦~神浦間を日に9往復、全区間の運賃は30円でありました。「バス」は1台しかなかったため、車検こそ島内で行う許可を得たものの、検査・整備は主に夜間に行わざるを得ず、故障運休も珍しくはありませんでした。また、当然ながら無認可の乗合行為は高松・松山の両陸運局から度重なる注意を受けており、運行の安定・健全化を図るために、昭和33年6月に町営移管が行われたのです。
バスの運行業務は既存の観光課を改組した運輸観光課があたり、その管理は引き続き富永考が担当、車庫も既存のものを活用しました。町営移管後は道路整備を待って順次路線網の拡大が図られます。まず昭和34年3月に大浦宇和間を延伸、同年12月には吉木(※)、昭和35年の車庫・営業所新築を挟んで、38年8月には饒、39年5月には大浦から北へ粟井まで、40年6月には粟井~大泊口・饒~畑里がそれぞれ開業し、いよいよ42年5月には島内一周運行がはじまります。そして、中島唯一の隧道である辻堂トンネルの開通を受け、昭和46年3月に島を横断するトンネル線(大浦~西中港)が開業。このとき現在まで続く路線網が完成をみたのです。
(※)吉木については民家の立退き問題で交渉が難航し、34年に乗り入れたのは吉木集落の西端にあたる吉木墓所(停留所現存せず、吉木より150米ほど西側)まで。現在の吉木停留所まで達したのは38年8月。
なお、40年7月から町内を区域とする貸切営業も開始し、48年8月には松山市・北条市へと営業区域を広げています。
このようにして町営バスは中島に欠かせない交通手段となっていきました。しかし、ながらく続いた町によるバス運営は、平成大合併によって終わりを迎えることになります。過疎化に悩む中島町は松山市への吸収合併を希望したのですが、この際に松山市から提示された条件が、慢性的な赤字を抱える町営汽船および町営バスの民営化でありました。これを受け平成15年10月に民営化方針が示され、同年12月に石崎汽船が譲渡先企業として選定されます。こうして石崎汽船と町内全地縁団体の出資によって設立された中島汽船株式会社へと一切の事業が譲渡されることになりました。
そして平成16年10月1日に大浦港において出発式が開かれ、同日より中島汽船バスが走り出しました。平成11年の弓削町営バス廃業(自主運行化)以降、愛媛県唯一となっていた公営バス(※)はここに消え、中島のバスは半世紀を経て再び民営に戻ったのです。
(※)地方公営企業法に基づくもののみで、廃止代替バスを除く。
■年表
昭和27年10月 株式会社富永商店にハイヤー免許が交付される。大浦~神浦間にて事実上の路線バス営業開始。
昭和33年6月 温泉郡中島町運輸観光課に移管。大浦~神浦間免許、正式開業。同時に宇和間までを出張診療に向かう町立中央病院の医師用「病院診察車」名義での定期試運転開始。
昭和34年3月 神浦~宇和間間正式開業。
同年12月 宇和間~吉木墓所間開業。
昭和35年5月 車庫・営業所を新築。
昭和38年8月 吉木墓所~吉木~曉間開業。
昭和39年5月 大浦~粟井間開業。
昭和40年6月 粟井~大泊口、曉~畑里間開業。
昭和40年7月 貸切営業開始。
昭和42年5月 畑里~大泊口間開業。環島路線の完成。
昭和46年3月 トンネル線(大浦~西中港間)開業。
昭和48年8月 貸切営業区域を北条市・松山市へ拡大。
平成15年10月 松山市の合併を見据え、民営化の方針を提示。
平成15年12月 譲渡先企業を石崎汽船に決定。
平成16年4月 中島汽船設立。
平成16年10月 中島汽船が町営汽船・バスの全事業を譲受。営業を開始。